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アス #2 魔女

 曲がりくねった上り坂。樹々が茂っているのに、いやに木陰の少ない道だ。真上から容赦なく太陽が照りつける。道を覆ったアスファルトは、ところどころ剥がれかけていて、陰鬱な気分に拍車をかける。
 蝉の声がやけにうるさい。
 私の生まれ育った町にも蝉はいた。都会だろうが田舎だろうが、そのうるささは変わらないだろうと思っていた。でもどうやらそれは違うらしい。私の汗だらけの皮膚の向こう側は、蝉の声の領域だ。蝉にもいろいろ種類があるらしいが、興味がないからわからない。蝉は蝉だ。周囲に直立する樹々の名前も知らないのと同じく、自然物はこれまで私の興味の全くの対象外だったが、これだけ自己主張されると嫌でも気になる。
 うるさい、うるさい、うるさい。。
 いや、きっと何も他に物音がないからこそ、ここは蝉の独壇場なのだ。行き交う車の音も、公園で遊ぶ子どもたちの声も、歩行者に青信号を知らせる電子音も、商店街を賑やかす音楽も、何もない。太陽と、樹々と、ゴロゴロした地道と、蝉、蝉、蝉。
 いい加減うんざりくる。私は眩暈というものを感じたことはないが、こういう感覚をそう呼ぶのだろうか。

「アスー、アスー」
 ミーファがわたしの名を呼ぶ。カーチェイスで畑の畝に乗り上げて以来、空色の四駆はご機嫌ななめ。ボンネットを大きく開けて、白い煙を吐いている。ミーファはエンジンと格闘中。
 追跡者を巻くために、細い林道に入ったのが運の尽きだった。急な坂道が負担だったのか、暑い気温が過酷だったのか、四駆は根をあげてしまったのだ。もとよりこちらは追われる身。修理を呼ぶこともできない。
「アス、喉渇いた。下の川から水汲んできて」
 ミネラルウォーターも切らしていた。これも運の尽きか。
 わたしは空のペットボトルを手に、林道から別れた細い路を下る。そこには清流が開けていた。大きな岩がごろごろしていて、激しい流れが岩にぶつかって弾け、うねり、大きなせせらぎを立てている。
 蝉の大合唱は遠慮気味。違うな。せせらぎと相殺しているんだ。
 わたしは靴を脱いで裸足になり、せせらぎに足を踏み入れた。脳天に突きあがってくるような冷たさだった。両手で水をすくい顔を洗うと、肌を覆っていた膜が剥がれるような爽快さに打たれた。
「なにやってんだ、オメ?」
 不意に後ろから声がした。しわがれた響きが存在感を放っている。
 振り向くとそこに老婆が立っていた。

 こんな山の中で、誰かに会うだなんて予想だにしてなかった。いや、老婆の方がわたしよりずっとそう思っているはずだ。ここでは、わたしとミーファが異邦人なのだから。
 老婆は川魚が数匹入ったバケツを手に立っている。頭に巻いた手ぬぐいの下に見える顔は、たくさんの皺に刻まれている。とても小さな躯だが、脚元はとてもしっかりしているように見えた。
「車の調子が悪くて、立ち往生しちゃって」
「この辺りで車が壊れたって、どうしようもなんねぞ」
 老婆は不機嫌そうに鼻を鳴らした。そして私の姿を一瞥して、言い放った。
「水を汲んだら、オラを案内しろ」
 口調もまた、なぜか不機嫌そうだった。

 ミーファはボンネットを開けたまま、地面にへたり込んでいた。エンジンと格闘するのは諦めたらしい。
「退いてろ」
 老婆はわたしが持っていたペットボトルを奪い、エンジンルームにその水をぶちまけた。シューシューと音をたてて水蒸気がわきあがった。その蒸気を断ち切るように、力強くボンネットを閉めた。
 四駆がブルブルと震えた。隙間という隙間から蒸気を吐き出しながら。ライト、ウィンカー、ありとあらゆるものが点滅している。
 キュイン、グルルルルルル………。
 何もしていないのに、勝手にエンジンがかかる。マフラーから赤黒い煙が噴出したが、それは程なく止み、エンジン音が重苦しいものから本来の軽々しいものに変わる。
「ほら、治ったべ。こんなん気合いだ」
 さっきまで不機嫌そうだった老婆が、にこりと破顔した。なんだ、この落差。
 かわいいな、と、私は思う。

