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教育ログ10人目(灘・現役→東大理一)

0.今回の教育答え合わせさん

→灘高校から東京大学理一に合格されたはだかの大将さん。今改めてご自身の教育を振り返った結果はこちら!

「受験社会における教育という意味では高得点だったと思いますが、実社会に出て通用する人材になれたのか、というところでは30点!かな?笑」と語るはだかの大将さんの教育答え合わせに迫ります!

※本企画は、難関大学合格者が幼少期からどのような教育を受けて、そして改めて振り返った上で、それが学業成績に「どう作用したか」という観点から思い出し・分析する、という趣旨となっております。
企画者及び回答者に、学歴社会の肯定もしくは高学歴を推奨する意図はございません。


1.回答者略歴


Q:お名前を教えて下さい。
→はだかの大将

Q:年代を教えて下さい。
→アラフォー
 
Q:ご自身の幼少期のキャラクターについて教えて下さい。
→お調子者だが、運動も勉強もできる秀才タイプ。でも内面は結構ビビりで繊細。
 
Q:ご自身の性格について、以下の観点でお答えください。

Q:最終学歴を教えて下さい。
→東京大学工学部卒
 
Q:そこまでのルートを教えて下さい。
→公立小学校→灘中学・高校(中高一貫校)

Q:大学合格時点での学習能力の自己採点をお願いします。

※各5点満点の6要素で15点以上となるよう配分をお願いしています。

Q:ご自身の各学習能力に関してどう考えていますか?

① 自走力・自律性 :4P
周りのアドバイスももちろんあったが、自分でスケジュールを立てて、それに沿って自走していくことは、しっかりできていたと思う。

② 要領の良さ :3P
要領は良くなかったので、周りに見せないところで努力してカバーしていた。

③ 持久力・耐久性 5P
受験期ほどまでに勉強したことは無いし、大人になってもあれほど働いたことはないのではないか、というくらいタフだったと思います。

④ ストレス耐性 4P
基本勉強を楽しいと思ったことがほとんどないので、楽しくないことに耐えるストレス耐性が非常に身に付いていたんだなと大人になって気づいた。
ただし、たまに爆発。

⑤ 理解力 2P
割と感覚で問題を解いていたタイプなので、たまに奇跡的に超難問を解けたが、再現性が無かった。

⑥ 関心範囲の幅 2P
おもしろいとか興味という基準ではなく、勉強しないといけないという理由で勉強をしていた。

【学習スタイル】
勉強してない風を装って、実は裏で勉強していた嫌なタイプだったが、その割に、結果が悪いこともあり、周りにいた天才タイプとは違うなと当時から理解をしていた。

なので、才能を努力でカバーするという精神でがんばっていたので、そのおかげで、嫌なことも我慢して実行する、という精神が(いいか悪いかは別として)培われた。多分、昔のサラリーマンとしては優秀な駒になれたのだろうと思う。
 
Q:教育の得点配分を教えて下さい。

Q:得点配分の意図を教えて下さい。
→まず親が地元の公立中学の治安が悪すぎるので、子供を入れさせたくなかったところから開始しており、中学受験はマストのもので進んでいた。(兄も中学受験組)

父親が小学校の塾に通っている時は、宿題のスケジュールを作ってそれに沿って行っていた。自分の中では受験するということが当たり前で疑問を頂いたこともなかった。


2.保護者の教育スタンス(配点25点)

Q:ご家族の最終学歴について教えて下さい。
→→父親は大阪大学卒 母親は不明(おそらく3流大学卒)
  兄も大阪大学卒です。

Q:保護者の教育方針はどのようなものでしたか?
→方針というほど何もなく、とりあえず塾に行って、そこでの宿題を淡々とこなしていた感じ。

母親が学歴が低く、そこに対してのコンプレックスが高かったので、受験熱は高かったような気がするが、勉強しなさいとはあまり言われなかった。
(言われなくてもしていたし、少なくとも母親よりはしてる!という自負もあったため)
 
Q:その教育方針はご自身の学業にどう影響したと思いますか?
→父親がやる宿題を整理していたため、そこまで深く考えずに「宿題はやるもの」という習慣が身に付いた。

あとは、やはり小さいときから塾に通わせてもらって、初めにそれなりに上のクラスにランクインしていたのが大きかったかもしれない。どこの階層にいても、その集団の中の中上位あたりをうろうろするタイプだったので、クラスが上であればあるほど、その効果が発揮されて全体で見たときに上の集団に分類されていたのだと思います。

