縦書きと横書き

当たり前すぎて見えないもの

私たちは文字を使います。いつの間にかコンピューターが普及し、その文字が作る文章には「横書き」が多用されるようになりました。
日本という国では長らく、「縦書き」が使われていました。時代と共に、それこそ、いつの間にか、縦書きから横書きへと社会は変わりました。

そして、私たちはそれを嫌とも思わず、受け入れ、生活をしています。
今、こうして縦書きと横書きについて話をしていますが、このテーマを情熱を持って語れる人は多くないでしょう。
今、困っていないのですから、わざわざ縦と横を考える必要がありません。

しかし、これが本当に大変な事だ!と気づく事がありました。日常生活を送るだけで、たくさんの発見がある、これが一人稽古の醍醐味です。
左と右、実はそこには大変な違い、個性があり、その扱い方を間違えているからこそ、要らぬ苦労を背負う事になっていたのだ、とわかったのです。

これが英語圏で生きている人なら必要のない知識かもしれません。
いや、要らないというより、縦書き感覚を身に着けるのに大変な時間を必要とします。
ならば、そのまま自然に身に着けた馴染みのある、横書きの力を活かし、生きていった方が自然です。

ただ、日本に暮らしてきた私たちは元もとが縦書きなのです。
ある日というか、いつの間にか横書きを受け入れ、生活のスタイルが変わりました。
そして、今はまだ過渡期。縦書きも横書きもある時代です。これを恵まれている、と思うか、混乱するか、その選択を私たちは出来ます。

社会はグローバルになり、これからさらに、縦書き文化は無くなるでしょう。今、かろうじて残っている縦書きもどんどんと少なくなっていくと思います。
とは言え、一度生まれた文化はゼロにはなりません。
それは、着物や下駄、武術など、おおよそ現代には必要がないようなものであっても、ちゃんと伝えられ、残っています。
ただ、そこにある身体の力を引き出す秘密、働きは忘れられ、形骸化をしていくでしょう。

ぜひ、今、改めて自分の中に身についている縦書き感覚を見直して、そこにヒントを得て、生き方を教わる事をお勧めしたいと思います。

縦書きの効用

最近、縦書きで文章を書きましたか?
手紙もメールに変わりました。さらに、SNS化し、一言でコミュニケーションをとりあうようになりました。あぁ、すでに言葉も消えはじめ、スタンプを投げ合うような新しいコミュニケーションも生まれています。

これらは進化です。
ただ、その進化も、これまで持っていた働きを土台にして作り上げていく、それを忘れてはいけません。

ちょっと気分を変えてペンを持ち、なんでも構いませんから適当にサラサラとペンを走らせてみてください。
そして、その時、身体の具合を観察してみるのです。これは立派な一人稽古。日常の中で身体を感じるきっかけにしてもいいかと思います。

私が縦書きに気づいたのはたまたまでした。
筆ペンを持ち、思いつく事を適当に紙に書きだし、頭の中の整理をしていました。特別な事ではなく、これまで何度も行ってきた事です。
しかし、その日、身体に感じたものはいつもと違っていました。

右から左へと書いていく時、改行する度に目線がさらに左へと向いていきます。
その目線の先にあるものは「空白」。何も書かれていない場所があり、そこに筆を下ろし、文字を書いていきます。今、ごく当たり前の事を書きました。
しかし、この当たり前こそが身体の癖を知り、使いこなしてきた先人の知恵だったのです。

それまでに自分が書いた文字は自らの手により見えなくなります。
もちろん、何を書いたかは覚えていますし、筆を持つ手の向こうには書いた文字もみえますから、完全に忘れる、わからなくなる事はありません。頭には残っています。
しかし、目には見えにくい、という現実を作り出します。

そして目は自然と左へと行き、空白を見続けます。空白を見た時、頭の中はさっぱりとして、考えている事よりも、感じている事の方が自然に外へと出ていくように感じたのです。
上から下に、サラサラと文字を連ねていくのは自然な事。頭の中には書き残してきた右側の文章は消えていきました。

これが横書きなら働きは真逆です。
左から右へと文字を書いていき、端まで来たなら改行をします。
すると目線は一つ下へと落ちますが、それまでに書いたものは上へと行き、積み重なっていきます。

今、この文章はパソコンで書いていますが、文字は左から右へと生み出され、自分の書いた文字がどんどんと上へと溜まり、そしてそれを我が目がちゃんと、いつも見れるようになっていて、頭の中で考えがまとまっていきます。
そして、その頭が、次の文章を書かせています。縦書きの魅力を伝えるのに、横書きで書く、というのはおかしなことですが、横書きの力を精一杯自覚しながら書いていますので、ご容赦ください。

