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『からこといのち通信 №17』11月号 2021/10/24 発行


『からこといのち通信 №17』11月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2021/10/24 発行

合宿は『航海』に似ている。日常という大洋に浮かべた船に、皆で乗り込み旅に出る。『物語』という紙上の海図を頼りに、普段私たちが住み込んでいる有限の世界から、無窮の天地へと船を進める。いのちの風を全身全霊で真っ向から受けながら、やがて日常の大海をはなれ、海上を眼下に見ながら、天の海へと航海は進んでいく。

異次元への旅といっても良いかもしれない。そのために私たちは、『魂』を地べたに縛り付ける日常という重荷を解き放っていく。想像力を翼に日常の地平から飛翔し、物語の世界に遊ぶ。私たちは心の重さ(観念の呪縛)から解放され、今ここに渦巻く『いのちの風』に乗って物語世界を自由に舞う。そこでは恐れも喜びも痛みも悲しみも、自らの生として平等に受け止められる。意識による『からだ』への支配回路が断ち切られるからだ。

日常生活はそれを縁取る『善し悪し』という観念によって保守・支配されている。旅に出るとはその保守の囲いの外に飛び出すことである。それが旅の本質・本来である。けれども生憎と現代においては『善し悪し』の観念があまりにも複雑に固定化されてしまっている。そこを飛び出さそうとすれば、いばらの蔓(善し悪しの棘)が足に絡み、苦痛を与え手放そうとしない。痛みを避けて、誰もが行動を控えるようになってしまっている。

ただし『棘』は『善し悪し』の観念によって象られた虚構である。虚構への囚われから旅立つのが、私たちにとっては物語を『声にして読む』ことである。その為に私たちは、未知の大洋を必要とする。なぜなら世間の側から『善し悪しの棘』を持ち込みたくないからである。日常と地続きでは、その誘惑を避けることが出来ないからである。そのためレッスンは、都市や日常生活の喧騒を離れた地での合宿開催となる。

『善し悪し』はつまり相対的な観念であり、私たちの心の眼差しに壁を築く。戦争は互いに相手との壁を打ち壊そうとして、傷つけあう行為である。そんな闘いから自由になる道がある。自我による計画・創作によらない物語。いのちの側から、自然の促しによって描かれた物語を、語り舞い生きることである。私たちは宮沢賢治の童話を手掛かりに『善し悪し』を超えた世界に旅立つ。人間が人間として生き始めた当初より、私たちはそんな物語を必要としていた。原初的なコミュニティーによって生み出された物語。それは決して個人の創作ではないだろう。人と時代を超えて生み出されたものだ。同時にそれなくしてはコミュニティーの成り立つことのない、絶対的な存在と言いたくなる。比較を超えて全てを飲み込み、息づき続けるのが物語である。

先日の合宿では、宮沢賢治作品『銀河鉄道の夜』を『からだ』と『声』で通読しました。教室や活版所、ジョバンニの家、ケンタウル祭の街並、それぞれの場に『からだ』を置き、想像力を駆使してその場を翔け抜けていく。銀河鉄道の車窓への跳躍、旅客との出会い。様々な『声』が交錯し、車室や車窓の世界が導き出されてくる。銀河鉄道へと確かに旅をしてきたな!合宿を終えての感想です。

賢治の物語の旅を終えて、「死」と「生」は彼方と此方に隔てられたものではなく、地続き(時続き)のものだという思いが深まりました。

瀬戸嶋 充 ばん

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【1】 レッスン生活40周年記念
【2】 あまねとばんの交換日記( 呼吸の話 )
【3】 レッスンのご案内
【4】 あとがき
【5】 バックナンバー( ばん|note ) 

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【1】 瀬戸嶋レッスン40周年記念

私が「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)に出会ったのが1981年の10月。野口体操教室に初めて足を運んだのがその11月。当時は24才。この9月に64才の誕生日。なんと竹内レッスンと野口体操に触れてから、40年が経ってしまった。

当時は、大学を卒業して中学校教員として勤める予定。それが竹内演劇研究所に入って、道を踏み外してしまった(笑)

