風邪の効用

コロナによる発熱を通して気づいた事

検査、診察は3時間・・・

1/12夜、具合が悪くなり、早めに布団へ。
深夜、一応体温を測ってみたところ、37度台。
前日まで数日、東京へ稽古に行っていて、長旅による疲れだろう、と一晩寝れば大丈夫!とそのまま就寝。

そして翌朝、改めて体温を測ると、38度台。
これはもしや、と思い一応発熱外来へ。
一人で過ごしているのならじっと、家で布団にくるまり、経過をさせるが、家族がいて、それぞれに立場があり、勝手は良くない。社会的な問題で陽性か陰性かを調べてもらう事にした。

発熱後すぐだと不確かとの事で、夕方まで待つが、熱は下がらない。
普段、熱が続く事もないので、これはコロナだな、と覚悟はできた。
検査までにも1時間ほど待機をし、その後検査報告にも1時間、そしてやはり、結果は陽性との事で、自宅待機が決定した。
さらにそこから診察、薬をもらうまでさらに1時間。実に、長い長い診察だが、まぁ、こういうもんだろう。文句は出ない(笑)。

陽性になったという事で家族も当然、濃厚接触者、会社や学校、それぞれに休む準備をしていたが、結果的に私に送れて2日ほどで皆、発熱をし、同じように何時間かの検査を経て、陽性が確かめられた。
ある意味、皆が一気にかかり、看病的なものも楽だったのは良かった。

経過観察は一人稽古そのもの

さて、コロナの経過観察。
この数年、コロナコロナと世間を騒がしてきたやつだ。一体、どんな変化を見せてくれるのだろう、とちょっとだけ期待していた。
これは「風邪の効用」という言葉を知っていたから。もちろん、野口晴哉師の本で知った。

知識として得たものの、実際に身体に変化を自覚する事があまりなかった。それだけ大きく崩していなかったのもあるし、そもそもが若く、無理に風邪を押さえつけていたようにも思う。適当だった。
しかし、今回はコロナ。これだけ世間を騒がしたのだ、何かしら気づかせてもらわないと悔しい(笑)。

実際1週間過ごしてみると、症状は発熱だけ。まぁ、食欲は減ったものの、それでもお茶漬けぐらいは食べられた。
他に頭痛や吐き気、下痢などもなく、正直、あっけないものだった。
ただ、これは甲野善紀先生から解熱剤はやめておけ、と言われていたので、それに従ったからかもしれないし、気がつけばワクチンも打たず、のんびりこれたので、免疫的なものが頑張ってくれていたのかもしれない。
まぁ、わからん事はわからん、としてこういうもの、として認識しておけばいいと思う。

その発熱も39度辺りまでだったし、発熱に苦しむという事もなかった。測ってみて、まだこんなにある!と数字と体感のギャップの方が驚きだった。
そして、経過観察という一人稽古にこの「普通さ」が役に立ったと思う。

時間とは心が動く空間

観察する頭が普通なまま療養時間を過ごす事が出来た。
そしてまず見つけたのは表題の通り。
「時間とは心が動く空間」
という事。

また、何を変な事を!と思われるかもしれない。
普通だと思っているのは気のせいで、頭やられている、と思う人もいるかもしれない(笑)。
まぁ、それでもいい。
自分が持つ心、それを深く、注意深く、探る事が出来、なおかつそこに身体感覚を見つける事が出来たのだ。

これまで私は身体感覚を手掛かりに稽古を続けてきた。
そして、その身体感覚の生まれる源は肉体的な部分。主に骨、筋肉、肌、そして動きとして外に現れる内臓だった。
今回、それがじっと寝ている間、そこを動く意識を観察すると、肉体から徐々に離れていき、過去や未来、時間の軸の上を移動する感覚を見る事が出来た。

この「時間を移動」という感覚がこれまで身体感覚としてみてきた移動とそっくりなのだ。
頭の中で過去を思い出したり、未来を想像したり、その時間移動には身体がついていきにくい。
記憶として過去を呼び起こし、思考として未来を想像する。そんな程度だった。
しかし、発熱下での時間移動は時間軸そのものにまず、存在感があった。そして、そこを過去へと進みいく事が「出来ている」と思う事が出来た。
この時、身体感覚として確かにあったのはおそらく、意識の主役を「内臓」に置く事が出来たからだと思う。

