お供えの身体感覚

ギブの精神

どうしたら幸せになれるのか?
古今東西、人はそれを探し続けています。
幸せになる教えの一つに「与える」というのがあります。欲しい欲しい、というのではなく、まず、与えてみよう、という教えです。

商品やサービスを提供する時、客の要求よりも高いものを提供できれば喜ばれます。その時、サプライズもあればもっと、心は動き、その感謝のしるしとしてより大きな対価をもらえるはずだ。
まぁ、そう言われればそうだろう、という事はわかります。皆、知識としては知っているのに、なぜ、それがうまくいかないのか。私はそこが気になるのです。

与えるって何だろう?
私の疑問はそこから始まります。
与える、あげる、手渡す、ギブする・・・、言葉はわかるんです。
そして、それを商品やサービス、それこそ、言葉だって与えられます。ただ、与えているつもりでも、上手くいかない時はその形あるものの裏に「ギブの身体感覚」があるのではないか、そう思うようになりました。

ギブの効用を主張する人たちは無意識的に、ギブの身体感覚を持っていた人、そんな風にも考えられるのではないでしょうか。
ならばやる事は一つです。
いかに、無意識にギブを持つか、それを確かめる事です。表面的な部分は真似ができます。真似をすれば、やがて、じわじわと身体に染み入るものもあるでしょう。

ただ、それを漠然と待っていてはうまくいかないのが現代。
なぜなら、世界の動きが少ない昔ならコツコツと思いをもって生きていれば身体に染み入るものも、数多くの新商品、新サービスが現れ、世界の形がどんどん変わってしまうからです。
表層の意識がいつも、忙しく、良さそうなものを見つけ、振り回されてしまいます。

現代には現代の学び方がある。
その強力な一つが、「一人稽古」です。
情報の多い現代おいて、あえて、外からの情報をカットする。
多くの人と違うやり方をすれば、とうぜん、一人稽古者は個性的になり、ユニークな力を持つようになります。
最初、「変人」の称号を得るかもしれません。しかし、その変を認めてみれば、きっと、人生をより豊かに感じられると確信しています。

身体感覚はモノサシ

これでいいのかどうか?
迷いが生まれた時に基準となるもの、それが身体感覚です。
世の中は数字が主役になりました。健康診断に行けば、細かく、身体の状態を数字で見せてくれます。
目で見てわかるのが数字です。高ければ抑え、低ければ上げればいい。基準を持てば、迷わなくてもよくなります。
ただ、その数字は本当に頼りになるのか?そこを忘れてはいけません。

数字は目安。それを手掛かりにして微調整は身体感覚で。こんな付き合い方から始めてみるのをお勧めします。
全てを身体感覚にする、と決める事は出来ても、無意識の中では抵抗があるのが普通です。
これはギブの話と同じ事です。与えるぞ!と息巻いても、無意識に欲しい欲しいという欲求がある場合、なかなかギブは外へは出ません。

身体感覚を探る時には、楽しい事を選ぶ、これがいいようです。
大きな成果を求めてしまうと、どうしても、テクニックやコツ、機械、道具に頼ってしまいます。
しかし、今、ちょっと手を前に出すだけ、であれば、テクニックも機械も要りません。
最初はコツを聞きたくなるでしょうが、一人稽古なら、その聞いたコツも目安程度に抑える事が出来ます。

この手を前に出す時に、回した方がいいのか、指を伸ばした方がいいのか、いや肩を気にした方がいいのか、自分の身体の具合を観察してみたなら、徐々に「身体の感じ」が分かってきます。

ここに正解はありません。
その日、その瞬間、自分が何を好きで、何を求めているか、ですから、それこそ、周りを気にせず、「私はこれが好き!」と言えればいいんです。
最初、周りに人がいる段階では難しいかもしれませんが、一人、部屋でくつろいでいる時に、こっそりとそれをすれば、徐々に「好き」が分かってきます。

