つくば稽古に向けて 「骨と筋肉」

「からだ」という音を聞いて漢字を思い浮かべる時、「体」という人もいれば、「身体」と当てる人もいるかと思います。
「からだ」を意味する言葉はいくつもあります。体、身体、だけではなく、肉体もそう、體、軀、軆というのも「からだ」なのだそう・・・。

「からだ」に豊かな感覚を持っていたからこそ、たくさんの言葉が生まれたのかも、そんな想像をしながら稽古をしています。

とは言え、なかなか、新しい身体は見つけられません。身体はどこにも行かず、常に私と共にあるもの。見つけられるところからひとつずつ確かめていけばいい、そう思っています。

わかりやすい身体とは何か。部分で言えば、手や腕、構造的なもので言えば骨や筋肉と言ったところでしょうか。
インナーマッスルや体幹が人気ですが、そこだけを鍛えても無理が出ます。身近なところから凄さを確かめてみてください。

骨は廻るもの

骨は廻る。これ、本当に簡単な事なのですが、今、それを意識する人はほとんどいません。これは稽古をし始めた初期に見つけた術理になりますが、未だに有効(当然ですが・・・)、わかりやすいだけあって、稽古の始まりによく伝えています。

ただ手を上げる、これがどれほど奥深いかわかりますでしょうか。
その場で手を上げてみてください。40肩、50肩の人もいるでしょう。手を上げるのに苦労を知っている人はまだ、いいのです。稽古に目的を見つけられます。
問題は手を上げる事を気にしない人。いわゆる健康な人です。

手が上がる、手を上げられる、と思っているわけです。
確かに、上へと手は上がるはず。しかし、もし、その手を誰かにぎゅっと上げられないように押し下げられたとしたら・・・。
もちろん、そんな事はないのですが、常に敵を想定して動くのは武術としては当たり前、だからこそ、自分の中にある不備を見つけられます。

いつもの手の上げ方を変える

日常生活を稽古に、と言っていますが、無理に行うのでは意味がありません。何十年も無理は続きませんから。
私は毎日を稽古するのが楽しくなりました。そして、そうなれたのはその入り口が簡単だったから。自分が強くなる、しっかりする、弱点が無くなる。それが簡単に感じられたから、楽しくなりました。
誰もがそうなる、とも思いませんが、多くの人にとって、一瞬で別人になったかのような力を感じれば、意欲、興味を持ちやすいのではないか、と思います。

骨を廻し動けば、別人のように変身します
手を上げる時、そのまま上げれば、主に働くのは「肘」です。肘の曲げ伸ばしによって、腕が伸びます。この時、肩の動きが悪く詰まりやすい人は、肩が上がり、窮屈になり、痛みを感じます。
肘を曲げ伸ばすのではなく、腕全体を「回しながら上げてみる」とどうですか?螺旋を描くように腕を上へと上げます。植物が芽吹き、成長していく中で螺旋を描くように腕を伸ばします。

まっすぐ上げた時と、廻しながら上げた時を比べてみてください。
気持ちよさを聞く事を普段から気にしている人はそこに違いが見つかるかもしれません。
また、40肩等、痛みを持っている人は楽さを感じるかもしれません。
違った上げ方をしているのです、「必ず」違いは見つかります。外から見てたどり着く先は同じかもしれませんが、その途中にある自分の気持ち、感覚こそ、一人稽古を導いてくれるもの、少し気にしてみてください。

問題は威力

気持ちよさなどを頼りにしても違いは見つかります。しかし、その威力についてはなかなか気づけません。手を廻し上げる動きには努力もないし、筋肉も固まらないですから、力が溜まった実感もありません。
ただ、腕を廻し上げた時には、背骨との一体感が腕に生れているのです。骨という固いものが、ちゃんとつながり、背骨へと力が流れ、脚を通り、地面へと流れます。

筋肉に緊張をさせなくても生まれてくる力。今、その力を感じる機会がほとんどありません。上手な人は力を抜いてうまくやって結果を出しているのですが、筋肉と骨、身体を術理化して言葉として得ていないので、調子が悪くなったり、ケガをしたり、老いたりした時、つい、「頑張って」しまうのです。安易に筋トレに頼る、という事ですね。

筋トレもいいのですが、それはちゃんと、骨格的につなげてから、私はそう思っています。身体を内側で支える骨格にズレがあるのに、筋トレをして特定の筋力だけをつけても、逆にバランスを悪くするきっかけにもなります。
骨と筋肉、隣り合わせの構造だからこそ、つい、混ぜてしまい、なんとなく、で終わらせてしまいがち。

手を上げる時には廻しながら螺旋を描くように上げる、これだけ考えても、十分、別人のような動きを手に入れる事ができます。

着物

実はこれ、着物を着たなら、「当たり前」な動きだとわかります。腕の下にある「袂」。「和服のそでの下の袋状の所」です。
これが「邪魔」であるのはわかりますか?
日常生活の中の動きでも、大きな袋が腕についているだなんて大変そう、わかりますよね。

最近のスポーツ選手は皆、ぴたっとしたユニフォームへと変わっています。こんな事も、私たちの常識を作っていくのです。邪魔なものがない方が動きやすい、と。

確かに、動きやすいのかもしれませんが、働きが消えていくのです。手、指は動きやすいですから、楽かもしれません。今スマホにPC、機械だって力がいらなくなりました。生活が数十年前とは変わってしまいました。
しかし、それが「手の上げ方」を忘れさせてしまいました。

着物を着たなら袂が邪魔です。自然とその袂を反対側の手が抑えに行きます。その時、また自然に動く側の手も螺旋を描くようになるのです。無意識のうちに身体をうまく働かせるようになっているのですから、驚きです。

以前、下駄について、その効用を書きました。
下駄の効用

下駄もそうです。その威力はとてつもないのですが、それを威張りもせず、ただ、日常の履物としてそっといるだけ。着物もそうだったのです。
おそらく、日本に残るあらゆる文化は身体に働きを生むための装置。見た目、外に影響を作っていく西洋とは対極的な文化です。

今、すっかり、日本は西洋化しました。何年も前から言われている事ですが、西洋、東洋、日本というくくりはもう消えたのかもしれません。今はグローバルな社会が空気を作ります。(特に、このコロナの騒動はそれを加速させました。)

便利な機械やサービスは出て、頭的には楽になり、幸せかもしれませんが、それだけじゃないものを先人は残してくれてきています。
そして、便利さや物質的な豊かさとは違う幸せを日本に暮らしているなら求めたくなる時が来るのではないか、そう思っています。

身体を観始める手始めとして骨と筋肉について紹介しようと思いましたが、たった一つの技で3000文字も使ってしまいました。だいぶ、端折ったつもりなのに・・・。

百聞は一見にしかず、と言います。
そして、見る以上に、触れてみれば、また、言葉にもならない感覚がわかるはず。骨がつながり、関節の弱さが消えた時に生れてくる安心感。それを発現させるにはほんの少しの遠回りが必要だ、という事です。

手を廻し上げる、という動きは、急がば回れ、とも似ています(笑)。
こんな実験を何度か試していけば、慌てて努力をしよう、という気持ちは消えていきます。いつの間にか、努力こそが大敵だったのか、と思うようになるはず(笑)。そんなお手伝いをさせてください。

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