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映画『少女は卒業しない』 学園に置いてきたもの

卒業式を翌日に控えた、高校三年生の少女四人の群像劇。
卒業という区切りを機に、それぞれがそれぞれの大切なものに別れを告げる、美しくも切ない青春の一幕。
私の高校生活にこんな美しい煌めきは一欠片もなかったが、少女たちの姿には共感要素の多寡とは関係なしに胸に迫るものがあった。
彼女たちが身を切るような思いで大切な宝物を手放すその痛みが、青春の甘酸っぱさなどという通俗的なイメージの枠を突き破ってひしひしと伝わってきたのだ。



卒業という強制的な区切りは、ある種の暴力だ。
残された人生が日々着実に減っているのだと、後戻りの効かない時間の無慈悲さを意識させられる。
大学生になっても社会人になっても、いや、むしろ年を取れば取るほど、何かを諦める機会は増え、取り返しのつかない後悔は募っていく。
この映画で描かれた少女たちの決別は、これから直面することになる多くの別れの序章という意味では悲劇であり、しかしまだ多くの時間が残されているという意味では希望にも満ちてもいる。
そのアンビバレンツが、俗に言うエモさなのかもしれない。



自分とは、他者とは何者なのか。
愛するとは、愛されるとはどういうことなのか。
私の人生はこれでいいのか。
幸せとは一体何なのか。

思秋期や第二思春期、ミドルエイジクライシスという言葉に象徴されるように、多くの人が抱える悩みは、大人と呼ばれる年齢になっても10代の頃と根本的なところでは何も変わっていない。学園に心が囚われたまま卒業できていない人は、決して少なくないように思う。

知識や経験を積み重ねて立派な肩書きが得られても、本質的な問題からは目を逸らしたまま。
いや、むしろその知識や経験が、目を逸らすための道具になっていることはないだろうか。
今よりずっと視野が狭かったあの頃の方が、ある意味真摯だったように思う。


心に刻まれるのはラストシーンだ。
河合優実演じる山城まなみが、自らをどうにか奮い立たせて、涙ながらに答辞を読み上げる。
溌剌とした前向きなエネルギーを見せるその裏で、実は真剣に考え悩み傷ついている、10代特有の強さと脆さ。
そこに、青春だ若さだなどとタグ付けして他人事にしてしまうような大人に、私はなりたくない。

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