魂を実感するために その7 魔法について

今日、この事をテーマに書くのは大いに迷いました。それは、どれほど、これでいい加減にみられてしまうか不安だったからです。
ただ、もうすでに、「魂」という言葉を使った時点で十分、怪しく、おかしな人間だ、と思われているだろうし、そうでなくては困る、と思い直し、言葉にしてみる事にしました(笑)。

「魂」についての道筋をお伝えするのに、「魔法」を語る。これは「変」です。武道、武術、といえば、真面目に努力をしている人が多い場所。そこに私は努力禁止を謳い、身体感覚を推しています。
また、他人に学ぶ事よりも、一人稽古を勧めているわけで、すでに組織にいる人であれば、受け入れられない事でしょう。

考えてみれば、もう私には背負っているものがないのです(笑)。カラダラボというのも、毎回ともに研究してくれる仲間がいるものの、そこに会員という強制力はなく、個人と個人、信頼だけが頼りの場所です。
稽古は一回稽古制、基本もなく、技もなく、私の言葉を守る必要も、覚える事もありません。

ただ、「出来ねば無意味」という基準に沿い、より、効果のある道を共に探っています。
私が稽古を始めた頃はどうしても、練習相手は屈強な強い人ばかり。そして、大抵の場合、そういう人は痛い技、激しい技を好むのです(笑)。
自然と私の動きはより強く、重く激しいものへと行きました。

しかし、文化センターの仕事を通して出会った方々に導かれるように「柔らかい」方向へも意識を向けるようになりました。
痛い技はそもそもが否定されます。いかに、柔らかく、相手と一つになるようにできるか、それを求める事ができました。

感度のいい稽古相手に導かれ、動きは急激に変わり、その柔らかさは結果的に、私よりも身体が大きく、力が強い相手にも有効になりましたが、それは身体がそう働くように設計をして作られているから、全く不思議な事ではありません。
ただ、その柔らかな動きが現代では、失われています。安易な強さを目指せば、自分の今いる枠の中では有効であっても、ちょっと枠が違えば、桁も変わり、全く無力になってしまいます。

しかし、「弱さ」を求めれば、それは誰しもが持っているもの。土台の部分での勝負が可能になります。
意識的には柔らかな動きを求めていたのですが、根本の弱さを認められなかったようです。それが「めまい」の経験によって大きく、また、柔らかさ、弱さへと進めるようになったのです。

弱さを頼りにしていく中で、両手を使い、「現実に負けないイメージ」を作れることが分かってきました。
親指で核を作り、手のひらで殻を作る。左と右、左右で違う働きができるように、私たちの身体は出来ていたのです。

イメージの大切さを知り、イメージによって何が出来るのかを探っていった時、「魔法」的な考えが役に立った、役に立ってしまったのです。

私は凡人、常識のある人間、ずっとそう思っています(笑)。まぁ、最近はおかしいのは自覚をしていますが、他人の目を気にする小さな人間です。
「魔法」という言葉を使い、術理を説明した時、相手にどう思われるのか、それを心配しないわけにはいきません。

ただ、一人稽古は黙って研究が出来ます(笑)。イメージを手掛かりに動きを変えていく時、だまって、心の中で術理を思い試す事ができます。
この時、効果がなければ、俺もいい歳して馬鹿だな、と思えるのですが、これがまた、効果抜群、こんな不思議なことまで人は出来るのか、とビックリなのです(笑)。

それでも当初は魔法的に使う術理も、なんとか変に思われないように、言葉を選び、伝えていました。もちろん、それでも、十分相手からは不思議に思われ、また、動きも変わり、喜ばれるのですが、だんだんとそれも苦しくなります(笑)。
正直に伝えきれていない、というのもありますが、そもそもが「魔法」的に考えた事を土台にして「次」へとつなげるのですから、だんだんとずれていきます。
あぁ、こうして小さな嘘で動けなくなっていくんだな、とわかりました(笑)。

いつしか、自分に課していた制限をなくし、「魔法」という言葉も使いながら説明をするようになりました。
ただ、その言葉を使い始めても、思っていた以上に「変」とは思われず、淡々と試してくれるのですから、取り越し苦労だったようです。
いや、もしかしたら、十分私をもうすでに、「変」という認識でいたからかもしれません(笑)。

