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意図なき集注

今月の愉気の会は「穴追い」の実習を行ないました。(2016年11月のこと)

穴追いというのは整体の手当ての一つで、からだの皮膚の上の穴のようなものをひたすら追いかけて愉気していくという不思議な技法です。

「皮膚の上の穴」というのも何だかよく分からないですし、「穴が動く」ということもよく分かりませんから、考え出すと頭が混乱してきてしまうかも知れませんが、今回の参加者の方たちはみなさん素質があるのか、あまり深く考えずに(笑)実習に入っていただけたので、比較的スムーズに実習を行なうことができました。

実際、穴追いというのはよく分かりません。ですから実習をした後に「穴追いというものがよく分かりました」なんて言われてしまうと、私もむしろ困惑してしまいます。

だいたい実習を終えるとみなさん、すごくほっこりとした表情で幸せそうにほげっとしていて、あまり深く考えていないような雰囲気になっている。で、何をやっていたんだっけ?となる。それでいいと思うんです。その方がいいと思うんです。

野口先生も「穴追い」なんて、意味深い名前をつけたものです。

だいたい穴って何ですか? よく哲学問題で「ドーナツの穴はあるのか?」なんて問題がありますが、ドーナツを食べたら穴も無くなってしまいますけど、じゃあ穴も食べたんでしょうか? 穴は食べてません。食べていないけど無くなってしまう。

穴というのはもともと「無い」んです。無いのが穴なんです。それはちょっと難しい言い方をすれば「虚(きょ)」です。

「整体とは虚の活用法である」と野口晴哉は言います。「実(じつ)」とは虚によって成り立ち、虚の周縁にあって、虚が動き続けることによって実たりうるのです。

だから虚を活かすことができる者が実を活かすことができるのです。何だかよく分からないと思いますが、でもそうなのです。私たちの中心には虚があるのです。

けれども…なのか、だからこそ…なのか、私たちは実(じつ)を求めます。もっと分かりやすく言えばカタチを求めます。神にも愛にも心にも、人はカタチを求めてそのように名付けていきました。

そうでもしないと私たちはただ漠然としすぎて、すべてが曖昧模糊としたままになってしまうので、たとえ便宜上ではあってもカタチを与えていきました。実を与えることで、虚という覚束ないものを取扱うことができるようにしたのです。

それは人類が数千年(いや数万年?)かけて築き上げてきた智慧です。

整体の手当ての基本である愉気とは、注意の集注によって行なうものですが、私たちは何かに集注しようとするときには、必ずそこに実を求めます。

何かがあって、それに向かって集注するのです。実があると集注しやすいのです。けれども愉気の本質は集注そのものであって、実ではない。実があると集注しやすいので実を作っていますが、それは本質ではありません。

もし実に拠らずに、ただ集注をすることだけができれば、それはもっと純粋な集注になり、愉気となってゆくでしょう。

何かがあって、それに向かって集注してゆくのでなく、何もないところに集注してゆくのです。ただ集注だけがある。密度やベクトルや運動といったものだけがある。何物にも拠らない、限りなく透明な気の集注。

けれどもそれはとても難しいのです。虚に向かって集注するにはそれなりの訓練が必要です。

むかしヨガの先生に、空中の何もない一点を指差され、「そこに意識を集注しなさい」と言われたことがありました。何もないただの空間ですから、目の焦点を合わせることさえできません。

ぼーっと中空を見つめたまま集注してみますが、その状態を保てるのはたかだか数秒で、すぐに視線はその奥にある風景(実)で結ばれます。虚を捉えるのがいかに難しいか、たったそれだけのことからも思い知らされました。

決していきなりできることではありません。だから私はみなさんに「ここに愉気をしてください」と言います。あえて実を作ってあげることで、みなさんに愉気の手立てを作っています。

そうでもしないと、それこそ手も足も出せずに佇んでしまうかも知れないからです。「どうすればいいんですか?」と。

本当はただ集注して欲しいのです。目の前の人に。何物にも拠らずに。ただ空っぽになって。そのとき、人はとてもとても満たされるのです。とてもとても仕合わせになるのです。

何かがあって、何かのために、何かの技術やメソッドで、集注するのではないのです。

ある意味、穴追いとは虚の集注です。意図なき集注です。穴の行き先は誰も知りません。そのときそのとき動いて行くままに動いていく穴を、ただひたすらに集注しながら追いかけていくだけなのです。

今回も、穴追いについてよくある質問を訊かれました。「子どもにも穴追いは必要なのですか?」と。

小さな子どもには必要ありません。ですが自我が芽生えて、いろんなことを考えるようになってくると徐々に必要になってきます。

けれども子どもの穴追いというのはシンプルなのです。虚のまわりに実をゴテゴテと固めて保っているのが大人ですが、子どもは本来そんなものはありません。ですから言ってみればその存在がそのまま穴に近いのです。

もし子どもに穴追いをしてあげたいと思うのならば、子どもがその子らしく思いのままに動き回っているさまを、ただそのまま見つめて集注してあげて下さい。そうすればそれはそのまま穴追いになるはずです。

余計な意図のないその眼差しは、きっと子どもを健やかにしてくれます。

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