見出し画像

「おいしい」興味ない人間が「おもしろい」興味ない人間のことを想像する。

突然だが「おいしい」にあまり興味がない。

これは「おいしい」がわからないということではない。
好きな食べものはあるし、高級なものを食べれば「あ、これおいしいやつだ」とは思う。

でも「おいしいものを食べるためにがんばろう」とか「どうしても食べたいから1時間並ぶ」みたいなことにあまり共感できない。

おそらくあまり理解されないことを書いているだろうという自覚があるので、具体的に書いてみる。


ぼくはココイチが好きだ。

多い時は週に3回くらい通う。

ココイチのカレーの味が特別好きだという訳ではない(すみません)。とにかく無心で食べられるところが好きなのだ。

大概のココイチには漫画が置いてある。その漫画を読みながら、無心でスプーンを上下していると、カレーがなくなりお腹が満ちている。その感覚が好きだ。

他の人と「おいしいね」と言いながら食べる「おいしいもの」は好きだが、一人でご飯を食べる時にわざわざ「おいしい」と思わなくてもいいかな、と思ってしまう。


一方でぼくは「おもしろい」にはすごく興味がある。

誰かが「おもしろいよ」と言っていたものはなんとか自分も体験したいと思う。

すごいと思う作品に出会えば、この作品をきちんと理解するべく勉強したいと思う。

過去の歴史を踏まえてその先へ行こうとしている作品を見ると、作者の志に感動する。



ぼくが「おいしい」にあまり興味がないように、「おもしろい」に興味がない人は当然いる。

例えば映画について。
日本人の年間映画鑑賞平均回数は1回強だ。
そもそも映画を見る人は年に何度も映画を見ているはずなので、大多数の人は1年間で一度も映画館に行かないということになる。

こういう数字をみると、映画を見るのが好きな自分としては「見たら絶対おもしろいのに!」と言いたくなってしまう。



自分にとって大切な「おもしろさ」にあまり興味を持たない人に何か言いたくなった時、自分が「おいしさ」について他人から言われたくないことを思い出す。

・「こんなのおいしいと思ってるの?」
→とにかく今おいしいと思ってるんだからそれでいいでしょ。

・「ほんとにおいしいものを食べたことないからだよ」
→「おいしさ」のためにトライアンドエラーする気が起きないんで。

・「舌が肥えたらおいしさわかるようになるよ」
→「おいしさ」感じるのに努力が必要なんかい。


「おいしさ」についてはこんなふうに思っているのに、「おもしろさ」については似たようなことを言いたくなってしまうことがよくある。


「これをおもしろいと思うんならあれとかあれとか見たらもっと全然やばいよ」
「ほんとにおもしろいものにまだ出会ってないだけだよ」
「このジャンルをちゃんと見たら、この作品のすごさがわかるよ」


自分の価値観のまるっきり外側にいる人について、想像力と謙虚さを持っていたいなあと思うのだが、まだあまりうまくいっていない。



過去最高にまとまりのない文章になってしまいました。
この話題また書くかも。

サイトウでした。



@いえもん
あまり大きな声では言えない好きなシーン、すごいいいですね!
そういうので言うとぼくは、黒人男性が泣いてるシーンに心動かされがちです。「クリード」でも「グリーンブック」でも「WAVES」でも。おでこを抑えて大粒の涙を流すのに、なんかグッときてしまう。
なんか差別的な何かを含んでるかも?と思ってしまってあまり言ってないんですが。

@きっちゃん
旅行の計画を立てることを楽しいと捉えてるのほんとにすごいわ!
旅行の行程ぜひ公開して欲しいっすね、ぼくが見たいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?