 車を直した老婆は、わたしたちに自分の家まで送ることを要求した。
「足腰がおぼつかねえもんでよ。歳だでな」
 助手席のシートに体を置いた老婆は、バケツを膝の上に置いて言った。バケツの中には川魚が三匹、たゆたっている。わたしはシートのない後部座席から、それを見ていた。
 ミーファはゆっくりと車を動かしながら、煙草を燻らせている。最初に出会った時のようにサングラスをかけていて表情が読めないが、不機嫌そうだった。不機嫌というか、人見知りなのだろう。
 老婆の家は、林道を少し登った古びた家だった。屋根の瓦の隙間からは雑草が茎を伸ばし、土壁はところどころ剥げ落ち、苔むしていた。しかし縁側に植えられた草花はきちんと手入れされていたし、鶏が二羽放し飼いされていたが糞なども散らかっていなかった。金のかからない範囲、力仕事の必要ない範囲では、とても几帳面に片付けられていた。
 老婆の家の前には、若い男が待っていた。体型は小太りだが筋肉質で、人がよさそうに見えた。
「ばっちゃ、今日は採れたか?」
「ダメだ。三匹だけだ」
 そう言いながら老婆は手にしていたバケツを渡した。男はバケツの中を覗き込みながら、老婆に礼を言った。
「川魚を売って生計を立ててるんですか?」
 ミーファの老婆に対する質問に答えたのは、老婆ではなく男の方だった。
「ばっちゃは山奥で一人で暮らしてるで、生活に必要なものを俺が持ってきてるんだわ。その代わりというわけではないんだけども、ばっちゃにはいつも川で取れた川魚を貰ってる。これを冷蔵宅配便で都会の料亭に送れば、いい値になるんだわさ」
「いつもすまねな」
「ええって。頼まれてた米と諸々、玄関に置いてるでよ」
 そう言うと、男は乗ってきた軽トラックに乗って帰ろうとした。その直前、男は老婆に告げた。
「またあの役人来てたでよ」
「また性懲りもなく」
「そうは言うけどさ、ばっちゃ。貰えるものは貰っといたほうがええでよ。いつまでも保護で食ってるとか言われたくねえべや」
「言われたくねえべ。でも貰うものは胸を張って貰えるもんでねえと意味ないべさ」
「胸張って貰えるだろ。国がばっちゃにすまねと思って出す金だろ?」
「その割には、オラは一言も謝ってもらったことはねえけどな。オラに謝る気があるのかと問うても、だんまりだで」
 次第に老婆が不機嫌になっていくのがわかる。
「オメ、もう帰れ。また電話するでよ」
 男は不機嫌な老婆の言葉を意に介する様子もなく、別れ際にこう言った。
「無理するなや、ばっちゃ。無理しても何もええことはねえでよ」