これに関してはもう、習うより慣れろ、です。
これまで学校で良い子でいた人には難しいかもしれませんが、だからこそ、自分の「好き」を見つけた時の喜びは大きいものです。
試してみるのはそれほど難しくありません。ただ、継続は難しいのは覚悟してください。
理由は成果が伴わないから(笑)。ただ手を出すだけですから、世界は全く変わりません。ただ、それでも、心に向き合ってみれば、ちょっと工夫した事で、心が楽しく動き出すのもわかるかと思います。
世界に振り回されない強固なもの、それが身体です。だからこそ、それがモノサシになりうるのです。

空気の発見

さて、「ギブ」の話でした。
いかに与える事を最優先にしていくか、そこを考えてみます。
無意識の領域を探る時に、身体ほど適しているものはありません。
身体感覚を探り、伸ばしていく作業は、まさに無意識の領域を意識していく事に他なりません。

与えた時にちゃんと返ってきている。
それが分かれば、ギブを一番に考えていく事も難しくなくなります。
そして、私が求めているレベルは「どんな時にも」です。
自分に余裕がある時ならギブ出来るんだけど、というレベルではイザという時に役立たないし、むしろ、ギブ出来ない事から生まれる結果につぶされてしまいます。

私の基準は武術の世界。
襲われてしまった時、当然ですが、目の前には敵がいます。その敵を見てもギブの精神が維持出来るか?当然ながら難しい事です。
いや、まぁ、理念としては多くの人はそれを言うんです。それが武道の精神性の高さを作っていますから、言い続けるのは大切な事です。
ただ、無意識の自分にまでそれが届いているかどうか、結局皆、同じところで躓きます。

私の稽古はとにかく自由です。
気になったものを見つけたなら、それを手掛かりにして新しい世界を探ります。
武術であれ、企業であれ、組織になれば、どうしても、それまでやってきた事を続けなくてはなりません。新しい事を探り、実践していく時間が取れません。
しかし、私は結果としてですが、それを行える環境を何十年かの間に作ってきました。

ある日、自分の周りに「空気」がある事を実感しました。
なんだ、そんな当たり前な事を・・・、と思われるかもしれません。
しかし、「見つけた」というのは、それを「使える」、という事と同じです。
普段、突いたり蹴ったり、投げて、固めていた私ですが、空気を見つけ、この空気を使う方法を探し始めました。

もちろん、その空気を吸い、吐けば、それは呼吸となります。呼吸法として空気を使う、というのも方法のひとつです。
ただ、それは普通です(笑)。すでに、何百、何千という呼吸法が世に溢れています。呼吸で勝負をするのは面白くない、私の頭は違う方法を探しました。

身体感覚で見つけた空気は身体に質感を感じられるものでした。
私の得意な方法が触覚での探索だったことも影響しているのかもしれません。
自分の身体の周りに常にあるもの、それが空気です。そして、手を伸ばして、手のひらでそれをかき混ぜれば、水の中にいる時と同じように、圧力を感じられるようになりました。

ただ、その圧力は水とは比べ物にならないほど小さいものです。
手のひらに空気を集めて、相手にぶつけてみても、相手にその空気の塊が届く前に霧散します。肉体的には、全くもって、役に立ちません。
しかし、それでも空気が「存在している」のは確かです。
そして手には持てる、動かせる。ただ、それの活用方法を知らないだけなのだ、と思い工夫を続けました。

空気をお供え物に

興味を持って探れば何かしらは見つかるものです。
その何かしらの工夫はここで細かくは書きませんが、一つ一つが常識外れのもの。しかし、私の中では身体感覚と共にあり、確信になっているものです。
その確信を持って相手に向き合うと、これがまた、よく効くのです(笑)。

