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チヤホヤされたい

20200721

飼っている犬が絶賛盛っていて、我が家唯一のメンズである僕にこれでもかと襲いかかってくる。

それで、ふと、まえの職場で「チヤホヤされたいんです!」ってことを声高に言っていた同僚がいたことを思いだした。

素直に、すげえなあと思っていた。正直にそんなことを思って言葉にできるのかと。

そうか、たしかにチヤホヤされたいかも、と自分でも考えて、でもなんかしっくりこないんだよなあと、保留していた。

それで、チヤホヤされたいっていうのは、もうすこし限定条件つきで使うと、しっくりくるのかも、となんとなく思った。

“ありのまま”の姿でチヤホヤされたい、ってことなのかなと。

“ありのまま”というか、楽で心地よい姿のままで、というか。

だれだってチヤホヤされたいって思いが、すくなからずあるんだろう。

ただ、チヤホヤされることの優先順位をあげすぎて、自分の心地よさとかを投げすてはじめると、苦しくなるのかもしれない。

チヤホヤされるための役を自分で演じて、それでうまくいかない方が実は長期的には幸せだと思う。

うまいことチヤホヤされてしまったばっかりに、チヤホヤされるための嘘を自分でつきつづけて、苦しみの連鎖から抜けだせなくなることの方がずっと険しい。

楽な、心地よい姿のままで、チヤホヤされてると感じられるフィールドをどれだけ持てるか。

それがあるだけで随分生きるのが楽になるのだろう。

幼い時の育つ環境の何割かがそうであれば一番手っ取り早そう。

その分岐をぬけると、次は自分にとっての“ありのまま”、心地よいって何ぞやって段階に進んでいくのかな。

その段階もすぎて、満たしきってから、やっと、だれかの幸せを願いましょうか、となるんじゃないかなと、

犬の爪で首から上に傷をつけられまくっているモテモテマンは思いました!

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