大学時代の4年間、勉強に興味が持てない。教員資格だけは取らなければと思い込み、試験科目の単位を取るのに一生懸命。私は子供のころから勉強するのが面倒くさい。進学や就職への興味はゼロ。心が弾むのは、彼女との恋愛にどっぷり溺れるのと、酒を飲んだくれて屁理屈をまき散らす。将来の展望などないもんだから、頭の中の夢や理想の教育論を吐いては、いい気になって飲んだくれていた。アルバイトの給料は、酒とパチンコに消えていた。人に誇れる技能もなし。金の切れ目が縁の切れ目で、付き合っていた彼女に交際を断られたこともあった。今思えば、几帳面な見せかけのわりに、酷くだらしない奴だった。いや、肩までの長髪に黄色のトレーナーとオーバーオールだから、見せかけも怪しいものだ。そのうえ中身は空っぽ。人生を導いてくれる先輩もいなかった。

当時付き合っていた彼女が、演劇に興味を持っていた。私は演劇に胡散臭いものを感じていたので、彼女が演劇の仲間と楽しそうにしているのが、気にくわない。自分を置いてきぼりにして、他の世界へ行ってしまう不安。独占欲というやつか、まあ簡単に言えば「僻み」。

中学校理科教師への就職が決まったので、暇に任せて竹内演劇研究所へ飛び込んだ。彼女に演劇を辞めさせて、自分が飛び込んでいった。当時は教育改革をめぐる運動が活気を帯びていて、教師を目指す私にとっては、哲学者・教育学者の林竹二さんの活動を、その著作で読むのが唯一の救いだった。その林さんと竹内敏晴(竹内演劇研究所主宰者)との対談本が胸に刺さった。児童文学作家の灰谷健次郎さんと林さんの対談も。そして私は竹内敏晴の「からだとことばのレッスン教室」へと飛び込んでいった。

地下鉄中野坂上駅から3分、結城屋酒店の地下に竹内スタジオがあった。酒屋の脇の急階段を暗がりの中へと降りていく。酒屋の地下倉庫を改装して稽古場にしていた。安いラワン材の床板を敷き詰めた 9m×8m四方の床が、汗に磨かれ飴色に光っている。壁はペンキでピンクと青に塗り分けられている。舞台背景のペイントがそのままということ。手を伸ばせば届く低い天井。当時の言葉で言えば「アングラ劇場」。酒を飲むのと少年ジャンプを読むくらいが趣味の私には、竹内演劇研究所「竹内スタジオ」は、これまにで縁のなかった全くの異世界だった。踏み入ってはいけない世界を覗くような緊張感があった。

70平米(40畳)ほどのスペースに、30名ほどの教室生が週3回、夜3時間ほどの時間を過ごした。ぎゅう詰めの、いわば地下の穴倉で、夏など冷房もなく息切れしそうになる。それがレッスンに集中すると、その場の空気がシーンと引き締まってくる。そんなことを思い出さす。埃だらけ、カビだらけ、汗まみれ、ゴキブリが這い回る。そんことには誰もが平気の平左で、今思えば不思議な異世界、近代化を拒む旧市街地とでもいおうか、非日常の空間だった。

竹内演劇研究所「からだとことばの教室」は、11月に始まり4か月余りのレッスン、最終の仕上げとして翌3月に舞台発表会を行った。発表会前2週間ほどは、連日の稽古である。竹内レッスンを2日、野口体操を1日、合わせて週3日。プラスに発表会前の2週間、連日のスケジュール。今思えばよくもまあ、皆が時間を取れていたものだと関心する、、、というか不思議でならない。「自分が変わらねばならない!」という意識を、みなが強く持っていた時代だったのだろう。様々な自己啓発のセミナーが流行りだしたのもこのころだ。ヨガ・野口整体・操体法・舞踏・コンテンポラリーダンス・気功・太極拳・エサレンボディーワーク・等々と賑やかに、雨後の筍のような勢いで次々顔を出した時代でもあった。革命の論理一辺倒の時代からその敗北を経て、「からだ」の復権が高唱されていた。

ともかく私は、2回目の教員採用試験への挑戦(昨夏は試験に落ちた)を終えて、採用の発表待ち。そのまま、「からだとことばの教室」に飛び込んだ。中学校理科教諭への採用が決まったのは12月だったように思う。ホッとして、教室のみんなにおめでとうと言ってもらったことを覚えている。

1981年秋から翌年3月までの「からことレッスン」に私はどっぷりはまり込んだ。ともかく楽しい。竹内敏晴(師匠)のことを身内以上の身内のように感じていた。自分の友人や親兄弟以上に親しみを感じていた。竹内に会えること、そのレッスンに参加できること。レッスンがある日は、夜のスタジオが待ち遠しくて、レッスンのことを考えるだけで心が弾む。教室に通うことが嬉しくてうれしくてたまらない。40年後の現在に至るからだとことばのレッスン探求の始まりだ。

