見出し画像

『からこといのち通信 №16』10月号2021/9/16 発行

『からこといのち通信 №16』10月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2021/9/16 発行

『 出会いのレッスン☆ラジオ 』をスタートしました。ラジオといっても、私(ばん)がこれまでに出会った人を掴まえて、1時間ほどオシャベリしたものを、15分くらいに切り分けてネットに載せたものです。

世に言うラジオを考えると貧相極まりないものですが、私は一つ一つのお話をとても気に入っています。飾り気が全くなくて、相手をしてくれている人との間でことばが立ち上がってくる。おしゃべりのゆったりとしたリズム。心のはずみに乗って、自然と語られることば。良く見せようとか、上手に聞かせようとか、そういう力みや狙いが全くないところで語られることば。有難いことに、ラジオの声を聴いていると癒されると言ってくれた人がいました。

私が竹内敏晴の「からだとことばのレッスン教室」に入門してから、この秋9月でちょうど40年になります。竹内敏晴(みたい)に成りたいと青年のころ初心に思い、竹内レッスンを我がモノにしようと、自らもレッスンを繰り返してきました。

その間40年、何を得たかと自分に問えば、何もない!(笑)これはホントです。竹内レッスンを学ぶというのは、技法(テクニック)をわが身につけたり、知識をかさねて視野を広げたり深めたりして、人様の役に立つレッスン(ボディーワークやセラピー、舞台演出)の指導が出来るようになることでは無かったのです。

竹内レッスンを学ぶとは、或いはレッスンができるようになるとは、自分のいのち(個性・魂)の表層にこびりついている、我欲(我可愛い)の化粧を引きはがして、自分のいのちを素っ裸にする。レッスンを求めるものには、それが必須のことであったことに、最近気づきました。それは富も名誉もなく、生活さえままならない処に、一旦は自分の足をすえなければ得ることができない。

私は欲張りですから(笑)そういうところに足を下すことはなかなか出来ずに来ました。レッスンを求めて世間体をはぎ取られそうになる自分と、正しさや生活の安定のために何か人の役に立つ仕事をできるようにならなければと考える自分とが、葛藤を起こし世間体を脱ぎ捨てることを妨げる。竹内レッスンを学ぶとは、繰り返し自分自信を学ぶこと。自分との出会いのレッスンだったのです。

それが40年たって突然、自分が引きはがされて仕舞った。コロナがそんな地点に私をひょいと運んでくれたのです。この40年間、私はホントに何も得ずに来てしまった。社会での仕事も、資格も、技能も、学力も、組織や人間関係も、世間での立場や地位も、家も車も旅行も趣味も、全く得ることなしに来てしまったことに、ハタと気が付いたのです。頼るものや人もなく保障もなく「からだとことばといのちのレッスン」さえ未完のままで。

それでも、レッスンの機会がある限り、私の挑戦は続きます。この夏の合宿で、何にもない手ぶらのままで、エイッ!これでもか!と、レッスンに飛び込んだら、ひょいと竹内敏晴の向こうに着地してしまったのです。飛び越えた先で待っていたのは、竹内敏晴ではなくて瀬戸嶋充だったのです。ようやく私が私自身になれた(成る・生る・鳴る)気がしたのでした。

40年前の9月、竹内演劇研究所のスタジオへと、中野坂上結城屋酒店地下に階段を下りていった私。階段わきの白ペンキ塗りの壁、汗の油で磨かれた木の床。ボロボロのカーテンの手触り。湿気とカビとコンクリのホコリの匂いが鼻につく、地下のスペース。竹内敏晴(師匠)に夢中になり、そこで汗にまみれて、踊ったり歌ったり体操でからだを震わせたり。大きな声を出して詩や物語やセリフを読んだり、演技をしたり。そして何も変わらぬまま、当時の私が、今もこうして相変わらず生きていることに気がつきました。(メーテルリンクの「青い鳥」ですね。求めて旅に出て、必死で追いかけ続けた「青い鳥」が、その初めから自分のそばに居た。そのままです。)