簡単に分けてみれば、理屈が強くなっていく横書きに対して、縦書きは常にまっさらな気持ちで向き合う事が出来、感情がそのまま出ていくような気がしています。

そんな気がする、という程度の事を大切にしても仕方がない、と思うかもしれません。
まぁ、その気持ちはわかります。
ただ、私は武術家、身体を探るものです。この縦書きを通して、身体がより働きやすい方向を見つけました。
そして、それは日本人が求めて得て、育ててきたものなのを感じます。

スポーツであれば横書きの感覚が合うかもしれません。
しかし、命のかかる武術においてはどれだけ理屈を重ねて頭を安心させれたとしても、その時、感情が暴走し、心身がフリーズしては意味がありません。

縦書きの際の心はいつもまっさら。
これはもう、体験してもらうしかありません。
適当に文字を書き、普段なじんでいる横書きと比べてみてください。
もし、そこにちょっとでも、差が見つかったのなら、その差を探り、理解をすれば、きっと、先人の偉大さ、凄さがわかるはずです。

組み合わせられる強さ

縦書きは意識を左、左へと進めてくれるものです。
そして、左へと意識が進むと、私たちの身体はどんどんとまとまっていくようです。
このまとまりこそ、最大のメリットです。

知識を得ればそれが武器になります。
しかし、船頭多ければ・・・のように、知識があるからこそ、迷い、困る事もあります。
この時、左へと意識が進めば、それまで持っていた知識そのままに、状況が動きます。その変化した世界に対して、身体が一致団結してくれる、それが左へといく事で得られるメリットです。

日本は長らく、鎖国的生活をしていました。
交易はあったとしても、便利さや物の豊かさに振り回されず、自国の文化を守ってきました。
しかし、それも、世界全体が大きく変わる時がやってきます。
日本という国から、世界という外へと出なくてはいけなくなっていきました。

そしてご存じの通り、日本という国は、世界に目を向けてから、ほんのわずかな間に、世界の持つ知識を取り込み、さらに独自の工夫をして、小さな国にも関わらず、世界と対等に向き合う事をやってのけました。

明治維新後、西洋文化を取り入れ、国の形を変え、軍隊を作り、世界の一員としてふるまい、わずかな期間で大きな力を持つ国へと変わりました。
太平洋戦争で負けた後も、他国の支援を得て、また新しく国を作り直し、経済という舞台で力を発揮し、また、世界を驚かすほどの成長を遂げました。

なぜそんな事が出来たのか?
今、私は「縦書き」こそがその秘密である、と考えています。
縦書き、特にひらがなを交えた流れの有る縦書きは勢いを得て、改行する度に、次々に新しい世界へと気持ちを進めさせてくれます。
吐き出した分、次の一文はさらに気持ちが籠るものとなります。
自らが出した言葉が自らを鼓舞し、一瞬たりとも立ち止まらない滑らかさ、そんな力が縦書きにはあります。

そこに入ってきた横書き文化。
縦書きによって得ていた自分をまとめる力。小さな身体であっても、それが一塊になれば、それは大きな力を生み出します。
そこに膨大な知識を得て、世界へと出ていったのです。見た目には現れない力、それこそ身体の持つ可能性の力だと思います。

ただ、残念ながら、縦書きによって作られた「身体の貯金」は今、急速に失われています。
世界との距離は縮まり、境界線がなくなって、先人が大切にした心身の力を認められる人は減り、知識や物、コンピューターに頼るようになりました。
それはすでに世界が得意にしてきた事です。二番煎じでうまくいくほど、世の中は甘くないでしょう。

日々新しく生まれるテクノロジーを追いかければ大きく引き離される事は無いかもしれませんが、我々は外国人とは違うのだ・・・と、どこかで諦める事も大切な気がします。
そして、その諦めを見せてくれるのが武術です。どうしても出来ない事がある、とわかった時、それまで気にもしていなかった事へと気持ちが切り替える事が出来るようになります。

武術を通して得られるのは常識を壊していく強さです。
こんな事出来るはずがない、という事を身体の観察を行う事で何とか出来る事がわかります。
その経験を何度も繰り返すと、自分が持つ常識がいかに脆いかがわかるはず。結果的に頭は柔軟になり、よりよい結果を得られるようになるかと思います。