空気を相手は見えません。頭ではある、と知っていても、まさかそれが身体に働きかけるとは夢にも思わないでしょう。
自然と注視するのは、私の肉体的な部分です。見逃された空気が私の身体を変えていくのですが、それは全部スルーされます。
これがゲームであれば、「ずるい」、と言われるでしょうが、ちゃんと、働きを伝えても、わからない、となるのですから本当に認識って大切です。

あれこれ試すうちに自然と出てきたのが「お供え」の感覚でした。
この世に神仏がいるのか、いないのか。その結論を待っている人も多いかと思いますが、私はどうでもいい、と思う側。
科学が証明できなくても、私たちはこれまで、自然に、毎日の生活の中で神仏、先祖にお供えをしてきました。
それこそ、もう、お供え自体は「身についている」レベルのものです。
この精度の高い身体感覚を使わない手はありません。

仏壇やお墓、祭壇の前であれば、事前に準備をした物やお金を用意をすればいいでしょう。
ただ、先に書いたように、私の基準は武術です。その時、何もなくても、お供えが出来なくてはなりません(笑)。

武術の場面においてはその瞬間、心の大半を「助けてくれ」という思いが占めます。
助けて「欲しい」のです。望みは簡単に生まれます。夢がない、という人もいますが、暴力に出会い、被害を受けている段階においては「助けて欲しい」という願いを持つ事が出来るのです。

この時、願いを欲するところからではなく、ギブから始めた方がいいんじゃないか?というのが今回のテーマでした。
救われたい、とのはわかっている。願いはある。しかし、その欲しいを自覚したまま、まずは与える、ギブをする。それをどう自覚し、行動するか、これがテーマです。

私が見つけた方法は、神仏がいるなら、そこに「空気をお供えしてみよう」という事でした。

いると思えば、いる

空気をお供え物にしてみよう、そんなひらめきでしたが、当然ながら、理解されるとは思っていません。
この術理を作って数年たちますが、実は、あまりこれは表に出ていかない術理です。隠しているわけではないですが、あまりにも理解されないので、いつの間にか、出番が少なくなってしまっています(笑)。

ただ、私の中では確信であり、お供えを渡す事で、得られる事もわかっており、それを使って戦う事だってできます。
エビデンスを求める必要もなければ、育てていく弟子もいませんし、これを広める使命も持たないので、あぁ、お供えしてみようか、という軽い気持ちで行って、そして、瞬時にその見返りというのか、身体へと戻ってくる力を感じています。

与えたら返ってくる。
これは実に、確かな事だったのです。
実生活の中では与えても、帰ってくるまでに時間もかかり、その間で迷いも出ます。皆が信念を持ち続けられる強い人ではありません。

試して、成果を得る。この経験を積み重ねる事で自然と、それを「当たり前」と思えるようになります。
当たり前、とは疑う事もしなくなる事、信じるかどうかの問題ではなく、もう、当然として、考えもしない状態です。
空気をお供えする、という術理はそんな力を与えてくれるのです。

さて、空気をどうお供えするか?
すべき事は簡単。身体の周りに無限にある空気をかき混ぜ、上へ上へと送り出していくだけです。
いや、こんな事に意味があるのか?そんな疑問も当然です。ただ、もうこれは試してもらうしかありません。
試してみる時に、必要なのはちょっとやってみるか、という程度の事。コスト、と言われるようなものは何も要りません。体力も要らなければ、お金も要らない。時間だってほんの数秒あればいいし、誰かの助けも要りません。
ただ、おかしな人、という見方をされるかもしれない、という怖れだけです(笑)。
まぁ、それだって、部屋でこっそりと行えば大丈夫ですから、もう、試すかどうかの問題になります。ぜひぜひ、こっそり!

