外側の言語へ

成長過程の早期における英語教育の促進よりも、日本語を母国語として扱う人間にとって重要なのは日本語を身に付けることだという立場は揺るがない。
では、「日本語教育に力を入れている、大切にしている学校は?」と聞かれるとそれはそれで答えに窮する。

しかし、そこに立ち止まってみると、それは学校の役目なのだろうかとも思えてくる。
もしかするとそれは、家庭の役割なのかもしれない。

日用会話を超えた言語領域は確かにある。しかしそのような言語領域は体系的に教えることが出来るようなものなのだろうか。
さらにそのような領域の言語は、ジャンルによってそれぞれ違った拡張性を持っている。

どのようなジャンルの言語であれ、日用言語とは異なるという意味でメタ言語なのだけど、その領域は日用言語の実践を連綿と反復する先にあるものではない。

大事なことはまず、そのような領域の言語に出会うこと。日本語であっても「意味不明」な言語的用法があるということに気づくこと。そしてその事実に茫然とすることが重要なのでは無いだろうか。

自分には五歳年上の兄がいる。私が小学一年生のころ、ファミコンができるのは決まって兄の後だった。
それまで兄のやっている信長の野望だとか三國志だとか、はたまたファイナルファンタジー等を延々と眺めていた。そして何をやっているのか全く分からなかった。私はマリオをやりたかった。

しかしやがて、その訳の分からなかったRPGを自分もやるようになる。そして、兄にバカにされながらやり方を教えてもらう中で自分もRPGゲームの虜になっていった。

自分の知らない言語領域に入ることとこのエピソードには大きな連関があると思っている。
要は「わけのわからないもの」が身近にあるということ。そしてわけもわからずそれに触れている内に、それを使えるようになっていくということ。殆んど、「使わざるを得ない」状態になるということ。

日用言語からの超越はこのような、言語の外部性と出会うことから始まるのではないか。

何故こういうことを考えるかというと、現在の日本の状況を鑑みた場合、このような自分にとっての外部性に触れる機会がかなり少なくなっているように思えるから。
要は、日常で何だか「よくわからないもの」更には「わけのわからないもの」に出会う機会がかなり減っているように思う。

これはインターネットに大きな原因があると思っていて、インターネットから収集する情報は知らない内に自分の打ち込んだキーワードがアルゴリズム化されていて、気付けばそれに関した情報しか接続することが出来なくなる。

そうして自分にとって融和性の高い情報ばかりを集めた結果、非常に閉鎖的な自分を作り出してしまうという事態に陥り、更にその結果自分にとってわけのわからないものに対する耐性が著しく低下してしまう。
これは自分の価値判断…自分にとって快か不快かという判断を劣化させてしまうということでもある。
SNS等を介して横行する批判の応酬もその辺りが大きく、深く根を下ろしているように感じる。

自分が何故、外部との接続が必要だと思うかというと、そのような自分にとって「わけのわからないもの」と出会うということは、「自分にはまだ、わからないことがある」ということに気付けるからであり、それは翻って、他者を尊重することに繋がると思っているから。

そしてそれが、新たな探求への道を開いてくれると思っているから。

マズローが言っていたように、人間には本来的に「未知なる存在」に対する恐怖心があると思う。その恐怖心を乗り越えることが、知識を開拓するということでもあると思う。裏を返せば、「未知なる存在」が身の周りから無くなれば人間は知識を広げていく可能性を大きく狭められると思う。

L'histoire des hommes est la longue succession des synonymes d'une même vocable. Y contredire est un devoir. -René Char

知識を広げてもそれで何かがわかるものでもない。でも、広げれば広げるほど、見てきたものの見え方・見方は変わる。その、見え方・見方に広がりを持たせること。これは、非常に稚拙な表現になるけれど他者への優しさに繋がると思う。

最後に、最初の話題へ帰ると…上記のような言語領域に達することが重要で、それが実現されるなら言語の別は何でもいいということになる。

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