見出し画像

書と身体

20210813

やっぱ書ってめちゃくちゃおもしろいなと、急に思った。

このところ日々取り組む書が、どこか惰性というか、身体がノリきらないままにこなす対象になっていた。それは書の後の、身体に残る疲れみたいなものから、なんとなく感じていた。

疲れているのは、余計な力が入ったまま集中しようとしているか、あるいは十分に身体を労ることなくどこかに進もうとしてしまっているか。そんなところだろう。

書にたいして、はつらつと向きあえている時は、たとえできた書がヘタクソでも、書き終えた身体に風通しのよさみたいなものを感じていた。

それがこのところないことには自覚的だった。とはいえ、それで手を止めて休憩したいのかというと、それも違う気がして、書いていた。

最近、保護司って存在に興味がある。
非行や犯罪をおかしてしまった人たちの更生をサポートする職。

まあ職といっても、給料はなく、ボランティアで成り立つ世界らしい。だからそれぞれ仕事や稼ぎ口を持ちながら取り組んでいるそうな。

保護司のことを調べていたら、書をやりつつ保護司をされている方の本をみつける。早速図書館で借りて読む。

書について特別めずらしいことは書いてないと思う。

それよりも、保護観察の対象になった人たちのエピソードが、ズッシリとくる。当人自身が向き合わないといけない問題と、家族をはじめとする、当人の問題をなりたたせてきた環境の問題。

本には著者の徳間さんがそれらの問題とがっぷり四つな様子が描かれてる。それで少しだけ書の話がある。

書いた文字から、それぞれの人の体と心の状態をみていく。文字の粒や線の質に身体が現れる。

書についての言葉で言えば、やっぱりめずらしくないのだけれど、保護司としての活動が説得力をもつ。

線の質を、わからないながらに気にかけて書に取り組む身としては、それなりに感じるものがある。

いい作品ができる/できないじゃなくて、今ここに風通しのいい身体があるのかどうか。それが全てだと目を覚まされるような。

そんなことを、一枚の紙の中の、何文字かを書いているときに急に思い出して、その文字の一本の線が一気に変わったように感じる。

呼吸がスムーズになり、その呼吸に心地よくのって、筆が触れる。

僕が日々取り組んでいる諸々は、どれもこれも、身体があってこそなんだなと思い知る。

喜怒哀楽、いずれもを歓びとして、生死を満喫すること。その上に諸活動はある。

そんなことを、筆で書く一本の線に教わった気がして、うれしくなる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?