このお供えの最中の動き、それはただ、好き勝手に踊っているように見えるかもしれません。
しかし、好きに踊る時と違うのは、そこに「思い」があるという事です。
今、私は空気を神仏へとお供えをしている。
そんな思いがあり、そのための方法として、手をバタバタと振り回し、上へと渡しています。
その結果として、上から、身体の中へと「入ってくるもの」があるのです。

この「入ってくるもの」が何なのかはわかりません。
それは、お前の勝手な想像ではないか、と言われたならそうかもしれません。
しかし、ここに「ギブの精神」の根幹があるのではないか、と思っています。人の精神の中には「もらったら返したい」という思いがあるのでは、と思います。
もちろん、全部、俺のもの!と一ミリも返したくない人もいるでしょう。今世界人口は80億人を超えた、と言われますが、そういう人だっているでしょう。ただ、そんな人は稀なはず。長く生きていれば、なんとなく、今いる世界、今共にいる人たちの事もわかるはずです。

もらったならば返してくれる人、そんな人がたくさんいるからこそ、無意識に法則が生まれていきます。特に、この日本という国はそれを感じられる国だと思います。

私の中には「人はもらったならば、返したくなるはず」という思いがあります。
ただ、それを確信にまではなかなか持っていけませんでした。
だからこそ、襲われている最中には相手の事よりも、自分が助かりたい、という思いが最優先でした。
ただ、空気を見つけ、神仏にお供えをすればちゃんと力として、この身体に返ってくる、とわかりました。

これは私と神仏との間だけでやり取りする小さな取引です。
ただ、小さくとも、確かに与えたら返ってくる、という法則になりました。決して消えない法則です。
この実感を頼りに、ギブの力を認めたならば、きっと日常生活においても、相手を敵視する事なく、ありたい自分のままでい続けられるようになるのではないか、と思います。

身体感覚の行きつく先

ギブの働きについて書いてみましたが、実はお供えの経験によって得たものはとてつもなく大きな事でした。
自分の中に感じたギブを残したまま相手に接すれば、自然と相手から何かしらのものが返ってくる。それを確信できれば、コミュニケーションのレベルが上がります。

このお供えの経験の一番の報酬は、その実験を行う最中に「神仏」を想像した事にあります。
ギブという教えはあっても、それが確かかわからない、それを確かだと感じさせてくれる方法が一人稽古であり、実際にお供えをしてみたなら身体に感じられて、めでたしめでたしです。
わからないものが確かにあった、という経験が出来たのです。

そして、ちょっと視野を広げると、当たり前に神仏を想像し、そこにお供えをして、確かなフィードバックをこの身に得た、その事実を見つける事が出来ます。

神仏がいるのか、いないのか。
いない、という割にはこの世界に広がる宗教の世界はあまりに巨大です。心の中も私の世界、とすれば名前がついた時点であれば、間違いなく、それは存在する、と言えるでしょう。
ただ、疑いもあります。それは心の中で打ち消す働きを持ちます。
その葛藤に方向性を持たせてくれるもの、それが身体感覚です。

私たちの頭は高度な科学教育を受けて随分と頑固になりました。
科学的に存在が証明されていないものをどう受け止めるか。心に従っていきたい人に出てくる大きな問題です。
この時、自分の持つ身体感覚に自信があれば、少しずつ、自分の見たい世界を広げていく事が出来ます。

神仏がいるかいないか、それを問いだせばキリがありません。
私が頼りにしている武術的生き方は問う事よりも、動く事を優先します。
いるかいないかで迷うよりは、さっさと、お供えとして行動するのです。
おそらくですが、脳は行動によって次々に新しい考えを生み出すはず。
自分がお供えとして行動しているのだから、そのお供えの対象である神仏も存在しているのだ、とちょっとずつ、強くなるのではないでしょうか。

私にとって神仏の存在を確かめる事は人生のテーマではありません。
自分がどんな事を人生で求めているのか、実はあまり定かではありません。
だからこそ、こうして組織を作らず、一人稽古をして、どの瞬間においても、自分が一番情熱を持てるテーマを研究できるように環境を整えています。

身体感覚、と言葉にすれば簡単です。なんとなく、身体の感覚ってことでしょ?と受け入れてはくれるでしょう。
しかし、これは磨けるもの。そして、人生をかけて磨けば磨くほど、とてつもない力を発揮するものです。なんとなく、ではもったいないのです。