Q:教育に関するご両親(と)の関係性、距離感について教えて下さい。
お母さんがトンチンカンなことを言うと、父親が 諫める感じの空気感でした。仲が悪いということでもありませんでしたが、母親は少し気を使っているような感じはありました。

Q:ご両親は学業に関してどんな接し方でしたか?
→中学受験以降は、そこまで勉強をしろとか言われることはなかった。

今考えると、“ここの塾が良い!”となると(親からではなく、子供同士の中の情報交換で。当時はネットなどにそういう情報があったわけではないので、学校で回っていた噂を元に判断)、そこに行きたいということに対しては積極的に投資をしてもらっていた。

Q:今振り返って学業につながった、家庭内の文化や習慣があれば教えて下さい。
→正直、勉強習慣としては何もなかったと思います。

でも、塾に行く際の送り迎えや塾用の弁当、教育費など、不自由なく支援してもらったので、自分が当時の親と同じような年になり、そういった支援をしてもらっていたことが非常にありがたく、また凄いことだなと感じています。
あと、テストで点数を取るということに対してそこまで苦手意識がなく、勉強の中身より、そういうところに楽しみを見出していたかもしれないなと思います。

Q:ご両親の教育スタンスについての小計を教えて下さい。

まずは小学校の時のお父さんが作ってくれていた宿題の管理スケジュール、これを習慣化させていたので、定期的に自分でスケジュールを区切って勉強する習慣が小学校で身に付いたのが大きかったのではないかと思いました。

また、送り迎えやお弁当などそのあたりは母親がよく支援をしてくれていた。そういう意味では、勉強しやすい環境を作ってもらっていたなとは感じます。

2点減点の理由は、かなりワガママかもしれませんが、“これ!”というイズムを何か伝授してほしかった。


3.~小学校時代※小学受験含む(配点40点)

Q:小学受験はしましたか?
→していません。

大阪のあるあるだったのかもしれませんが、小学校受験をしてもそんなに良い小学校が無かったような気がします。また、小学校1年の1年間だけ親の仕事の都合でアメリカにいたので、そもそも受験の検討すらされなかったのではないかと思います。

Q:小学校の頃の学業成績について教えて下さい。(全6レベル)

→小学校2年の終わりから塾に通い始めたが、基本的には塾では上位のクラスにおり、小学校でのテストは、ほぼいつも満点でした。小学校5,6年のころの学校でのあだ名が“神”でした。今となっては、“髪”をいじられますが…

Q:小学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?
→とりあえず塾があるので、その宿題をこなさないといけない、というスタンスだったと思います。

Q:小学校の教育環境についてはどう考えていますか?
→小学校の先生は、皆さん受験にアンチなスタンスでした。

まわりの子供たちの中には、一部塾の宿題を学校でする子がおり、そういう子は先生に嫌われていた。 なので、自分は、小学校は小学校で楽しみつつ、塾は塾で楽しむようにしていた。
それぞれ別のコミュニティで、そこに合わせた生活をしていたイメージです。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

→正直に言うと、あまりどういうスケジュールで勉強をしていたか記憶がありません。

というのも、高学年あたりになると、ほぼ毎日学校終わりに塾があり、学校から帰ってそのまま塾に行って、早ければ19時に終わり、遅いと21時くらいに終わり、その後、家に帰ってご飯を食べる、というような割とハードな生活が続いていたからで、おそらく塾以外では2hくらいしか勉強はできなかったのではないかと思っています。

ただ、今考えても、どうやって宿題をこなしていたか、謎なくらい小学生にしてはハードだったなと感じます。
休日は休日で、“12耐特訓”という、12時間授業とテストを繰り返す講座などがあり、よくやっていたなと改めて思いました。

Q:小学校まで習い事は何をやっていましたか?

