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水樹奈々はなぜ観客に携帯のライトを振らせるのか

※当記事は「NANA MIZUKI LIVE EXPRESS2019」のネタバレを含みます※

はじめてのnoteです、こんにちは。
ネットでまとまったテキストを書くのは、実に10年ぶり。中高で黒歴史ブログをやって以来です。その時のブログサービスは終了してしまいましたが、データを突っ込んだUSBメモリが実家のどこかにあるはずです。燃やしたい。

希望のかけらもないパンドラの箱は放置して、こちらで語るのはもちろん、敬愛する「水樹奈々」のこと。
界隈で噂の#オタク長文へのチャレンジです。

どれだけ続くかは分かりませんが、お付き合いいただけると幸いです。

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さて、初投稿の今回は「サーチライト」についてです。
絶賛開催中の「NANA MIZUKI LIVE EXPRESS2019」で、本編ラストを飾る曲。
なぜこの曲を取り上げるのか?という説明の前に、まずは基本情報から。

■「サーチライト」とは


2018年11月にリリースされた38thシングル「NEVER SURRENDER」3曲目に収録された楽曲。
作詞は水樹奈々・藤森真一。藤森さんは作曲も手掛けており、「エデン」に続く2作目の提供ですね。
また、奈々さんの故郷である新居浜を舞台とした映画「ふたつの昨日と僕の未来」の主題歌にもなっています。

■「サーチライト」を語る理由

「サーチライト」の初披露は2019年3月に愛媛県ひめぎんホールで行われた「NANA MUSIC LABORATORY 2019」。この時初めて、奈々さんから「"携帯のライトを翳して"という歌詞があるので、みんなにも携帯のライトをつけて振ってほしい」というお願いが。
わたしはあいにく現地ではなくLV参戦でしたが、これを聞いて心底ぎょっとしました。周りの観客も戸惑っていたのをよく覚えています。
ライブ中に携帯電話を取り出すというのは、紛れもないマナー違反。特に水樹奈々ライブでは写真撮影・録画・録音を厳重に取り締まっているので、タブーと言ってしまっても良さそうです。(だからこそ自由に写真を撮る矢吹さんが異様に映るのですが)
それなのに、「サーチライト」はナナラボに続き今ツアーでも同様の演出で歌われました。

歌詞に書いてあることとはいえ、なぜ奈々さんはタブーを破ってまで、我々観客に携帯のライトを振らせるのでしょうか?

#オタク長文 の始祖であるななしさんは、先日の京都公演の光景から「オタクの献身」「非対称性」を語っていました。

これに対し、いや、でも、そうかなあ?というのが率直な感想でした。
そんな一方的な献身を求める人だったら、それで満足する人だったら、こんなに好きになってないんだよなあ、と。
もちろんライブなので感じ方が人それぞれなのは当たり前。じゃあ自分なりの解釈をしてみようじゃないか!というのがこのテキストです。


■「サーチライト」の歌詞を読む

残念ながらわたしは映画を観ていないし、音楽への造詣も深くありません。なのでできることと言えば、ひたすら歌詞を読むことだけです。
これまでもいろんな曲の歌詞を読み、噛み砕き、妄想を膨らませ、自分なりの解釈を重ねてきました。よっしゃ「サーチライト」も読み解いたるぞ!と気合を入れ、さて最初の行――

灯台も霞むような 真っ暗な夜の海

――あれ?おかしくない?
まさか最初からつまづくとは思っておらず、つい眉を寄せてしまいました。
何が不思議なのかというと、本当に素朴で単純な疑問で恐縮なんですが、
真っ暗なら灯台は光を放ち、夜の海を照らしているのでは???