 男の乗った軽トラックは坂道を下りていく。
「男というものは、時々我慢ならねな」
 老婆はそう独りごちた。
「まあ、入れ。茶くらい淹れてやる」
 しかしわたしたちは、すぐに休憩というわけにもいかなくなった。男と入れ替わりに、白い軽乗用車が登ってきた。この人が先ほどの男の言っていた役人だということは、話し始めてすぐにわかった。
「お婆ちゃん、お久しぶりです。お加減どうですか?」
「オメの顔を見るまでは、元気だったんだけどもな」
 老婆は冷たく当たる。しかしこの若い役人は、気に留めない。
「こんな山奥で独り暮らしでは大変でしょう。ここから離れて暮らす気はないですか?」
「オラがとうちゃの遺してくれたこの家を離れるわけねえべ」
「でもここに暮らしてったって、他人に迷惑を掛けるだけでしょう。保護にしたって、元は国民の税金ですからね。そんな金で生活をするくらいなら、生活の収支決算を見直したほうがいいいですよ」
「んだって、そんな正体不明の金を受け取るわけにはいかね。なんども聞いたが、オラに受け取らせたいその金はいったいなんだ?」
「それは何度もいいましたよね。お見舞金です」
「お見舞いってのはなんだ? なんでそんな金をオラに受け取らせようとするんだ?」
「それも何度も言いましたよね。我が国の首相が表明したんですよ。『数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する』って。だから国はあなた方に対し、お見舞金を支給するんです」
「なんでオラにおわびとか反省をするんだ? すまねと思ってるからか?」
「すまないとは思ってますよ。結果としてあなた方に苦痛を負わせたのだから」
「その割には首相とやらが謝っている姿、一度も見たことねえぞ。それに『結果として』ってなんだ? オラが不幸だからか? あんなことがあったからか?」
「そうです。あなたを始めとして女性が不幸になったということに、責任を感じています。それは第一次的に国に責任があるわけではありませんが……責任は痛感しています」
「責任はないのに責任は痛感していると? 笑わせるんでねえ。それはなんの責任だ? オラが不幸になったことの責任か? 誰がオラをこんなにしたんだべ。オラが好きで不幸になったわけでね。オラをあんたらが踏みにじったからでねか」
「それは国の責任ではありません」
 まともな話し合いではないな……ということはわたしにでもわかる。次第にヒートアップしていく空気は耐え難く、老婆の苛立ちも尋常ではなかった。
「国は悪徳業者を十分規制できなかったかも知れない。結果として苦しみを与えてしまったかも知れない。そういう意味ではお詫びもするし、反省もします。だからこそ国はお見舞金を支給するです。それが私たちの精一杯の誠意です。それはわかってください」
「何言ってんだ! 国がオラの躯を踏みにじって行ったんでねか! 全部オメらのせいでねか! よってたかってオラにたかり、食いちぎり。オラは全部知ってるぞ。オラのまなこでシッカリと見てきた。絶対忘れね。全部オメらが……」
 老婆はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。辛いからだけではない。ぶつける相手が、後ろのめりにひっくり返ったからだ。ミーファが老婆と役人の間に割って入り、役人の肩を突き倒したのだ。
「誠意の押し売りもいいかげんにしやがれ!」
 ミーファが仁王立ちになって啖呵を切った。
「なんなんだ、あんたたちは」
 役人がキレれる。でもミーファも負けてはいない。
「ただの通りすがりだよ。あんたこそなんなんだ、さっきから聞いてりゃ偉そうに」
「今、あなた私に暴力を振るいましたよね?」
「なんだそりゃ、知らねえな。大した怪我もしてねえくせに。言葉の暴力ならいいってのか?」
 これ以上は話が進まないと判断したのだろう。また来ると言い残して、役人はすごすごと帰って行った。役人の車が視界から消えまで、ミーファは仁王立ちをやめようとはしなかった。
「ああやって、あいつ、一言も謝ったことはねえんだ。口先では謝っても、国が加害者だったとは絶対に認めねんだ。金などいらねのにな。自分たちがやったことが悪かった、すまねと真心から言ってくれりゃ、それでいいものを」
 老婆は不愉快そうに言い、鍵の閉まっていない玄関の扉を開けた。
「入れ。もういい時間だでよ、今夜は泊めちゃる。なんにもねえけんどよ」
 ミーファの行動が、老婆の警戒心を「茶」から「宿泊」に下げさせた。そしてこの家での出来事が、わたしとミーファの旅の思いがけないインターバルとなった。

 なんにもないと老婆は言ったが、本当になんにもなかった。部屋が二間と、土間に台所。卓袱台と仏壇。電気は通っておらず、ランプが頼りだった。食事はご飯と山菜、漬物。でもランプは意外に明るいのだと、わたしはこの時初めて知った。
 ご飯のおかずに肉や魚がなくても大丈夫なのだということも、初めて知った。蛋白質がなくても、美味しいものは美味しいのだった。食事中、ほとんど会話はなかったけれど、美味しいものがあればそれで十分という気さえしてくる。それでなくても、わたしはそういう気遣い方をするのが苦手だったし、ミーファもそれは同じだった。そしてそれは老婆も全く同じだったので、不思議なことだがこの家に来てから私たちはほとんど喋っていないのだった。
 眠れなかった。
 家を追われてから初めての布団だというのに、横になっても目が冴えている。そしてそれはミーファも同じだったようだ。隣の布団でゴソゴソ音がしたかと思うと、戸を開け閉めする音がした。しばらくしてわたしも後を追う。
 戸を開けるとそこは縁側になっていて、昨日はまん丸だった月が少し欠けていたが、それでも十分な光量を保っていた。
 ミーファは縁側に座って、煙草を燻らせていた。わたしはミーファに並んで座って、ミーファに話しかけた。
「昨日の地震、すごかったね。あちこちで被害があったんじゃないのかな」
「どうだろ。こんなにしょっちゅうだと、大変なことでも慣れた感があるよね」
 確かにこのところ地震が多い。専門家の話では、今はこの国が沈む過程なのだそうだ。
「ウチが住んでたアパートなんてさ、一階部分が海に沈んちゃったから、買い物行くのにもボートを出すんだぜ」
 なぜか自慢げにミーファはそう言った。

