のらてぃすと
20210419
「生きることをためらわない術」と掲げて半年ほど経つ。自分で書いておいて何だけど、果たして何なのかは自分でもよくわかっていない。
これまた自分で勝手につくった肩書き「nora-art-ist:のらてぃすと」ってのも、まだまだ全貌はわからない。
ああでもないこうでもないと、この身で応答しながら、育てていこうとしてる。
とりあえずの当たりをつけているのは、「生きることをためらわない術」ってのが「nora-art-ist」にとっての根幹にあるかなってことだ。
生きることをためらわない、そんなコトを術としてもつ者。生きることをためらわない身体や環境を生成する技術者。
そんな趣をもって、ふたつの名をつけてる。
それでふっと、「生きることをためらわない」って自分で書いたのはそういうことだったのかと、洗濯物を干しながらピンとくる。ふたつ。
ひとつは、ポジティブに「生きよう!」ってことではないってこと。あくまでまどろっこしく、「生きることをためらわない」と書いた。
それは社会性というか、手垢にまみれたポジティブ/ネガティブから距離を取ろうとする意識が働いていたような気がする。
積極的に死を、ってことではなくって。不必要なまでの死への畏怖、ただ在るってことを味わい尽くすこと(=生)を阻む死ってモノから距離をとる。
「死なない」ことを主張しつづけた荒川修作が言葉を換えて「死が永遠に予定に入らない」と述べてるのをみて、なるほどなあと歓心したことがある。
「死が永遠に予定に入らない」身体や環境をどうつくるか。それを荒川は建築ってモノでやろうとしたのだろう。
(ただ、個人的には、荒川って人は人がよすぎたのではとも思う。物質を使って、ある意味強制的に、お節介をしようとしすぎた。きっと彼なりの危機意識をもってやっていたのだろうけど、ヒトの能動性らしきが置いてけぼりになってたんじゃないかと思ったりする。)
とまあ、こうして「のらてぃすと」がまたどこかへ歩を進めた気がしてうれしい。
そして、それよりなにより、とりあえず名づけてしまったことで、やってきてくれるモノたちがありがたい。
今回であれば、何日か前に書いたスピッツのこと(フワッと死んでいこう)に引っ張られながら、洗濯物を介して、荒川修作が出てきた。
これだから、書くこと、生きることはおもしろい。
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