発熱をして、頑張っているのは何か。やはり、内臓、いやもっと深く、細胞、免疫レベルでの働きだろう。
発熱がある事で、意識は骨や筋肉を忘れる事が出来る。
これも勝手理論であり、全く「正しくない」のだが、内臓だけは若返る事が出来る、と思うようになっている。
だからこそ、過去への時間移動に実感が得られたのだろうと思う。

まだ、これは直接技として試しきれていないが、過去へと若返る身体がある、という事になれば当然、技にだって生きてくる。
人間は老いるしかない、と思っていたが、それは大間違い、意識の仕方で、若返る部位を持ち、その上で全体のバランスが出来上がる、新しい観念を持つようになった。

内臓は若返る

実は過去へと行ける、若返る事が出来る、というのは昨年末の徹夜稽古でたまたま見つかった事。
その直後、コロナになり、発熱をしたのだ。偶然で会ってもいいが、偶然であればなお、面白い(笑)。
年末年始、ずっと、内臓による若返りを考えてきて、内臓が少しだけ柔らかく、敏感になったのかもしれない。
そしてコロナウイルスをもらい、発熱にまで反応できたのかもしれない。

とにかく、この熱発の経験がなければ、時間について、夢についての確信は得られなかったと思う。

内臓についてもう一つ。
なぜ、若返る、と確信をしたのか。
それは血管年齢など、人によっては実年齢が当てにならない事が多いものが山ほどあるからだ。
これが骨や筋肉であればそうはいかない。
形が強い部位は時間の制約を強く受けるのだろう。
しかし、内臓は形が曖昧。意識によって働きを変えるもの。
強いストレスを受ければ一晩で胃に穴が開いたりするとも聞く。精神の影響を強く受けているのだ。

その内臓をちゃんと動かす。
ちゃんと動きさえすればどうなるか。その結果が若返る、というのであれば楽しいではないか。

つくづく、一人稽古で良かったなぁ、と思う(笑)。
人は若返る、マジだマジ!と口にすれば、大抵の組織ではいられなくなる。
もちろん、組織を上げてそれを言葉にして活動していればいいが、それを主にして組織拡大の勧誘をすると、下手をすれば裁判だ(笑)。
常識的には人は若返られない。

しかし、私は一人。勝手に気づき、勝手に喜ぶ。
話を手掛かりに、本当にそうですか?と自分の身体で試してくれたらそれでいい。
いや、マジそうですね!と応援してもらっても困るし、世の中は間違っている、と鼻息を荒くして世間に立ち向かってもらうと困る(笑)。

人は自由に考え、過ごしていたい。これが私の願い。
そのために、人が組織として規約の中で動くのは避けている。
私の稽古はどこにいっても一人稽古の延長なのはそういう事だ。

夢とはなにかにまで手が届く

そして時間の実感にくわえてもう一つ、大きな自覚があった。
それは「夢と何か」という事。

ずっと寝ていた甲斐があり、夢を見る機会が多くなった。
これはまさに、コロナのおかげ。もし、普通の風邪であれば、熱も収まったなら、仕事、生活が忙しくなり、観察が出来なかったはずだった。
コロナという特別な風邪により、その陽性判断のもと、強制的に7日間の自粛を与えられた。
この時間が宝物だったのだ。

眠り、夢を見て、起きて、寝ぼけ、身体感覚を観察。
やらなくてはいけない事がないと、高確率で頭にはぼんやりと夢が残る。
これまでは「夢の中身」を探ろうとしていた、これが私らしくなかった(笑)。

夢の中身ではなく、夢そのものを

夢の中身はプロフェッショナルがたくさんいる。解釈は人それぞれ、納得いくものを納得いくまで探せれば、それは人生に力を渡してくれる。
しかし、それは生きる事を心の側が得意な人がやる事。
私は身体側で生きる。
身体側のスタートは「有るか無いか」。
夢でいえば、夢があるかどうか、夢を「持っているか」どうか。これは「文字通り」の意味である。

時間を心が動く空間と認識できた事で、端の端まで行ってみよう、と旅する事が出来た。
そして、時間という「線」の端はやはり、点。
点としての何かを考えるようになる。
時間を生む何かがあるのだろうか?
そんな事を考えたのだ。もちろん、寝ぼけながら(笑)。