 ミーファの住んでた家。ベランダに出ると、満潮時には一センチほど踵が浸る。周りもビルが林立しているためか、波はない。小さな蟹が足元に蠢く。潮の中を覗くと、ボラが群れているのが見えた。
 夜中、カーテンを閉めていると、月光に乱反射する魚影がカーテンに映った。
 そんな家。

 この山道を抜けたら、S岬まではどのくらいなのだろう。生まれた街を離れたことのないわたしにとって、それは想像もつかない話だった。
「林道を抜けたら非常線があるかもしれない。車のエンジンの具合からは、無事抜け出せるかどうかさえ不安」
 わたしの不安な気持ちが見抜かれたのだろうか?
「でも大丈夫だって!」
 ミーファはそう言って、わたしを励ましてくれた。
「うちにしてもアスにしても、非常線張られるほど、一生懸命になられてるとは思えないや」
「でもあの怖い……」
「叔父?」
 わたしは首を縦に振った。
「……それはないんじゃないかなあ。根拠はないけどさ」
 根拠がない割には、確信的だった。
 わたしはミーファに訊きたいことがたくさんある。なぜ叔父に追われているのか? なぜわたしを助けてくれるのか? そもそもミーファは何者なのか?
 しかし、またしても訊くことはできなかった。

 最初に聴こえたのば、かすかな呟きだった。それも、何を言っているのかわからないような。
 次第にそれが言葉だとわかってくるが、私たちが普段使っているものとは違う、知らない言葉だった。それでも、ところどころ知っている単語が出てくる。
「これ、あのおばあちゃんの声だよな?」
 ミーファが呟く。
「うなされてる? 寝言? 何言ってるのか、全くわからないなあ」
 おぼろげながら、わたしにはわかってきた。知っている単語が、次第に言葉へと変容する。

《緑深い故郷の春。あの頃の私は土手でセンマイを摘み、田圃に満開に咲いたシロツメグサを摘んで花冠を編むような子だった。
 家は貧しかったけれど、私は気にも留めなかった。貧しくて貧しくて、食べるものも事欠いてお腹は空いていたけれども、いま思い返せば幸せな日々だった。近所の悪ガキどもを従えて、私はちょっとした女王さまだった。
 でもあの日、私の人生は一変した。
 カーキ色の服を着たあいつと村長がやってきて、仕事をしないかという。大陸の縫製工場に行けば、働きながら学校に行けるという。家族に仕送りもできると。こんないいことがあるものか。私は勉強が好きだったけれど、貧しい我が家ではいつまでも学校にはいけない。父は出稼ぎに行ったまま、音信不通だった。母が畑仕事をして、地主さまのところに奉公に行って、私の下には弟が二人いた。私は弟のために犠牲になるなんて真っ平御免だったけれど、女が生きる道が他にあるだろうか。
 でもカーキ色の服を着た男は、すぐに汽車に乗らなければならないという。私は母に相談したかった。私の行く道がこれで正しいのかどうか、自信がなかった。でもあいつはそれはダメだと。すぐに汽車に乗らねば、私の幸運はないのだと。
 どこで間違ったんだろう。どこで間違ったんだろう……》

 そこまで語ると、苦しい唸り声をあげだした。心配したミーファは部屋の引き戸を開け、うなされる老婆を揺さぶった。老婆は苦しそうに胸をかきむしっていたのだが、ミーファに起こされるとケロっとしていた。
「あれ、なんだべオメら。こんな夜中に何やってんだ?」

 わたしたちはしばらく老婆の家にとどまることにした。最初は元気そうに見えたが、翌朝の様子を見るととても辛そうに見えたこともあるし、何よりも夜中にうなされていた老婆の姿がわたしたちの行動を決定づけた。
「オラの体が悪いって? いい加減なことを言うんでね。そんないらぬ心配されねばならぬほど、オラはまだ堕ちてねぞ」
 わたしたちが留まりたいと告げたところで、そんな悪態をついた老婆だったが、不思議と怒気は感じられなかった。

