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奇天烈な俳諧

20211101

文章を書くって習慣をつくって1年半ほど経つ。当初は毎日1つ書いて、段々と週に5本、4本と減らしていって、今は週に1度になった。書いてから2〜3ヶ月経った後にnoteにまとめなおしている記事も、300本を超えたらしい。

こんな訳のわからない文章を読んでリアクションをくださる方々には感謝しかない。

訳がわからないのは、単純に文章が下手糞であることに尽きるわけだけど、その下手糞さのすぐ脇に、◯◯だ!っていう主張がないままに文章を展開させていることがあるのだろうと、自分であたりをつけている。

何かを言おう、伝えようとして書くわけじゃない。

地下深くには伝えたい何かが流れているかもしれないけれど、地表の木々や花としての言葉にそれはない。

ナニカ書けるかもしれないと、ピンとくる出来事があって、言葉を転がしていく。

自分の中で決まりきっていることを、主張として言葉にするってことが、なかなか魅力に感じられない。

自分の中ではわかりきってしまっていることを再確認して、強化して、説得していくような作業にワクワクできない。

そんなめんどくさい姿勢で言葉を書こうとすらと、奇天烈な徘徊をはじめることになる。

ある出来事がある(今回で言えば“1年半くらい文章書く習慣つづいた”)。

そのまわりをうろちょろして、観察してみる。時には飛び込む。溺れる。

目的もなくフラフラしてるもんだから、それは子どもの戯れか老人の痴呆かのような様相を呈する(のか?)。

そうやってああだこうだやってる間に、書く前の自分では思いもよらないような発見や出会いがある。

僕にとっての、文章を書くことの魅力は、何かしらの主張を、できるかぎり保存したまま渡すことではない。

書いている間に、そこにあったはずの内容が、そして書いている本人自身もが、変わっていってしまうような。

そういった変容の一手段としてあるのだと思う。

今回のコレも、書くまでは“奇天烈な徘徊”なんてワードが出てきてくれるとは思ってもみなかった。

こうやって、自分にとって手触りを感じられる言葉がひとつずつ増えていくこと。

書くことによる変容ってのは、引き返せない語彙を手にしていくことなのかなと思う。

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