いつの間にか、一人稽古が上手になった(笑)。
寝ぼけながら時間を生む存在とは何だろう、と問えるのだ。
そして、脳は勝手にそこにこじつけという力を使い、答えをくれる。
今回その答えが「夢」だった。

自分が夢を持つからこそ、その夢から時間が生まれている。
そう思うようになった。
しかし、夢を見ない時だってあるじゃないか、とまた、問いが生まれる。もちろん、これも寝ぼけながら(笑)。
ふと、それはせっかくの夢を手放し、どこか意識の持てないところに置いてきてしまっているのではないか、そんな答えを得る。

この気づきから寝方が変わる(笑)。
ただ眠るのではなく、この手で、しっかりと「夢を持って」寝はじめた。
これも観念ではない、「文字通り」の事。
夢の中身ではなく、夢そのものを身体感覚的に持つ。それを忘れずに眠るのだ。
慣れないうちは持っていても、放してしまう。忘れてしまうのだ。手は意識していないと、持ち続ける事が難しい。
ふと、昨年大発見した「舌」を思い出す。
一体化するには舌、舌は自分に取り込むのが上手なのだ。

夢を目の前に置き、それを手に持ち、唇を浮かせ、舌を伸ばし、内臓を蛇化してグルグル巻きに!
これ、大真面目でやったのだ(笑)。
これも寝ぼけていたから精度が上がっていたのかもしれない。とにかく、夢は私の中に取り込まれ、常に離されない状態になった。
もちろん、中身はわからない(笑)。どんな夢でもいい、夢が自分にちゃんといつも、備わっている、それが分かるだけで心楽しく、幸せになる。人は不思議だ。

これも風邪の効用

キリがないので、身体感覚として得た事を忘れないうちに言葉にしてみた。
これが動きになり、技化するのはもうちょっと後だろう。しかし、夢を自分が持っている、それが身体感覚的に自覚できるだけで心に余裕が出来る。

これだけ豊かな時代に暮らせるようになったのに、なぜか心苦しく過ごしている人が山ほどいる。
相変わらず、自ら命を絶つ人も多い。肉体的に楽になっても、人はそれだけでは生きていけないのだろう。
だからこそ、身体感覚を通して、心にアクセスする術を見つけ、これは救いになる、と何十年も稽古を続けて来る事が出来た。
しかし、直接、夢を自覚し持てたのなら、もっと簡単に心に喜びを得られるかもしれない。

もう一度言いたい。これは大切な事。
夢の中身はどうでもいい。夢自体がそこにあり、それが自分の身体と不可分になっている事、それが大切だとわかった。

そして、これに気づく事が出来たのはコロナという風邪のおかげ。
バカげた戦略もたくさんある。おかしなことだと、頭は叫ぶ。ただ、起きた事はそのまま受け入れる。
発熱をし、検査をし、陽性になった。決まりだからと、七日間寝た。元気が回復してきても、寝たみた。
そして見つかったのが時間と夢の身体感覚。
良い悪いという話は頭の問題。この身体で経験したことをゆっくりと読み解き、楽しく生きていくために考える。それが私の生き方、一人稽古。

野口先生の言われる風邪の効用は立派なもの。
私も立派さを表に出したいが、どうにもそれには色々と足りない(笑)。
しかし、よく考えてみれば、立派さをだしても、意味がなかった。全ては一人稽古をより進めるためだ。自覚した事を言葉にして、明かしていく。
これによって出てくる新しい動きがあるのだが、それを止めてもらうために、原因、秘訣をオープンにしておく。そのために記録を残している。

こうした言葉に嘘はないし、飾りもない。
ちょっと書いてみよう、と書き始め、気づいたら5000文字。
誤字脱字すら確かめずにそのままアップするのが私の流儀(笑)。

こうして感覚を言葉にする時、いつも、ちょっと違う自分が代わりに書いてくれている。
自分で書いたものを後から見ても、まぁ、不思議に思える事が毎回だ。
これもきっと、見落としていた夢がしてくれていた事だろう、と思っている。
自分の中には何の力もない、と思っていたが、夢こそ、その力の源であり、生きていくためのエネルギーになってくれていた、と思う。

まとまりがないけど、これぐらいで、私的風邪の効用を終わりにしたい。
ありがとうございました。




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