Q:学習貢献度の高い習い事について、始めたきっかけを教えて下さい。
→親から言われるがままに、浜学園に通い始めた。

Q:習い事についての振り返りをお願いします。
→浜学園の通塾のおかげで学校の勉強は特に問題なかった。また塾でも上位のクラスをキープできていた。
  
公文に関しては、ほとんど記憶がなく、初日に、先生に挨拶をするときに
メンチを切りながら「“●●(名前)じゃ”」と挨拶をして、親が震えたそうです。なので、その後、行かなくなってすぐにやめちゃいました。

空気が合わなかったのかもしれません。

Q:今振り返ってやればよかったと思う習い事は?
→特に無いのですが、やはり浜学園は第2の母校というくらいよく通ったなという印象。 
ただ、周りでも塾には通うが、怠けている人がいたので、どこに通うかより、通った中でどう努力をするかが大事だと感じました。

Q:小学校までの読書について教えて下さい。
→歴史が好きで、特に太平洋戦争とか特攻隊の話に興味があり、 漠然と“死”について考えて、夜にふと怖くなることが多かった。

ただ、そこまで積極的に色々読んだかというと、そういう特定のジャンルに偏っていたかなと思います。なので、日本史自体は好きだったのですが、中学校以降は、センター試験で得点しづらいという傾向が当時あり、結局日本史は先々専攻しなかったので、学力には影響しませんでした。

こういうところでも受験ファーストの勉強の弊害が出てなのかぁ、と今更ながら思いました。

Q:当時熱中していたことは何ですか?それは学業にどう影響しましたか?→当時はファミコン、スーファミ全盛だったので、友達の家でやっていたのと、学校では、メンコ(ベッタン)と友達自作のボードゲームなどをしていた。そのボードゲームは、同じ塾に通った子が作ったもので、塾の行き返り時も電車の中で遊んでいた。

Q:小学校時に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→実は、塾の宿題はしていたが、並行してテストのときにカンニングをしていた。

一度、塾の先生と親にバレて、めちゃくちゃシバかれて、「塾をやめさせる!」と言われた。勉強はしていたが、テストで分からないことがあると、カンニングをしていたので、学力自体というよりかは、自分への自信のなさだったなと感じました。またそれ以降きっぱりとそういうことはしなくなった。(おそらく小学校5年生くらいの時)

Q:小学生時代の教育環境の小計を教えて下さい。

→自分というよりかは、周りにしっかりと支えてもらっていたなと思います。親はもちろん、周囲に同じ塾に通っていた友達がいたのも大きかった。

4.中学時代※中学受験含む(配点25点)

Q:私立の中学受験は考えましたか?
→私立中学受験しました。
親は当初、大阪星光学院というところがあり、最低限そこに行ってくれれば…という感じでした。灘に受かった時はあまり記憶が無いのですが、喜んでいたと思います。ただそれよりも、一番最初に東大寺学園の受験があって、そこに受かった時が一番うれしかったかもしれません。

Q:中学行時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

→常に可もなく不可もなくの成績。
やはり、特定の集団の中で、中上位をキープするという特性がしっかり現れていたなと感じた。

Q:灘の同級生についての印象などはありますか?
→ここが特に無いんですよね~。すみません。

Q:中学生当時の勉強への意識はどのようなものでしたか?

→小学生の時に勉強をしすぎたので、中学校の時は、学校の宿題+αで何かをした記憶がない。

美術の先生からは灘中学の生徒は、“知識はあるが知恵はない” “伸びきったゴム”というような言葉を全体として頂いており、本当にその通りだったなと感じています。

Q:中学校の教育環境についてはどう考えていますか?

→進学校で周りに優秀な人が多かったので、遊んでいても やるときはやる、という人が多かったなと思います。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

普通に学校の宿題を真面目にこなすだけだったが、これくらいは必要だった記憶。

Q:中学校時の習い事について何をやっていましたか?

→なし。

Q:中学時代に学習・進学などで記憶に残る言葉はありますか?
→先ほども書きましたが、美術のH田先生の
   “知識はあるが知恵はない” “伸びきったゴム”。
  (おそらく出身が同じ人は、この言葉でわかると思います。)

Q:中学校時代の教育を振り返ってどう評価しますか?

→中学校の勉強の記憶がほとんどありません!

