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くりあ

20210619

サマタ瞑想が目指すのは“曇りなき眼になる”ことかなとふと思う。

サマタは漢字で“止”とあてられる。

呼吸などなど、何か一点に集中して、思考を停止させていくような、そんな類の瞑想法がサマタ瞑想。

ヴィパッサナー瞑想ってのもある。

ヴィパッサナーには“観”って漢字があてられる。

観ること、観察することを主眼とした瞑想。歩いておこなう瞑想なんかは、これにあたる。

体験をして、それらを観て気づく。そして手放していく。

自己の観察から、なりたい自分を探すみたいなこととは違う。

ヴィパッサナーもサマタも、仏教の、その中でも顕教に位置する瞑想で、身軽に、苦しみから解き放たれて生きていくような方向性をもつ。

何かに成ってしまうような、焦点のあわせ方、つくり方は密教の領域になる。

顕教で焦点をバラバラにして、密教でそのつどの焦点をつくる。

いや、話がそれました。

ヴィパッサナー瞑想なんていうと身構えちゃうけど、内観、自分で自分を観察するってことは、少なからずの人がやってることだと思う。

そしてその観察が、視界が悪いままに、身体がゴチャついたままにおこなわれることの困難は、容易に想像できるような気がする。

視界を、身体をクリアにする。
アシタカの身体にむけた鍛錬。

身体を鍛えるってのは、身体を強くするとかだけじゃないはずで。

これは気持ちいい、これはアカンってことをキャッチしてしなやかに対応する身体づくりでもあるはずで、サマタ瞑想ってのはその一環としてあるのだろうと思ったのでした。

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