 老婆の生活スタイルは、私たちの想像を超えていた。
 朝、食事前に山に入り、山菜や形のいい木の実や木の葉を取る。仕掛けにかかった川魚を持って帰る。山女魚など肉食系の魚は警戒心が強いのに、なぜか老婆は釣り竿ではなく仕掛けで捕えられるのだった。
 わたしとミーファは昼間魚を捕るのを手伝っているのにそれにあずかることはなく、ひたすら芋と野菜、芋と野菜、芋と野菜。でもどれも美味しくて箸がすすむ。特に胡麻の葉を醤油で漬けたものは絶品で、これだけでもご飯が進んだ。
 戦後のある時期まで老婆は杣人相手に料理屋を営んでいて、料理も酒も自分で作っていたのだそうだ。どうりで。
「あの頃はここにも杣人がかなりおってな、繁盛したっちゃ。今は誰もいねけどな」
 老婆は仏壇に飾る花を欠かさない。それは老婆の亡き夫に対する愛情を思わせた。
「とっちゃは酒が好きだったでよ」
 そう言っては仏壇に酒を供え、でもその日のうちに飲んでしまうのだった。ミーファもそれに協力する。
 そして、夜になると、また悪夢が始まる……。

《言葉がわからないというのは辛い。私に与えられた部屋はベニヤに仕切られた狭い部屋だった。わたしはそこに住むように言われた翌日、軍服を着た医者がやってきた。何を言っていたがわからなかったけれど、股を開けと言っていたのだと思う。嫌だったけれど、何やら台に乗って検診を受けた。その日は終わり。私は工場で働くのになんでこんな検査が必要なのだろうと思ったが、あまりものショックでそれ以上の考えも及ばなかった。
 その翌日のことは覚えていない。
 そのまた翌日のことも覚えていない。
 翌々日も。
 その次の日も、そのまた次の日も。ずっと。
 覚えているのは、私を怒鳴ってイウコトヲキカセヨウトシタコト。
 覚えているのは、拳、軍刀、痛み、痛み、痛み、私の血の色、そして痛み。
 嫌だっだ。
 やめて欲しかった。
 でも言えない。殴られるのは嫌だ。軍刀で突かれるのは嫌だ。痛いのは嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 でも殴られる。なぜか殴られる。
 私はわかった。軍人どもは、愛されないから嫌なのだと。私が愛さなければ、こいつらは満たされない。いうことを黙って聞くだけではなくて、それ以上のことが必要なのだ。
 かわいそうな人と思うことにした。明日の命をも知れぬ人なのだから、かわいそうなのだと。
 同じ戦地にいる同志なのだと。
 実際、奴らはかわいそうなのだ。敵はどこにいるかわからない。いたるところから攻めてくる。いつ明日を喪うともしれぬ、かわいそうな命なのだ。だから私が愛してやらねば。かわいそうな奴らは私が愛してやることで救われる。ならば奴らの魂を救うことで堕ちてゆく私の魂は、いったいどうやったら救われるのだろうか……》

 縁側にわたしたちは座って、老婆の寝言を聞いていた。
「わたしのひいおばあちゃんもこうだったの。普段は普通の言葉なんだけれど、歳をとるにつれて自分の生まれ育った言葉しか出てこなくなるの。寝言は全部この言葉。このおばあちゃんと一緒」
 わたしがひいおばあちゃんと暮らしたのは最晩年の三年間だけだった。ひいおばあちゃんの子どもたちは先に亡くなり、わたしの母が面倒をみることになった。わたしの家のすぐそばの施設に入り、でもそこは同胞ばかりが住まう施設だったので、安心して暮らせたと思う。
 わたしは小学校からの帰り道、よくひいおばあちゃんに面会に行った。ひいおばあちゃんは喜んでくれて、わたしとよく散歩した。でもその頃はだいぶボケていて、自分が最初に習得した言葉しか話せなくなっていた。
 その言葉は、最初はわからなかったけれど、次第に理解できるようになった。
 幼少期の楽しかった話、この国に来てどれだけ苦労しなかったかという話。そしてしれでもなお、自分がどれだけ幸せから縁遠かったかという話。
 苦労しなかったわけはないと思うのに、それを語ることは決してなかった。稼ぐためにこの国に来たと言い、そしてあの時はどれだけ繁盛したかと語る。そして不幸なことはあってもそれは全て運命であって、究極的には周囲のせいではなく、自分のせいなのだ。
 そう、自分のせいなのだ。 