縦書きで得た「左」の秘密。
それを活かしてみれば、まさに非常識な結果を見つける事ができます。
ここで武術において見つけた左の確認方法をご紹介しておきます。

左へと進むと諦める

今、私たちは知識に偏る時代を生きています。
ちょっと昔は習うより慣れろ、という時代もありました。
しかし、情報化社会になり、知識を手掛かりに学びが進むと、どうしても、教育法はシステマチックになっていきます。

段階的に教えていく事自体は自然な事です。
昔の武術であってもそうでしょう。しかし、その都度、どれだけ得た知識を理解しているのか、そこを問わなくてはならないはずです。

今、ここで目の前に敵を用意して、その敵に刀で上から切りつけられてしまう状況を考えてみます。
そのままでは脳天からズバッと、切り殺されてしまいます。当然、動かなくてはなりません。

この時、何らかの歩法や捌き、技を知っていたならそれを行おうとするでしょう。
ただ、そうであっても、技を発動する「タイミング」が大切です。
この時、刀が来た!と思った瞬間に動ければいいのですが、なかなかこれが難しいのです。

もちろん、稽古が進めばタイミングも読めてきます。
演武的に約束を決めれば見栄えのいい技にはなるでしょう。しかし、それでは安心は得られません。
自分の中に、すべき事はやったぞ、と思えるようなもの、それが必要です。

この時、「左」を使います。
敵が振り下ろしてきた瞬間、来たな、と思った時に、「とにかく左へ」動くのです。
歩法を知っていれば使えばいいし、知らなければピョンと飛ぶだけでも構いません。

「とにかく左へ」

これだけを考え、動きます。
やってみるとわかりますが、案外逃げられるものです。
わ~、と賑やかに逃げ回って構いません。姿を気にする余裕なんてないんです。
ただ、とにかく左へ、それだけです。

迷えば止まる。
それがこれでわかる人もいます。
左にも行けるし、右にも行ける。逃げやすい方へと行こう、と思うと、タイミングを見て、考えなくてはいけません。しかし、これでは間に合わなくなります。

考える事なく、「とにかく左へ」、迷わずに動く事の大切さはきっとわかります。

さて、ならば、「とにかく右へ」というのでもいいんじゃないか?と思うかもしれません。
思ったならば、やってみるのです。
刀が振り下ろされた瞬間に「とにかく右へ」と動いてみると、「とにかく左へ」の時とは動きが違う事がわかるかと思います。

ここでわかるのは左は速い、という事です。
そして、その速さは全てを連れていく速さです。
右もまぁ、速い部分はありますが、全てを連れていく事がありません。どうしても、残ってしまう身体があるのです。
この残っている身体も私です。
右は死して名を遺す的な事を思いますが、左は全てを連れて、守りたいのです。切り捨てていく事は出来ません。

刀に限らず、掴まれても、「とにかく左へ」は有効です。
掴まれた手を振りほどこうと力を入れれば相手もまた、力を入れて、衝突をします。それはもう、力比べになってしまいます。
しかし、「とにかく左へ」を意識すれば、身体全体が居着く事なく、左へ動きを生み出します。
左へと行きながら、ブンブン手を振り回す。これだけで相手の手を振りほどき、自由になれてしまうのです。

どれだけ頭で正しい事を学んでも、いざという時役に立たないものには命はかけられません。
命と身体を通して経験する事、それを武術は教えてくれます。
縦書きと横書きによって、左右の働きの違いを学ぶ事が出来ます。そして、やっと「左と右」という世の中の根本に興味を持つ事ができるのです。
何となく知っている事、そこに確信を得る事が出来れば、持っている知識に命もかけられるようになるはずです。

知識は自然と手に入れてしまう時代になりました。
ただそれを受け止めるのではなく、いかに生かすか、そんな力が必要になってくるはずです。
左と右は身体を感じる一つの例です。気にしてみれば非常に大きな違いがありました。ぜひ、自分の持っている左右の力をそれぞれ、確かめてみてください。

右脳と左脳

縦書きという切り口で、この世界の当たり前を見る事が出来ます。
普段、どれだけ注意深く見ても、その注意は自分が見たい部分に集まり、日常生活の部分には目が向きません。

この縦書きと横書きは、そのまま脳の機能分担の話につながるような気がしています。
脳の研究は日進月歩、私の知識は古臭いものですが、それでも、左脳と右脳、その大まかな機能には違いがないでしょう。

