この観念を"Arts"と呼ぼう

僕はいわゆる"ネトウヨ"が大嫌いで、特に神道信仰と結びついているような「日本は偉大な国だから間違いを犯すことはない、そしてその国の一員である私も偉大な存在なのだ」みたいな全体主義に容易に繋がるIdentityの持ち方については吐き気がするほど憎い。そういう主義にいじめられてきた人生だからなのかもしれない。

そして"僕ら"にとって幸せで快適な社会を築くためには、そういう人たちに考えを改めさせる必要があると考えるようになった。おめでとう!啓蒙主義的なパヨクのできあがりです。

しかし僕はかつて右翼でも左翼でもなくArtistだったのだと気がつく。
Artistの役目とは 「異なるもの同士を同じ場に存在させ、それを包摂する"空間"を生み出すこと」だと思っている。楽曲をつくっていたとき、物語をつくっていたとき、僕はずっとそのことを考えていた。

だけどArtと呼ばれるものの中には、"空間"が包摂によってではなく排斥によって生み出されるものもある。
それはただ単に似た者同士を寄せ集めて、似てない要素は殺すか形を変えるかして、"空間"のためではなく"目的"のために、適切な要素を動員していくような行為。

僕はArtというのはもっと自由で無目的なものだと思っている。
要素はあらかじめ生きている、それらはそれぞれの目的に応じて飛び回り、叫び、狂い咲こうとしている。
そうして互いに押しのけあっている生きた要素たちを、配置する、整理する、Arrangeする、どこかに必ずそれが"作品"になりうる点があるはずだと思いながら、慎重に重心を探っていく。

そして題名がつく。言葉としての題はなくてもひとつの"空間"が作品として立ち上がる。
その空気の中で、バラバラの生きた要素たちの躍動が、作品という包摂された全体に還元される。
その構造自体がひとつの生きた作品になる。要素たちは作品という生命をかたちづくる臓器になる。
それらの要素自身も生きている、だから鑑賞する僕らは異なるLayerにおける生命を行き来できる。

そういう"空間"をつくることが (僕にとっての) Artだ。
殺した要素を並べて、脚を折った要素を配置して、合わない要素はゴミ箱に捨てて、そうしてつくられた"空間"を僕はArtと呼びたくない。

でも現状、Artという言葉はそんな風に「ある枠組みの中に、適切な素材を集め、整形して並べる行為」に対しても使われている。
なので僕が求めているその観念を"Arts"と呼ぼうと思った。

だから神道信者も全体主義者も左翼も赤子もおばあちゃんも性倒錯者もNHKもDHCもADHDもASDもトランプもグレタもユリコもマコも、ひとつの"空間"の中に存在している、存在していていいのだと、そういう視座を提供することこそがArtsなのだと思っている。そのままで生きていればいい。生きることは罪じゃない。そこから先はArtsistの仕事。だから我々に任せてくれればいい。

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