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身をもって成る

20210424

瞑想なんてモノに関わってるもんだから、スピリチュアルな印象を抱かれることがたまにある(この文章をわざわざ読んでくださってる人からすれば、ただの言葉数の多い奴って方が妥当だろうか)。

僕はけっこう明確に、スピリチュアルというかオカルトには距離を置いている自覚がある。

一方で、スピリチュアルな体験に信頼も置いている。

堂々たる矛盾なのだろうけど、自分にとっては明快で、その場でのスピリチュアルってモノが、すでに規定されたジャンルとして扱われているモノなのか、個人の体験の赤裸々さなのか。

ここに自分の中での勝手な線引きがある。

個人の体験ってのは、つきつめると共有不可能ゆえに、手触りとして、スピリチュアルなモノにならざるを得ない。僕はそう思っている。

例えば、霊的現象とでも言いたくなるナニカを感得しつづけてる人がいて、その人の身体から出てくる言葉を、僕は信じる。

それにたいして、ジャンルとしての、誰かと何かを無理矢理に共有せんがための、群れるためのスピリチュアルには断固としてNOをつきつけたい。

別にスピリチュアルに限った話ではないが、誰かの話が、どうして自分の体験と一致しているといいきれるのか。

むしろ、その誰かの話に自分の体験を寄せていくことさえ、ある。

共有不可能であることを受け容れ、それでもなお、この身に降ってくる体験を大切にせんとする態度。

その態度が、見知らぬ誰かの、共有不可能性を呼び覚ます触媒に、結果的になる。

そういう意味においてのみ、スピリチュアルは芸術と重なるんだと思う。

それは瞑想も同じで、僕は悟りといったことにもあまり興味がない。

それはあくまで、通説として一般化されたモノにすぎないと思ってしまうから。

ただひたすらに、この身をもって成る。

生きていくこと、もしくは、死んでいくことの魅力はそれに尽きる。

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