左脳は計算や理論、右脳は感性や感情、そんな漠然としたイメージがあります。
それぞれの脳への接続は肉体においては交差をして、右手を使えば左脳に響き、左手を使うと右脳へと届く。これも、なんとなくの一般論です。
左利きは天才が多い、とも言いますが、ある意味、左利きは、使いやすい右だけに頼るのではなく、左利きという特徴がバランスをとり、両方の働きを活かしている、と思います。

想像力を豊かに!成功にはイメージが大切!
多くの指導者はそれを語ります。それに異論はありません。ただ、そのイメージを作る時に左脳的理論、マニュアルが強すぎてイメージが出来ているかどうかが確かめられないと思うのです。

「とにかく左へ」は実に簡単な事。とにかく、左へと、考える事なく進めばいいのです。
ただ、毎日を歩く時、出社する時、コンビニへと行く時、日々歩きながら、左へと行く。

こう文字だけで書くと、???となるかもしれません。
頭で描く歩きたい場所、それは直線で構いません。まっすぐ駅まで引かれたレールを考えていいんです。
ただ、そのレールの中を左、左へと進むように歩くのです。
最初はほんのちょっと左に傾き、奇異に見えるかもしれません。しかし、その奇異も、いつの間にか見た目の部分は身体が吸収をし、まっすぐ歩いているようにしか見えなくなります。

右側を忘れ、左へと行く事で、結果的にリラックスしているように見えますし、この傾きを持って歩く事、これこそ、「ナンバ歩き」の原点ではないかと思うのです。

役割を知ること

左には左の役割があります。右には右の役割があります。当たり前な事です。そんな事はもう、「わかっている」と言われるでしょう。
ただ、わかったとしても、それを活かさなければ、左も右も混乱をして、結果的にパフォーマンスを落とし、自分に跳ね返ってきます。

左の事を考えよう、と思っても、現代の日本は横書きが増え右へと意識は進みますし、スマホやPCの情報は上から下へと流れていきます。
衣も着物から洋服へと変わり、左右の差がなくなりました。
最近着物や浴衣を着ていますか、左側が前へと来て帯を締めますね。毎日、服を着るだけで、左側を意識せざるを得ないように文化があった、そうとしか思えなくなりました。

ナンバ歩きも、その定義があるわけではないのですが、左を意識して流れていく、と思えば、自然と身体は半身的になります。
向かえ身の効用もありますが、それはちょっと外国人的。両方あってこそのものですが、外国人にあこがれる私たちはついつい、「堂々さ」を求めて、身体を止めてしまいます。

役割を知り、それを日常生活で使い、身に着け、その上で自分の得意な場所へと活かしていく。このステップが大切になるかと思います。
武術、介護、スポーツと、ジャンルを区切り、技の部分だけで左優先のマニュアルを作る事は出来るでしょう。
しかし、それではその技は上達はしても、生きることそのものには影響を与えません。

自らが自らの人生を作る。それこそが生きる喜び、いつの間にか、私はそう考えるようになりました。
すでに膨大な知識、教えがあり、生活を豊かにする便利な道具やサービス、コミュニケーションを円滑にするお金など、考えれば豊かになりそうなものはたくさんあります。
そんな中、それらに頼らず、自らの想像で、自分だけの幸せを思い描く、というのは難しい事かもしれません。もしかしたら、不便な時代の時の方はイメージする力は強かったのかもしれません。

今は確かなものがたくさん存在する時代です。
あえてそこで左と右という当たり前すぎる世界に意識を持ってみる。
難しい事ですが、日本に暮らしてきた人なら、縦書きを思い出し使ってみるだけで入り口には立てます。
これ、実に幸運な事です。

そして、そこで右と左の役割を知れば、もっと大きな観点で右と左とを見分け、好きな方へと進む事が出来ると思うのです。
今回は「左右」についてお話をしました。こうした根本の世界はもう少しあります。
「上下」、「前後」、「内外」、「遅速」、身体一つを観察して見えてきた根本的なモノサシです。

自分が何を得意とし、好みとしているのか?
それを身体で確かめれば、この先、自分が進むべき道、進みたい道が見えてくると思います。
子供の頃から、大人になっても、マニュアル化された教育の中でたくさんの知識を押し付けられています。
多少頭のいい人は量産されるかもしれませんが、それぞれが自分に気づくチャンスは減ってしまいます。

いつも言いますが、こっそりと始めればいいんです。
生活の中にちょっと縦書きを増やしてみる。これも、立派な、十分すぎる稽古になります。
10年後、20年後、今ちょっと気にする事を変えれば、未来は大きく変わります。本当ですよ。



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