魔法と言えば西洋が主役。そして、私はその西洋的な物語を数多く知っています。実は、慣れ親しんだ世界、それが魔法の世界(笑)。
魔法には土、火、水、風、光、闇・・・、属性、と言われるものがあります。詳しくは知りません。ゲームや漫画程度もの。ただ、今、魔法を使って生きている人もいないでしょうから、どう言ったって、言ったもん勝ち(笑)。
想像できるものを拡げていく、その程度の認識だった、と思ってください。

作りやすかったのは「土」。左手の親指と、右手の手のひらで「玉」を作りました。これは気功的な玉と似たようなもの。何もないところでは両手が必要でしたが、地面をみれば、そこに「土」があるじゃないか、とおもうようになったのです。
そして、親指を核にして、おもむろに地面を見て、その土がもこもこと親指に引かれ、親指を核にして集まってくるのを「想像」しました。

この時、私の頭の中では漫画や映画、ゲームの世界ではありきたりな「ゴーレム」がそこに現れているように思えるのです。
これは「イメージ」、それはわかります。しかし、すでに、現実を超えるイメージは存在する、と経験をしました。相手と自分との関係の中で、意識してしまうものは現実とは限らないのです。

両手にゴーレムを従え、相手に向かう。すると相手は見えないゴーレムを気にしているのか、姿勢を崩すのです。
武術の世界においては多少の崩れも命とり。その崩れをイメージだけで使えるのならこんなお得な事はありません(笑)。

イメージによって技になる。
一つ見つかり、受け入れたなら後は楽しむ。それが出来るのが私の稽古です。そんな稽古に付き合ってくれる仲間がいるのです。本当にありがたい。

ブームは過ぎましたが、鬼滅の刃もイメージを磨くには有効でした。
そこでは「呼吸」と表現をされていましたが、あれはほぼ、魔法。ただ、そのイメージになりがちな魔法の土台として呼吸をしっかりと置いています。その呼吸によって繰り出される技が炎や水など、私たちが持っているイメージと重なるのです。

目の前に大水が渦を巻いたり、大風が吹いたり、炎を出すイメージはできませんでしたが、腕が炎に包まれ、熱くなる程度の事は可能なようです。
魔法は想像力。そして、想像するとき、「失われないもの」がカギとなれば作りやすいはず。
火、風、水、土のような四代元素、光や陰といったなくならないもの、それを頼りにして色々と考え、遊びました。

今にして思えば、この時の遊びがその後、よりイメージを発展させるように身体をバラバラにしていくし、直接的に「光」を見つけるきっかけとなったのだと思います。

魔法にしても、光にしても、魂にしても、それを言葉やデモンストレーションで飾って伝える事はできます。むしろ、そうして「良いもの」として認識して受け取りたい人も多いでしょう。
しかし、着飾ってできたものはどうしても「うわべ」を見てしまいます。「うわべ」はもうすでに、当人としては「知っているもの」です。自分が知っているものを誰かにそうだ、そうだ、と後押しをして欲しいだけだったりします。
そういうレベルで得たものはイザという時役立ちません。

カッコ悪い事も含めて全部伝えたい。
それが私の思いです。私が言う「魂」の事よりも、自分の中を探る方法としての稽古法を伝えたいのです。
とは言え、稽古時間は限られるもの。定期稽古が出来れば気にせずどんどん先へと進めますが、不定期稽古はどうしても、伝えたい事が先にあります。
つくばや川崎の稽古は4時間くらい。4時間あっても、これまで書いてきているすべてを伝える事は出来ません。

こうして書いているのは気になった事を自由に聞いてもらう材料にしてもらうためです。口下手だった私も、稽古になるとしゃべりすぎ、ついつい質問してもらう時間がなくなります(笑)。
どんな時にも、時間を止めて質問してくださって構いません。その中で出てくる説明、言葉、動きがどう役に立つのかわかりません。そして、その自由さが私の求めている稽古の形です。どうぞ、どうぞ、ご遠慮なく!

【稽古予定】参加受付中
10/30(土)甲野先生の名古屋稽古会
10/31(日)つくば稽古会
11/27(土)川崎稽古会、新会場!

10/27(水) 名古屋
10/27(水) 大垣←再開!
11/13(土) 浜松(会場に注意してください。)

詳細はウェブサイトで。
カラダラボ ウェブサイト

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