「ただし」があります。何にもないと見えたときに、見えてきたことがあります。40年間わき目もふらずにレッスンを続けてきた中で、思いがけず得ていたものがあったのです。それはレッスンで一緒になった、様々な人との出会いです。一人一人の「からだとことば」(=いのち)との出会いを繰り返すことで私は生かされ、ここまで運ばれてきたのです。私が空っぽだから、その出会い(もちろん別れもそこに含まれます)を受け入れてこれたのもあるでしょうが、いずれにせよ、様々な人との出会いは私の宝物であったと思えるようになったのです。その宝物をあらたためて手に取って触れて観たいというのが、私の希望=「出会いのレッスン☆ラジオ」です。

収録した談話に順に番号を振って、番組を並べただけの簡素なネット放送ですが、ぜひご試聴いただければと思います。瀬戸嶋にとっては、この「からこと通信」と「出会いのレッスン☆ラジオ」のみが、時代とのつながりの手段となっています。竹内レッスンから、瀬戸嶋レッスンへの船出には「からだとことばといのちのレッスン」の機会を増やしていかねばなりません。「通信」と「ラジオ」をお知り合いやお友達に、ご紹介いただけると有難く思います。どうぞよろしくお願いします。

瀬戸嶋 充 ばん

※ 「出会いのレッスン☆ラジオ」の番組表をHPに掲載しています。https://ningen-engeki.jimdo.com/
※ 「竹内敏晴」(1925‐2009)演出家、教育者。幼児期より青年期まで聴覚障碍者。聾唖者として、自ら話し言葉を獲得しなおす過程を描いた『ことばが劈(ひら)かれるとき』は名著と言える。その集中力は天才の部類に入る人物。

*********************

【1】 ZOOMレッスンのこと( ジャンプ )
【2】 あまねとばんの交換日記( 呼吸 )
【3】 レッスンのご案内( 9/24-26、11/26-28日、秋の伊豆合宿を開催します )
【4】 あとがき( 私のオニギリ )
【5】 バックナンバー( ばん|note ) 

*********************

【1】 ZOOMレッスンのこと

昨年4月、定例レッスンを中止しました。コロナはもちろん、細かい事情はいろいろですが、東京新宿で長年続けてきたリアルのワークショップを中止、大阪・京都でも、月一開催の定例会がちょうど5年目を迎えたところで中止。

合宿は継続しているものの、毎週毎月のように開催していたレッスンの場がなくなり、Stayhome。都心へと出歩くことのない、東京郊外、緑の多い自宅近隣での生活が中心になってしまいました。都落ちですね(笑)当然、収入は途絶え、さてさてどうしようと、国の補助金を使ってノホホンと過ごしていましたが、さすがにこれからの見通しが全く立たない。状況は厳しくなるばかり。

エイッ!ヤーっとばかり、ともかくこれまでのレッスンで顔を見知った人たちに連絡をとって、ZOOMレッスンを試行。半月後には有料の教室開始。たしか去年の5月のこと。もう一年半が経とうとしています。

最近になって得心が行ったのですが、ZOOMではジャンプができない。心身の集中度をギリギリまで持ち上げておいて、自分の壁をひょいと超えてしまう。これがレッスンの醍醐味なのですが、それができないのです。中空に身を投げた自分を、私を含めその場のみんなが全身で受け止めてくれるという安心感と信頼感があって、自己表現(自己開示)のレッスンは成り立つのです。自分の身を投げかけるとは、後戻りのつかないところに立って、古びてホコリにまみれた自分を振り捨て、新たな自分としてが生き始めることなのです。

それは言葉では説明出来ない地点に立って、自分と人に出会うことでもあります。つまりその場に居合わせる仲間の存在がなければ、レッスンは成り立たないのです。ZOOMでは言葉での説明が多くなる。本物ではない言葉=「意味」での代替です。ZOOMの画面の向こうへと手を伸ばして、その人のいのちを守り支えることは、不可能なのです。これが私のZOOMレッスンを重ねてみた結論です。存在(=からだ)を共にする安心感という、決定的な条件が成り立たないのです。

それではこれまで何をやっていたかということになってしまいますが、野口体操のレッスンについては成立させることが出来ていたようです。誰もが身内に持っている自然性の働き。個々人のいのちの働きを支えている生命力。野口体操の実践によって、その活性化のお手伝いを繰り返す。

