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やりたいこと

20220124

2022年の目標を書き出しながら、“やりたいこと”ってのは見つけるモノじゃなくて、思い出すモノだなとしみじみ思う。

“やりたいこと”ってやつとの付き合い方が昔からよくわからなかった。

それは今も変わらないのかもしれないけれど、昔の自分に多少なり言えることがあるとすれば、過去にすでにそれはあるよってことだと思う。

“やりたいこと”は探したって見つからない。“やりたいこと”を探すってのが矛盾してる。

“やりたいこと”って、ついつい勝手に、誰に言われずともやってること、もしくはやってたことのはずで。

それを何かに急かされるように、探しはじめたって難しいのだろう。

いや、探せるのだろうけど向かう先がおかしいのかもしれない。

外に/新しい何かの中に。よりも、内に/これまでの出会いの中に、“やりたいこと”はすでにある。

あるいは、新しい何かに取り組む中で、これまでの出会いの中にあった“好きなこと”を思い出す。

日々の取り組みの中で、こうだったらいいなと、身体がつぶやいたコト。あまりのささやかさに、ひとときの想いのまま流してしまったモノ。えもいわれぬワクワク。そんなアレヤコレヤを思い出すこと。

“やりたいこと”も“好きなこと”も事後的にしかわからない。「私はこれが好きだったんだな」と、あちら側から勝手にやってくる結果として、“事件”としてでしか把握できない。

そして、きっとそれは、ボーッと待ってるだけではやってこない。捕球訓練を怠れば、あっという間に手からこぼれ落ちてみえなくなる。

日々を、身体を、オーダーメイドの丁寧さで生きていく。
その只中においてのみ、未来を先取りした過去に出会いなおすことができるんだと思う。

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