中高一貫だったので、なんとなく自分が苦手or興味を持てなかった科目は、
大学受験でも選択しなければいいかなと思い、(特に化学とか)定期考査でも捨てていたなと感じます。

今考えると、こういう考えが自ら勉強の幅を狭めていたなと思います。

若い時期に興味をもって、広く色々と学ぶことは大事だと今更ながら感じます。この時期に興味を持って、深く進んだ内容を学んでいた人は、その後その道の専門家になったりした人もいた。


5.高校時代※高校受験含む(配点10点)

Q:私立の高校受験は考えましたか?
→内部進学。

Q:高校時代の学業成績について教えて下さい(全7レベル)

高校1,2年生の時に成績が少し上がったのが、周りが勉強を本格化させる前にテスト勉強などに力を入れていたからで、3年生になって周りが力を入れ出すと、また元の位置に戻りました。

東大は、おそらく中学入学当時から意識をしていたと思います。

勉強を続けられたモチベーションは本当に周りも勉強をしていた、というところと、当時は、今みたいにスマホが無かったので、もう少し勉強に集中しやすい環境だったからなのでは、と思います。今の子供たちは誘惑が多くて大変そう。

Q:毎日どれくらい勉強していましたか?

Q:高校以降はどんな習い事をやっていましたか?

→学校内で、“この教科はこの塾の●●先生” みたいなのがあったので、それを参考に塾を選んでいた。
 
なので、河合塾や、駿台、研伸館などは、夏休みや冬休み限定で一部科目を受けるなどの講座の受け方をしていた。また、おそらくだが、進学校の生徒や、全国テストの成績が良かったりすると、講座の学費が優待されるような制度があったような気がしており、そういうのを利用していた、

Q:高校以降の教育を振り返ってどう評価しますか?

高3の最後あたりは、完全に受験マシーンだったなと思います。

東大受験の前日、脳みそパンパンに知識が含まれた状態を感じ何かしたら“こぼれる!”とさえ思ったが、そのような経験は、後にも先にもあの時だけだったと思う。

大学受験に関しては、進学校にいたことで、周りの仲間から、塾とかの有益な情報が集まったの大きかったなと思います。家族のサポートもありつつ、やはり同じ環境に立ち向かう仲間というのが重要だなと思いました。

5.答え合わせを終えて

→漠然と自分の今までの勉強や振り返りに関して、「こうしておけばよかった。」、というようなことを感じていましたが、改めて今回の企画を通じて明確化できたなと感じました。

正直に言って、学生の時より、社会に出てきて学んだことの方が濃密で、今の人生に役に立っています。逆に、そういう勉強をしてこなかった、目をあまり向けてなかった自分に問題があったのかなぁとも思いました。

今考えると、どういう学校にいってどういうところに就職する、ということを考えて勉強をし過ぎていたような気がするので、今やっているこの勉強が自分の将来にどう結び付けるか、自分はどうなっていきたいか、そういうビジョンを持つのが、やはり大事だと思います。

これからは世の中の環境変化も激しいと思うので、自らのビジョンの明確化というのが、勉強ができる/できない、以上に重要になってくるポイントだと本当に思います。

自分の家族のことで言うと、自分が今、人生に迷うサラリーマンとして働いており、子供の時は、弟より成績が良くないと思われていた兄は、弁護士として活動しています。このあたりから、勉強に関しては努力や才能はあるかもしれませんが、この世の中を生きるにあたっては明確な信念やビジョンの方が大事だと思います。

最近知ったハンドルネームの由来の山下清さんの言葉を下記に残しておきます、このくらいの精神で生きていくのが一番よいのかなと。昔はいい所へ行こうと思い過ぎていたなと思います。ただ、なんだかんだ言って、そう思っている自分も、悩む自分もやはり自分なので、嫌いではないですが笑

「自分がいい所へ行こう。行こうと思うと、少しもいい所へ行かれない。いい所へ行こうとしなければ、しぜんにいい所へぶつかる。いい所へ行こうとするから、いい所へぶつからないんだろう。」

6.編集後記

どうも、#1のカラシカシです。

灘→東大理一という日本最高の進学ルートを辿った方をしても「自らのビジョンの明確化というのが、勉強ができる/できない、以上に重要になってくるポイントだと本当に思います。」という回顧しているのがミソだなと思いました。

というのも僕は、『①灘くらい飛びぬけた天才・秀才が集まる環境で、なおかつ②そこまで受験勉強に時間を割かなくても学力が身につく資質(=時間の余裕)を持っていれば、「勉強は出来て当然でさらにその先を考える」スタンスがごく自然に生成されるもの』だと思っていたので…。



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