《私は妊娠した。
 ここに来た時には初潮もまだだったのに、ある日気がついたら妊娠していた。
 その頃、私を贔屓にしてくれる軍曹がいた。他の軍人のように暴力的でなくて、むしろ妊婦の腹を切り裂くような同僚を嫌悪していた。
 私を殴ったりしないし、刀で切りつけたりもしない。
 私は腹の子を、この軍曹の子だと思った。
 神さまが愛なきところに子どもを授けるはずがない。
 そのうち腹が大きくなってくると、私は仕事しなくてもよくなった。兵隊の相手をしなくてもやるべき仕事はたくさんあったが、それでもあの頃は一瞬の安らぎだった。
 あの頃、事件があった。
 私の同郷の娘が二人死んだんだ。
 一人はベッドに紐をくくりつけて、首を括って自殺した。いやあ、人間って高さがなくても首をくくれるんだなあって思ったよ。ちょっと腰を浮かせるだけで、首って閉まるんだなと。
 私たちは全員で彼女の死に様を見た。同情はしなかったな。なぜか同情はしなかった。同情するほど、余裕はなかったさ。
 もう一人は、気が狂って死んだんだ。
 とても気立てのいい、いい娘だったよ。だから、耐えられるわけがない。どんな人だって、耐えられるはずがない。私だって耐えられたわけじゃない。
 私だって耐えられたわけじゃない。
 私だって耐えられたわけじゃない。
 気が狂ってから、裸で外をうろつき回るようになり、とても使い物にならなくなって、あの軍曹が銃剣で刺し殺したんだ。そして兵隊どもがみんなで埋めた。
 耐えられなくなったら死ぬしかない。耐えても使い物にならなくなったら、殺されるしかない》

 引き戸がガラッと開いたかと思うと、そこには老婆が立っていた。眼は開いていたが、明らかに焦点はあっていない。
《なら、死んでもいないし殺されもしない私はなんだ!》
 老婆はしゃがれた声で、異国の言葉で叫ぶ。
《死ねば被害者で、生きていれば汚らしい女か? 生きるために考えることを拒絶することが、共犯か? 同志か?
 正気でいられなくなった女を殺した軍曹の子を産んだ私の罪はなんだ?》
 老婆がわたしたち二人の間を抜けて裸足のまま縁側から庭に降り、シソやネギなどを植えた畑を踏み荒らす。
《私が悪いのか? 私が悪いのか? 女を殺した悪い軍曹は、私のことをいい女だと言った。悪い男がいいと言った女は、いい女か、悪い女か!》
 月夜が老婆を照らす。定まらない焦点のまま、寝間着姿のまま、髪を振り乱しながら異国の言葉を叫び続ける老婆。わたしにとっては年齢も想像できない白髪で皺くちゃの老婆は、とても美しく気高く見えた。
《なぜ! なぜ! なぜ!》

 わたしは老婆の気持ちに応えたいと思った。でも、またしても先に動いたのはミーファだった。
「ごめん!」
 ミーファは駆け寄り、軀の小さな老婆をぎゅっと抱きしめた。
 時が止まったようだった。大きな月が二人を照らしている。一瞬の静寂を破るように、庭に生えた大きな柿の木が、風に揺られて月の影を揺らした。
「……ごめん」
 老婆の視線は定まっていなかったが、言葉は私たちの言葉と一緒だ。
「……オメのせいでもねえべや」
「いや、私のせいだ。何十分の一、何百分の一かは、私のせいだ」
 ミーファの腕の中にいる老婆は、顎をしゃくりあげ、月を見た。
「……ああ、帰りてえなあ」
 老婆の目に涙はなかった。ただ諦念があるばかりだった。
「どこに?」
「どこでもええべ。どこかだ。故郷もない、でもここでもない、どこかだ。オラがオラでいられるどこかだ」
「……ごめん」
「だからなんでオメが謝るんだべ」
「ごめん」

