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道草の結晶としてのディテール

20201016

妻が最近書いている自分史の、原稿用紙1ページ目をよむ。

小学校1年からはじまるが、
・入学式のあと教室にもどったあと何をしたか
・先生が話したセリフ
・登校班の編成

などが細かく書いてあり、幼少期の記憶を記憶喪失かと思うくらいなくしている僕はとしては、畏敬の念しかない。

記憶力こそが脳のスペックをはかる基礎的な指標だと勝手に思ってきた。
そして僕は記憶力がわるいのだとも。

個別的な事象を網羅的におぼえることが苦手だいう自覚から、根っこというか構造をつかまえることに特化して武器をみがいてきた。結果的に、学習能力というか器用貧乏さを手にした気はする。

このたび妻の文章を読みながら、記憶力の優劣はスペックうんぬんだけじゃなくて、その場にワクワクしてるかどうかがだいぶありそうだなと直感する。

小学校入学したての不安とそれ以上のワクワクが、妻の文面からにじみでてる。

脳みそと心身が同じ方向をむいて、目の前のイベントをめいっぱい味わってたんだろうなってのが伝わってくる感じ。

まあその時のめいっぱいって意味では、誰だっていつでもめいっぱいだけど、脳みそと心身が同じ方向を向いたうえでめいっぱいになれるかっていうと、なかなか難しい。

と、そんなことを意識するからこそ、自分の器用貧乏が器用富豪になる道すじも見えてくる。

器用貧乏の貧乏さはディテールの欠如だろうとあたりをつけている。

つかみとった構造にどういう形をあたえなおすか、その編集作業にディテールがいる。

ディテールは記憶力と直結する。詳細に記憶されたものたちが解きほぐされ、一堂に会し、ありえなかったはずの結ばれ方をする。それが編集力でありディテールだと思う。

器用貧乏から器用富豪へ。

それは、あるゴールをめざしながら、そのゴールをめざさないっていう矛盾を許容することで可能となる。

最短距離でゴールをめざす場合、目の前のイベントを堪能することは邪魔になる。時間の無駄。

そんな貧乏性と相反する場所にディテールは眠ってる。道くさを全身で味わった記憶がより集まってディテールになる。

いわばディテールは祝祭。右往左往、紆余曲折、いろいろあったけどまあよかったじゃんっていう奇跡の結晶。

貧乏から富豪へっていうディテールをめざすわけではないのだけれど、そういう可能性がでてきたことが、すなおにうれしい。

そして、そんなキッカケになった妻の文章に感謝。

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