その中で一人一人が自分自身の「からだ」との出会いを深め、自分と心身との関係を新たに発見していく。いわゆる、ヨガやボディーワーク、身体心理療法などでいうリトリートですね。これなら成り立つわけです。少しずつ段階をおって、一枚一枚覆いを剥がしていくようにして、自己=心身との出会いを深めていく作業です。これはだいぶ地味な作業で、いわば修行ですね。ただしこれはどこまでも自分(自我)意識が着いて回る。自己を丸ごと放棄したところから始まる、真の自分らしさの解放。それがZOOMでは成り立ちようがないのです。

リアルに他者と時空を共有することは、多大な緊張感を伴いますが、だからこそそれを乗り越えたときに大きな解放感と、自他への深い信頼感を体験することが出来るのです。「からだとことばといのちのレッスン」のかけがえのない活動根拠です。

ここのところ、こんな社会状況の中でも、リアルの合宿には参加者が集まってくれるのですが、ZOOMレッスンは参加者が減って、そのうえマンツーマンでの開催がほとんどです。レッスンへの私の本心、その本当の思いを外れたところでは、人は動かないということなのでしょうか。厳しいものです。でも、何とかしなけりゃ(笑)

からだの力が抜けない人、柔らかくなりたい人、緊張をほどいてゆったりしたい人、もっと力を抜いて楽に過ごしたいと思う人、ストレスケア、セルフケアを出来るようになりたい人、ぜひZOOM野口体操レッスンに申し込んでくださいね!心身共々、とっても楽になりますよ!もちろんリアルの合宿にもぜひいらして下さい!!

瀬戸嶋 充 ばん

*********************

【2】あまねとばんの交換日記

あまねさんは、美大出身で油絵専攻、インタビューをライフワークとして、現在は子育てに奮闘中。
( あまねさんの最近の記事「あそどっぐ インタビュー」 https://note.com/kobagazin/m/m52dc197ffbaf

交換日記、前回までのテーマは『ぶら下がりの動き』。今回から『呼吸』について。

--------

あまね(8/26)

「ぶら下がりの動き」の次は、「呼吸」。
あまり語れるような蓄積がないけど、「呼吸」をテーマに選んだのはわたしです(「ぶら下がりの動き」を選んだのはばんさん)。

私が、ばんさんのところに行くようになったのは5年前ぐらいかな?
それとほぼ同時期から、踊りも踊るようになった。
ばんさんのレッスンも、踊りも、はじめのうちは夢中で「うわ〜い!」と、何が起こってるかも分からず、自分が何をしたいのかもそこまで気にせず、奔流のなかに舞うはっぱみたいな付き合い方をしてました。

ばんさんのレッスンの虎しかり(「私の命が求めてるのはこれなんだよなあ」)。
また、踊りの方でも「ああ私がしたいのはこれなんだなあ」というのが、ここ数ヶ月でだんだんハッキリしてきました。
で、虎と踊りにあるふたつの「これ」なんですが、「何かと混ざりたい(あるいはその何かと、どこかへ還りたい)」ってことかなーと今のところは思ってます。
混ざるっていうのは、自分をなくしてしまったら、そもそも「混ざる」にはならないし、かといって自分を固持していたらそれも「混ざる」にならない。
ある時は、たとえば自分を剣のようにして、何かに突入することもあるし、あるときは薄く、広く自分を膜のように(または洞穴のように)広げることもある(それで言うと、虎は剣を発射してるかんじだったかな・・・その発射した剣が洞窟みたいに広がってるかんじかな・・・
自分の身も、その発射したものに応じてるような・・・よくわからんけど・・・)。
そんな自分の変化を、混ざりたい何かに応じて、起こし続ける(「起き続けている」とも言いたい)・・・というのが、私がいまつかんでいる、何かと「混ざる」方法です。

前置きが長くなりましたが、その「混ざる」形に非常に密接しているのが呼吸だなあと思ったんです。
どうも、わたしの変化の起点は背骨にある気がして、背骨のまわりにある自分の身を、背骨から遠ざけたり、近づけたり、あれこれする動きと、呼吸がひじょうにリンクするんです(身だけではなく背骨自体も、うねったり、力を込めたり、抜いたり。手足は、背骨→ 身→ 手足の順で、ドミノのさいごの方として動く。
首は、背骨でもあり、身でもあり、手足的でもあり、越境してます)。
じゃあこんどは、混ざりたい対象が目の前にないときでも、自分ひとりで「混ざる」からだを再現してみよう・・・とすると、身の動き(変化)が地味なだけに、よけい呼吸が際立つ。
てっきり、自分の身の変化のついでに呼吸あるのかな、と思いきや、実はどうもその逆で、むしろ呼吸の動きに身がついてきているんじゃないか・・・?と。