 翌朝の朝食時、老婆は私たちに向かって言った。
「オメら、いつまでここにいる気だ? 行かなければならないところがあるんでねか?」
 わたしとミーファは顔を見合わせた。ミーファは少し悩ましげだ。視線が泳ぐ。
「……まーた、戦争になるんだべか」
 脈絡もなく、老婆がひとりごちた。
 老婆の家にはテレビがない。新聞も配達されない。唯一の情報源はラジオだった。
 老婆と同じような境遇の人がニュースになった時、老婆も名乗り出て、逡巡の末、政府を告発したのだそうだ。その情報源もラジオだった。
 そのラジオが、緊迫する国際情勢を報じていた。
 隣の国との戦争は必至だった。
 でもその実感は、わたしにはない。母を喪い、父を喪い、そのうえ戦争とか言われたって、困る。
「アス、オメ何歳だ?」
 老婆が突然問いかけた。わたしの名を口にしたのも初めてではなかろうか。
「……十四歳」
「そっか」
 老婆は卓袱台の上の食器を片付けだしたが、すぐにミーファが取って代わった。
「ワシはオメの歳には戦場にいた。思い出したくもねえし、忘れてしまったけんどな。戦争なんてものはな、男も命捨てなきゃなんねから苦しいけど、オナゴが一番苦しい。なんたって苦しい。オメの顔見てっと……ワシもな……ワシも……」
 老婆はうなだれて、表情がわからない。
 洗い物の終わったミーファが、老婆のそばに来て、耳元で大きな声で言った。老婆の耳が遠いことは、もうお互いにわかっていた。
「おばあちゃん、私たち、これから準備して旅立つよ」
 ミーファはそう告げると、荷物もまとめるために別室へ向かった。わたしと老婆だけが抹香の香る居間に残った。
「……あのね、おばあちゃん。夜うなされていること、気付いてる?」
「ワシがか?」
 老婆は意外そうな顔をしたが、構わず私は言葉を続けた。
「そのときおばあちゃんのいっている言葉が、わたしのひいおばあちゃんの言葉と同じなんだ」
 老婆は深いシワが刻まれた骨太い手のひらを見つめ、深い溜息をついた。
「そうか、ワシも子どもがいれば、オメのような孫がいたのかもな」
「わたしも家を追われたの。連れて行かれそうなところを、ミーファに助けてもらったの。だからおばあちゃんと一緒だよ。おばあちゃんほどの辛い思いはしていないけれど、わたしだってどうなっていたのか分からない……世の中分からないことだらけだ」
「んだ。世の中分からないことだらけだ。百年生きたワシでも分からないだらけなのに、たかだか十四年で何が分かるって?」
 老婆はわたしの手を握った。
「決めた。ワシはワシの心の底に解けないしこりがあってな、これを解きたくて百年生きてきた。でもこれからは、オメのために生きよう。今日からアスはワシの孫だ」
 そう言ってにっこり笑う老婆。わたしはとてもカワイイと思ってしまった。こうやってこの人は、たくさんの峠を越えてきたのだろうな。
「じゃあわたしのカワイイおばあちゃん、抱っこしていい?」
「バカ言ってんじゃね、オメ」
 おばあちゃんはわたしをギュッと抱き寄せた。
「旅が終わったら、ここに帰ってこい。ワシが死ぬまででいいなら面倒見てやる。大丈夫、ワシは二百歳まで生きるからな」
「……うん、そうする」
 わたしは骨張った小さな身体に包まれたまま頷いた。