世の中は便利になり、自分の感度を高めなくても、大きさも重さも測れるようになりました。
それこそ、モノサシを手にしなくても、機械が自動的に大きさ重さを測ってしまいます。さらに、デジタル化して、数字をいじれば、それがそのものの大きさ、重さ、という想像の世界に入りました。
一体、いつ、どんな方法で自らの感度を高めればいいんでしょう。

多くの人はこの時代に武術を要らない、と言います。
いや、口に出す事は無いでしょうが、限られた自分の人生の時間を武術に割く事はしません。
何をするかは自由です。
しかし、感度を磨く事が出来るのに、その機会を作らず、頑張ってしまう。これ、本当にもったいない事だと思うのです。

今、私の中に確かな事がありました。
ありました、というのは自覚もしていないほど、当たり前だったからです。
こうして言葉を連ねてみて、あぁ、そうだ、自分はこう思っている、とわかったものです。

その確かなものとは、
「身体感覚は磨けば磨くほど凄くなる」
という事です。

この世に終わりのないものってどれだけあるでしょうか。
スポーツの記録や技術の革新も止まりませんから、ある意味、どんどん良くなっている、と言えます。
しかし、それは私の中にはないものです。
誰かが頑張り、切磋琢磨で磨いていくものです。そして、それも、やはり壁が現れ、その壁を超えるのに何年もかかったりしています。

しかし、身体感覚は私の中で始まり、私の中で終わるものです。
自分の中にあるモノサシがある日突然、びっくりするような精度に変わるのです。
ある時には星をも測るような大きくなり、ある時には見た事もないミクロの世界を測ります。
それこそ、違う次元をまたいで自分と世界をつなげてくれます。

もし、誰かに何かを学んでいたなら、私のモノサシはその教えてくれる誰かのものになっていたでしょう。
求めたいものに対して、次から次へと先生を変える、という選択も出来ます。
しかし、人はいずれ死にます。新しい世界を求めても、外へと先生を探しに行けなくなる事だってあるでしょう。
そんな時にも、一人稽古であれば大丈夫。
寝たきりになろうが、私の中の身体感覚は変わり続ける、そんな確信を持つようになりました。

今私が感じている確信も、今の私が持っている身体感覚が作る確度です。
次、また何か新しい世界を見つけたならば、あぁ、あの時は全然わかっていなかったなぁ、と嘆くかもしれません。
ただ、それでも、その時もきっと、組織を持たず一人でいるはずです。また組織らしきものが出来上がっていたとしても、普通に依存を求めるような集まりは作らないでしょう。

嘆く事はあっても、それは一瞬。
本当に自分の事ってわからないよなー、と身体全体で笑い飛ばして次の新しい世界を探し始めていける、と思います。

私という心は形を変えたり、周りと混ざったり、その瞬間の目安にはなかなかなりません。
そして、それを悔やんでも、心はそういうものでしょうから、仕方ないのです。
しかし、逆に言えば、身体は常に、形を持ち、基準としての働きを与えてくれるものです。
身体だけを探る事で、心が作り出すような完璧な同一感は無くなるかもしれません。ただ、心がそれを求め、身体でその微調整をする。それを思えば限りなく完璧に近づいてくれるのではないか、と思います。

人それぞれ望むものは違います。
ただ、その望むものが、望む状態になっているかどうか、それを測るためにも身体感覚を磨いておく事が大切になるのです。
身体感覚は磨いていけるし、磨いていくもの。
せっかく生きているのです。ちょっと、それを頭の隅においておけばきっと、勝手に、磨かれていくはずです。

当初のテーマから、少しというか、随分と脱線をしました。
ただ、これが私のギブです。
身体感覚を磨いてみようかな、縁ある人にそんな事が伝わってくれたらうれしく思います。






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