前回のばんさんの「すき!」の話とも呼応すると思うですが、「混ざりたい」って「すき!」ってことだと思うんですよね。
「すき!(あるいは、混ざりたい)」を想起しながら呼吸してみると、背骨のはしからはしへ(どっちスタートでもいいんだけど)、はじまりからおわりへむけて、順に身に変化が起こっていく。
その変化ポイントの移動は、なめくじの蠕動にちかいです(あそこまで見事になめらかではないのだけど)。

以上が、私がさいきん呼吸について発見したことです。
まだ言葉になりきらない部分も多いけど、ひゃ〜おもしろ〜い!と思いながら過ごしてます。

これまで、よそから「こう呼吸するとよい」というものをあてがわれ、何度も何度も試してきたけど、どれも身にそぐわなかったんですよね。
「???」として、どうにも窮屈なかんじ。ここちよくないから、結局続かない。良いとも思っていない標語を音読させられている感覚にとても似てます(あるいは、バトミントンをしていた時代に「フットワーク」と教えられた型どおりにステップを踏むかんじ。結局ずっと出来なかった笑)。
それでも、なんとな〜くは、呼吸ってきっと大事なんだろうなあということだけは分かるから、え〜い!どうせえっちゅうんだ〜い!というフラストレーションを抱えてたので(うまくいかない原因が、相手にあるのか自分にあるのか定かでないのも悩ましかった)、
やっとこさ自分のなかに発芽した呼吸の芽と、そのここちよさにけっこうウキウキしています。

ばんさんと呼吸の馴れそめはどんなかんじだったんですかね?

あまね

--------

ばん(9/10)

合宿で出会った、あまねちゃんの虎の姿は実は、竜だったように思えてきました。背骨(背鰭)のうねり、胴体は洞窟で、その中で竈(かまど)のように焔が渦巻いていて、口先からチロチロと紅い火が漏れ出ている。竜の呼吸(息)は、焼き尽くす力でしょう。

まだまだ若い竜で、人生(竜生)修行は大変かも。炎の扱い、飛び方の稽古、闘い方、爪の使い方、竜のコミュニケーション術、などなど。いずれにしても他者と関わろうとすれば、自分の裡(なか)に渦巻く焔(ほむら)のコントロールが必至のこととなる。焔=呼吸ですね。

標語の音読なんて気休めのおまじないにしかならないし、ステップの形の中に押し込めようとしても、たやすく焔に蹴飛ばされてしまう。求めたところで、そう簡単には自分の思いの通りにはならない。そもそも呼吸は押し殺してはならない。呼吸を治めるには、全力(全身全霊)を懸けての自我との闘いが必須となることでしょう。

セロ弾きのゴーシュであまねちゃんが、かっこうを読んだ時のことを思い出します。大空めざしガラス窓を突き破ろうと体当たりを繰り返す鳥(かっこう)。混ざる=流れあうためには、全身の解放の深さ、薄さ、広さ、そのようなある意味激しい自己創造=絶大な緊張(コントロール)が必要になります。大きく固く重い竜の姿が、軽々と柔軟に宙を舞うのです。コップの底で、カサカサゴロゴロとノタウツ虫たちのパワーと同質なのかもしれませんね。竜の腹の中のうごめきが、その言葉が。

四股(しこ)のポーズで股割りするとキツイですよね。抓(つね)られたり殴られたり身を切開された訳ではないのに、キツイ!ツライ!ポーズをやめたくなる!もう結構!と内心で呻き声が上がります。四肢(しし)を大の字に開いた、シンプルな姿勢ですが、終えるとひぃーひぃー言ってしまう。

あれは全身くまなく力が入り、呼吸(内圧)だけでからだを支えている姿勢です。反対から言えば全身の繋がりを妨げるような、身体内の無意識な緊張が浮き上がってきてしまう。閉じ込めようとする無意識的緊張と、からだを開こうとする自然の働きとが激しい葛藤を起こす。ポーズという物理的な姿勢なのに、精神的な痛みが露わになってくるのです。