「ま、いつかは旅立たなきゃならなかったんだから」
 運転席に乗り込んだミーファは、そうひとりごちた。心残りがあるのだろう。それはわたしも同じだった。
 四駆のエンジンをかけると、おばあちゃんが畑の中から立ち上がってこちらを見た。わたしとミーファは頭を下げたが、おばあちゃんは無愛想に視線を逸らし、畑に座り込んだ。わたしたちは車を発進させた。
 狭い林道で車を見かけることはまずない。峠を抜ける国道は他にもたくさんあるし、林道の先に集落もない。しかしこの日は違っていた。二台の車両がわたしたちとすれ違う。すれ違うのもやっとの道だから、わたしたちは向こうの姿がよく見える。わたしたちが「お尋ね者」だということを配慮すればもっと緊張感を持つべきかもしれなかったのだが、珍しい光景にわたしはガン見してしまった。
 前の車両の軽トラックの前席一人はスーツ姿の人。その荷台にも一人、これは……おばあちゃんの家で会った、おばあちゃんにお米とか届けてくれるあの人だ。そういう目で再確認すれば、軽トラックの運転席は、あのイヤな役人ではないか。そして後ろの車両は警察車両。前席に制服警官が二人。後席に私服の人が一人。
 すれ違う瞬間、荷台のあの親切な若者の視線がわたしとぶつかる。何かを訴えかけている。
 不安を訴えかけている。
 そしてすれ違った車が、カーブの先に消えた。
 いいやな予感しかしない。そしてそれはミーファも同じだったようだ。。
「ミーファ!」
「わかってる」
 ミーファはUターンを試みたが、狭くてそれは叶わない。結局十分ほどのロスが生じた。しばらく下った先で苦労してUターンした後、ミーファは舗装されていない道を一気に駆け上がるため、アクセルを踏み込む。
 おばあちゃんの家に着いた時、おばあちゃんの周りを男たちが取り囲んでいた。主導するのは、例の役人だった。
「あなたが敵性国人であるにもかかわらず、これまで平穏に、あまつさえ保護まで受けてこられたのは、言うなれば国の善意です。
 でもあなたは見舞金を受け取らないという。あくまでも私たちの責任を追及したいという。
 加害者…ですか?そんな、ありもしない責任を追求したいという。
 ご自分の言っていることが無責任と思いませんか?
 これまであなたの気持ちが変わるかと思って話を続けてきましたが、もう猶予なりません。今日は選択してください。見舞金を受け取るか、敵性国人として収容所に行くか」
 饒舌だが、行っていることは滅茶苦茶だ。逃げ道のない脅迫だ。しかしおばあちゃんは負けてはいなかった。
「敵性? なんのことだ?
 ワシが生まれたとき、ワシの国はこの国の植民地だったでねぇか。ワシが連れて行かれたときも、戦争に負けてからはこの国で暮らしてきた。敵だったことなど一度もねえ。ワケがわかんねえ。
 それでも連れてくってんなら、連れてけ。あの時みたいに。ワシは忘れね。オメらの国がしたことを、オメらの犯罪を、忘れね。絶対に!」
 おばあちゃんの周囲の空気が急に揺らいで見えた。
「あちちちち」
 おばあちゃんを取り囲もうとする人間たちが悲鳴を上げながら仰け反り、散らばる。しゅっ、しゅっと複数の蒼い炎が宙に現れたかと思うと、みるみる空高く立ち上り、家を、畑を焼く。
 おばあちゃんはわたしたちを認めて、「来るな!」と一喝した。その姿は熱を帯びて歪んで見える。
「若いオメらに見せたくなかったな、こんな最期。この国の一番偉い奴は『子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない』とか言ってたそうだが、そう言っている本人が謝りもせず、見舞金で済ませようとしている。ハハッ、滑稽だな。オラはカネが欲しいわけでもないのに。心が欲しいだけなのに。赦したくても、赦させてくれない。百年生きても恨みが解けない。身を焦がすほど、苛立ちが止まらない」
 そしておばあちゃん自身も火に包まれた。家は半ば崩れかけ、森にも火が移っていた。周囲の男どもはもう車に乗って逃げ出していて、姿が見えない。
「歌に歌われることは本当だな。いかにもそうだよ、そうだとも。恨みを五百年生きようというのに何を苛立つ!
 早くいけ、アス! オメがこれからも生きていけるように、オラがしっかり呪ってやる、この国を!」
 ミーファがエンジンをかけてクラクションを鳴らす。おばあちゃんの姿が崩れ落ちるのを見届けてから、わたしは助手席に飛び乗った。
「オラは恨みを抱えて五百年生きる。死んでもなお、恨みを抱えて生き続ける。オラを容れない国が、オラを強くした。
 もう水は終わった。次は火だ!」

 おばあちゃんの言葉が、私の鼓膜に強く残った。火は周囲を焦がし、炎と煙でもうその姿は見えないだろう。でもわたしはそれよりも、振り返る必要を認めなかった。
 言葉がしっかり残ったから。

 山火事は一晩経っても消えなかった。天をしっかりと焦がし続け、やがて灰がこの国を覆い尽くした。

 
(つづく)

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