両立論ってなんだ?

自由意志の問題がなかなか頭から離れず、時折考えにふけってしまう。

しかし私ごときがちょこっと考えた程度では大して深堀りもできず、このことについて考えてきた人たちの書籍を読んだほうがまだ有益なのだろう。

ということで少しづつ読み進めているのだけれど、この問題は現在大きく分けて3派閥あるらしい。

1つは決定論。
世界は物理法則に従って動いている、人間も例外ではない。
自由意志があるように思うのは勘違いだ、という考え方。

2つ目はリバタリアニズム。
決定論を否定する立場。
人間には自由意志があり、行為の責任があるとする考え方。

3つ目に両立論。
決定論とリバタリアニズムは両立するとする立場。

決定論とリバタリアニズムが互いに否定しあっているのに両立なんてするんだろうか?
ちょっと意味がわからない、と思いながら読み進めるどうもこういうことらしい。

自由意志を考える際に、過大な装飾は取り払った上であれば十分決定論と両立できる。
まず、自由意思を構成する2つの概念を考える。

1つは「他行為可能性」。
これは平たく言うと他にやりようがあったか?ということ。
違う選択肢をとれないのであればそれは自由とは言えない。

もう1つは「自己コントロール」。
自分のことをコントロールする能力。
これは例えば複数の選択肢がある状態で、なにかを選ぶ際、自分自身によって選ぶ能力。
選択肢が複数あっても、「常に一番最後に表示されたものを選ぶ」などのように法則が決まっていてそれに抗えないようであればコントロールしているとは言えない。

自由であるというのをこの「自己コントロール」能力があることだとみなした上で、決定論的な世界を考える。

決定論的な世界では我々の行為は、環境からの入力とその時点での自分の内部状態によって決まってしまう。
すると、結局は自分ではどうしようもなく、環境によってコントロールされていると言える。
すなわち「自己コントロール」できていないのではないか。

ということから一見、決定論と自由というのはやはり相容れないようにみえる。

しかしこれはコントロールという概念の混乱から生じているという。
ここでいうコントロールとは、目的に沿って最適な行為を選択できること。
「環境によってコントロールされている」という言い方は環境を変に擬人化してしまったがための幻だと言う。
環境には欲求も目的もないのだから、それにコントロールされていると思うのは錯覚であるってことらしい。

以上のことから、世界が因果的に決定しているからといって自由がないとは言えない、決定論とリバタリアニズムは両立する、とのこと。

まあたしかに一理あるのかもって思った。
よく聞くラプラスの魔(量子力学で否定されちゃったけど)にしたって、それが世界の中に存在したとしたら、世界を計算する自分自身も含めて計算しなくちゃいけなくてそれは完了しない、つまりそんなものは存在できないって話もあるしね。

つまり自由という概念を考える時、未来についてすでに「決まっていること」とそれが「わかって利用できること」を同一視しなければ十分、決定論的世界においても自由があると言えるってことなのかな。


とまあ読んだこと反諾しながら書いたもんだから、よくわからん文章になっちゃった。

ちなみにいま読み進めてるのはこちら。

私が書いた文章の何倍もわかりやすく書いてあるので、興味ある人は読んでみてね。

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