見出し画像

映画『シン・仮面ライダー』 ヒーローの条件

庵野秀明が関わった、シン特撮シリーズ第3弾。
聞こえてくる噂はネガティブなものが多い印象だが、3作の中では今作が一番好みだった。


正直なところ仮面ライダーシリーズには特に思い入れはなく、幼い頃数シリーズだけ見ていた記憶と、親におもちゃを買ってもらった記憶が朧気にある程度だった。
それ故さして期待もせず見に行ったのだが、予想を遥かに超える感動が待っていた。


まず何より、ビジュアル的な要素が大きかった。
庵野作品らしい、ユニークなカメラアングルで切り取られた美しい構図の画面に、自分が好きな役者たちが映し出される。
なんでもないシーンでもどんな見せ方をしてくれるのか、常に次の画面を楽しみに見続けることができた。

しかし、理由はそれだけでない。
人間の孤独。
自己の肯定。
他者との共存。
そこには実に庵野作品らしいテーマが散りばめられていた。
自分が通ってこなかった往年のシリーズという取っ付きにくいイメージを払拭することができたのは、そのテーマが馴染み深かったからだろう。

その主題は映画が始まって間もなく、本郷猛の”コミュ障”という属性が明かされる形で早速提示される。
主人公でありこれからヒーローとなる彼が、運動や学問などの能力は高いにもかかわらず、他者とのコミュニケーションに難があり職にあぶれているという設定は現代的でユニークだった。
その背景にあると思われるのが、幼い頃に警官である父を目の前で犯罪者に殺されたというトラウマだ。彼は社会の理不尽さ、そして父を救えなかった自身の無力さに絶望し、生きづらさを抱えていた。

さらにSHOCKERという組織の設定もまた面白かった。
悪の組織というイメージとは裏腹に、組織の創設者には、人類の幸福を目指すという崇高な理念があったのだ。
そこで組織の中枢たる人工知能がはじき出した幸福へ至る手段は、最大多数の最大幸福ではなく、深い絶望を抱える人間を救うというものだった。
彼らは絶望の深い人間をサンプルとして集め、彼らの望みを叶える資金と技術を援助した。
その結果、人類に脅威を与える怪人が生まれてしまう。

つまり、怪人も仮面ライダーも、世界に対して深く絶望した経験を持ち、それゆえ生きづらさを抱えていた、という点は共通しているのだ。
では、彼らのうち一方が怪人になり、他方がヒーローになった、その違いを生んだ要因はなんだろうか。

ここで頭をよぎるのが、政府の男 、立花が本郷にかけた言葉だ。
絶望は誰の中にもあるーーーただ、その乗り越え方が人それぞれ違うのだ、と彼は言った。
また、ルリ子が一文字の洗脳を解くシーンでは、SHOCKERでは悲しみの記憶が封印され、さらに多幸感を与える洗脳がかけられていることが明かされた。本郷がずっと向き合い続けてきたトラウマを、怪人たちは忘却していた可能性が伺える。
そして、一文字は過去の悲しみの記憶を取り戻すことで、仮面ライダーとなる。

ということは、怪人と仮面ライダーを分けたものは、絶望を自らの力で乗り越えんとする姿勢と覚悟の有無ではないだろうか。
このヒーローの条件が、私はとても好きだった。
絶望の深さを他人と比べる必要はない。もとより比べようがない。
ただ、己の絶望に向き合い続けること自体が、英雄的な行為なのだ。
絶望に陥った人に必要だったのは、忘却でも超能力でもなく、そんな些細な肯定なのかもしれない。

そして、絶望を忘却した怪人たちが欲望のまま叶えようとした願いは、どれも自身と異なる他者を制御、あるいは支配、あるいは排除しようとするものだった。結果として、おそらく彼らが被ったであろう世界の理不尽さを、今度は彼ら自身が体現することになる。
だが、本郷はその先に幸福がないことを知っているから、他者、すなわち世界を変えるのではなく自分自身を変えようとした。
いや、知っているのではない。おそらく信じているのだ。

この”信じる”というのも一つのキーワードだろう。
本郷は無力な自分のことを、ルリ子は信用ならない他人のことを「信じてみることにした」と言った。
特にルリ子は、劇中で繰り返し「私は用意周到なの」と口にするのが印象的だ。一方で彼女は、父のことを愚かだと評している。不確かで十中八九失敗することが目に見えているのに挑むなんて馬鹿げていると。
不確実性を嫌う彼女だからこそ、不確かな要素である他者を信用しなかったのだろう。
しかし、そんな彼女が信じてみたいと思えたのが、仮面ライダーという存在だった。
ここに本作のヒーロー像が見える気がする。


彼女の他者への不信は、本郷や怪人たちが抱える世界への絶望に通ずるものだろう。
それは裏返せば、自分とは異なる他者という存在への恐怖だ。

「だけど、それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を……見捨てるんだ」

新世紀エヴァンゲリオン劇場版  Air/まごころを、君に


しかし、それでもすがりたくなる。
人は互いに分かり合えるかもしれないという、かすかな希望に。

「でも……僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」

新世紀エヴァンゲリオン劇場版  Air/まごころを、君に


そんな、この世界に賭けてみたいという人のなけなしの思いの受け皿になるのが、ヒーローという存在なのだ。
自分は変わることなく他者を変えようとして、ついには自らが世界に絶望を振りまく存在になってしまった怪人との対比は明白だろう。
それはすなわち、世界に希望が残されていることを示す存在だ。
その希望は知らない他者のものではなく、間違いなく自身にとっての希望でもある。


こうして極めてプライベートな問題に押しつぶされそうになっている弱い人物が、他人の願いの受け皿になる覚悟を決めることでヒーローとなる。
そのナイーブなヒーロー像を、平松壮亮は実に見事に体現していたように思う。
そしてこのヒーローの成り立ちを見ていて、ふとシン・エヴァンゲリオンのことが頭をよぎった。

作中で碇シンジは失語症を乗り越え、驚くほど成熟した態度を見せるが、しかしその変化が当時はなかなか腑に落ちていなかった。
しかし、シンジもまた自身が経験した絶望に向き合い、黒レイとの別れを契機に本郷のような覚悟を決めたのだとすれば、あのヒーロー然とした姿にも少し納得感が生まれる気がしたのだ。そこにあったのは確信ではなく、祈りのようなものだったのかもしれない。


エヴァとはまた違う形で、他者とともに生きていくこと、他者を必要とする弱い人間の在り方を肯定したこの作品が私は好きだ。
ヒーローだって例外じゃない。
変身して仮面を被る時、その内側には愛する誰かが共にある。

人はそれぞれ絶望を抱え、それぞれの乗り越え方を見つける。
誰にも完璧に理解することはできないし、手伝うこともできない、とても孤独な戦いだ。
それでも、安易に世界を否定したくなる気持ちを抑え、己を諦めず、他を信じて、その絶望に立ち向かい続けられたならーーー。


きっと、その姿は英雄と呼ぶに相応しいだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?