あとはひたすら痛みからの逃避をこらえて、ポーズをとり続けるしかない。痛み自体は実体を持たない、意識の描いた虚構です。あれだけ激しい苦痛を伴うポーズなのに、不思議とそれを終えて関節や筋肉を傷めた人には会っていません。

ポーズを何度も繰り返し体験することで、呼吸でからだを支えられるようになってきます。そして、全身全霊(からだと呼吸)がひとつになったところで、日常的な自己観(自我)を突き破って行動や表現を行います。「竜」(虎)が姿を現すのです。

私自身は、ここのところを座禅で通過しました。逃げ出したくなるような、座禅に伴う心身の激しい苦痛を、全力でからだを固めて耐えていたとき、深山の気が白い束になって、谷間の小径を私の方に向かって駆け下りてくる。その美しさに、固めていたからだの緊張がふとほどけ手放しになり、こんどは私ほうからも白い流れが、向こうからの流れと合わさりながら、谷間を駆け上がっていく。私という仮の実体感は消え去り、谷間と私は一つの空間として同化していました。

この時の私の課題は、お腹で呼吸の出入りを数え続けることでした。

呼吸(息)のことを語り始めるとキリがなさそうです。次回のあまねちゃんのお返事につなげたいと思いますが、最後に学ぶことについて一言させてください。私にとって学ぶということは、もともと自分に備わったものを掘り出して、その姿を自他の眼前に十分に晒すことです。竜というのはもともとあまねちゃんの中に備わっているもの。竜生(人生)修行は、飛べるための方法や、竜の呼吸のやり方を学ぶことではないのです。もともと備わっているそれらの能力を、それらの活躍を妨げている偽の装いを、深い集中のちからをもって引きはがして行くことで、明らかにしていくのです。そのとき「私」は呼吸そのものとなるのです。呼吸と自分という分離、意識による妨げを超えて、竜そのものになるのです。楽しみです。

ばん

--------(つづく)

*********************

【3】 レッスンのご案内

● 秋の伊豆川奈合宿開催決定
秋の心地よさをご一緒しましょう。「からだとことばといのちのレッスン」にはもってこいの季節です(笑)
⦅Ⅰ⦆2021年 9月24日(金)~26日(日)
⦅Ⅱ⦆2021年 11月26日(金)~28日(日)
詳細は以下ホームページをご覧ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/2021%E5%B9%B4%E7%A7%8B%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%B7%9D%E5%A5%88%E5%90%88%E5%AE%BF/

● 「出会いのレッスン☆ラジオ」の番組表は、https://ningen-engeki.jimdo.com/

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内は、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

● 琵琶湖和邇浜合宿
恒例になっています琵琶湖合宿、来年も開催します。

・2022年1月8日~10日 琵琶湖冬合宿

*********************

【4】 あとがき

● からこといのち通信をお読みいただき、ありがとうございます。文章を書くことにコンプレックスを持っていた私が、やむに已まれぬところで書き始めた通信ですが、紙面に向かう時に感じていた、額と胸にのしかかる様な重圧がようやく和らいできました。
継続こそ力であるとは度々聞いていましたが、私は結果を求めてはやる気持ちが強いのでしょう。コツコツと積み重ねていくのが苦手です。結果が出ないとイライラしてきて投げ出したくなる。見かけによらず物凄い内面短気なんです。この頃になって覚えたのは、その短気を積み重ねていくこと。短気を寄せ集めてギュッと圧縮して、形をつくるのです。短気のオニギリですね(笑)
そして少しづつですが、オニギリがオニギリらしくなってきた。わたしは主夫をやるくらい料理が得意なのですが、オニギリは奥さんや娘に叶わない。悔しいのですが、子供のころからオニギリを握る機会がなかったのです。
短気のオニギリは、握るほどにバランスの好いオニギリになってきたようです。といってもオニギリは奥が深そうです。森のイスキアの佐藤初女さんのおむすびは、人のこころとからだをいやしてしまう。わたしもそんなオニギリが出来たら良いな!などと思ってしまいます。
● そんな私の通信にお付き合いありがとうございます。アドバイスや感想を頂けると助かります。どうぞこれからもよろしくお願いします。
● そして何より、リアルのレッスンにいらして下さい。何が在ろうと私は、リアルのレッスンを死守する気持ちでおります(笑)

瀬戸嶋 充 ばん

*********************

【5】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

*********************

● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №16』10月号 2021/9/16 発行

*********************

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?