我らがWikipedia大先生も、灯台とは「塔状の建造物で、最上部には遠方からでも識別可能な強力な光源が設置される」と説明しています。ポケモン金銀でもデンリュウのアカリちゃんが一生懸命夜闇を照らすあまり病気になってましたね。ブラックか。

暗闇を照らすための灯台の光。それが見えないほどの暗闇…とは…? なんだこの矛盾。灯台下暗し的な意味とも思えないし…

発想を変えてみる。「霞む」ということは霧がかって光がぼやけていたのかもしれない。いやいやしかし、深い霧だったら肝心の次の歌詞で

携帯のライトを翳して 水平線を辿っていた

水平線を辿るどころか捉えることも困難なはずで。

そうすると、灯台に光がついていなかった、と考えるのが良さそうです。灯台事情に詳しくないので分かりませんが、もう使われていないものだったり、その日は照らす必要がなかったりしたのかもしれない。

白くそびえる灯台が、真っ暗な闇の中でその輪郭をぼんやりと霞ませている……うん、情景的には一番しっくりくる。
でも、光の消えた灯台をなぜ描写するのか? 灯台である必要はあったのか? 疑問は尽きません。

ほとほと困り果てました。詞が難解ゆえに解釈に困ることはよくあるけれど、まさかこんな序盤から、こんな平易な文章でつまずくとは思わなかった。

そうして頭を悩ませること数日。迎えた静岡公演。
いつも通りに観客に携帯を取り出させ、奈々さん自身もライトを点灯し、観客へと向けた時。
あ、そういうことか、と。すとんと落ちるものがありました。


■「携帯のライト」とはなんなのか

結論を出す前に、あらためて歌詞を読んでみます。

灯台も霞むような 真っ暗な夜の海
携帯のライトを翳して 水平線を辿っていた
この光はどこまでも 照らせる気がしてるんだ
まだ見ぬ新しい世界を 繋がっていく仲間を

前述の通り、灯台は光を放ってなさそうです。そんな中で携帯のライトをつけ、海に翳す……うんまあ、光が届くはずもなく。水平線どころか近くの海面を照らすだけで精一杯なのではないでしょうか。
なのになぜ、この歌の「彼」は「どこまでも照らせる気がしてる」のか?

ここから、「携帯のライト」が言葉の通りのただのライトではない、という仮説が立てられます。

現代に生きる我々が、携帯(便宜的にスマホも含む)をまったく使わない日なんてほとんどないですよね。
いつも肌身離さず持ち歩き、SNSやゲームなど自分の性格を反映する多くのアプリが入った携帯は、ただの道具ではなく「自分の分身」と言っても過言ではありません。
その携帯が放つ光は、自分自身が放つ光――さしずめ「心の光」です。

こう考えると灯台もただの灯台ではなく、「標となる存在」に置き換えられそうです。それが霞んでいるということは、暗闇の中、導いてくれる他者はおらず、寄る辺もない、圧倒的な孤独の中に「彼」がいることが伺えます。
それでも、心には光を宿している。
そんな覚悟と決意の光を「携帯のライト」に宿し、「彼」は遠い水平線を照らします。

■水樹奈々はなぜ観客に「携帯のライト」を振らせるのか

ここで、なぜ奈々さんと我々がライトを振り合うのか、という最初の疑問に立ち返ります。

上で触れたオタク長文では、「携帯のライトを振る(自分たちの光を見ない)オタク/光を一身に浴びる奈々さん」の非対称性が論じられていました。けれどその非対称性は、「ペンライトを振るオタク/歌う奈々さん」といういつもの光景の方が強いと思うのです。

静岡公演初日の開幕MC、奈々さんは今ツアーのことを「気持ちと気持ちのぶつかり合い」と表現していました。タブーである携帯をわざわざ観客に取り出させるのも、奈々さん自身が携帯を振るのも、もっと生の、裸の感情のぶつかり合いを望んだから、とは考えられませんか?

今回「サーチライト」を歌う時、奈々さんは観客と同じように携帯を取り出し、ライトを振ります。「携帯のライト=自分自身の心」を向け合うこの行為こそ、実はどんな演出よりも観客に向き合った、対称的なものではないでしょうか。

だからこそ、ライブ本編ラストという大事な局面で、観客と奈々さんの心を繋げるために歌われた。そう思えてなりません。

■続くよ!

最後までお付き合いいただきありがとうございました!
このテキスト、本当は「サーチライト」の歌詞をがっつり解釈するつもりでした。が、奈々さんとライトを振り合う空間が好きすぎて、それを語るだけで終わってしまった……
歌詞解釈も文章化したいので、そちらは別の記事で書こうと思います。中途半端で申し訳ない。

ではまた!


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