当時24歳の私は、大学の卒業のこと、アルバイト先での人間関係の軋轢、思うに任せぬ恋愛感情などなど、解決の糸口もなく、よくある青春の一コマであろうが、一人っきりで悶々としていた。それが夜のレッスンの時間になれば、心の重荷をすべて吹っ飛ばして、レッスンに集中できる。

からこと教室に入るまえ、学生生活の終了を控えたそのころ、私は、これまでに体験したことが無いようなストレスを抱えていたようだ。大好きな酒、私の恋人と呼びたくなるような酒。日本酒のヒヤ酒が好きだ。気分の落ち込むような飲み方はしない。笊のように酒を流し込み、大量の酒を消費するが、楽しい酒がほとんどである。悪口や暴力で人の気分を損なうことはない。もともと気が小さいせいだとは思うが、いくら飲んでも崩れない。おとなしいものである。歌舞伎町で「オ×△〇ォ~」などと下品な雄たけびを上げた覚えはあるが、呑めばいたって楽しい酒である。ところが口が酒を受け付けなくなってしまった。コップ一杯の日本酒、その一口が不味くて飲み込めない。

酒で心痛・心労を解消してきたし、それが出来ていた大学時代。酒のおかげで割りと悠々と過ごせてきたのに、その最後になってお酒の守護が効かなくなってしまった。社会へ出ざるを得なくなったときに、社会不適応者・社会的能力の欠如者としての自分を否が応にも見せつけられ、自分の無力感を自覚せざるを得なかった。その二進も三進もいかない状況に嵌り込んでしまい、大好きな「お酒さん」でも対応しきれないような、大きなストレスを抱えてしまっていた。

今になってこそ、こんな言葉でその当時を表すことはできるけれど、24歳のそのころ、私は、ともかく得体のしれない激しい心痛に襲われていたようだ。酒が飲めなくなるほどに(笑)

ところが美味しいお酒が帰ってきた。竹内演劇研究所「からだとことばの教室」に通い始めて間もなくのこと。そのうえ、以前よりさらに「呑んべぇ」となって!いた。以来、清水で喉の渇きを癒すようにお酒を呑むようになった。片手に煙草を燻らせながら、ニコチンを抓みに酒を飲む。それが無常の楽しみとして復活してきた。

普通、心的なストレスに対しては心理学的アプローチ(対話)によって「こころ」の緊張を緩めたり葛藤を解消する。知的・意識的に問題を解決する。竹内レッスンでは「こころ」の緊張=「からだ」の緊張という立場を取る。当時の私は、悩んだり苦しかったりすると、もっぱら自分の問題をどうしよう?と、考えてばかりいた。頭(意識)を使って問題解決をしようとするのだが、答えは見いだせない。思考が硬直すると酒で頭を緩める。世間には、考えて努力して現状を乗り越えるのが当たり前の風潮。私も知らぬうちにその考え方に嵌ってジタバタしていたのだ。

「からだ」が変われば「こころ」が変わる。心の不快感、ストレスの原因は、無意識裡に働く筋肉の硬直・緊張によるのだ。自分の中の自然、その活躍を妨げる自己への締め付けを手放せばよい。野口・竹内のレッスンはその立場を取る。簡単にいえば、「考えてうまくいかない時は、意識への囚われを手放し「からだ」の緊張(強張り)から自己を開放しろ」ということだ。私は、このような考えを知ったうえで竹内演劇研究所に入所したわけではない。けれども、私は教室に飛び込んで、演劇的な自己表現のレッスンにはまり込み、抱え込んでいたストレスを見事に開放して行き、深く清々しく腹の底から自分の本当の「ことば」を解き放った。ストレスとは自分の意識の底に抑え込んだ「ことば」の集積である。その奥底から、私の「いのち」=「真っすぐなことば・本心・本音」が、ストレスの壁(既成概念の壁)を突き破り、自我の頸木を打ち破って、自他の眼前に姿を現した。その喜び。

自分で自分を閉じ込めていた常識的な既成概念を、喜びに任せて喰い破り自己を開放していく。これまでにない自分(=「からだ」)との付き合いがスタートした。

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今回、通信を書き始めたら、私自身の歩みの振り返りになってしまった。40周年ということで、それもありかな?と考えている。今月は通信に載せる文章が、なかなか浮かび上がってこない。ピッタリと蓋がハマってしまい湧き出し口が見いだせない。今月中に発刊できるか心配だったけれど、40年前のことに目を向けたら、文章が溢れてきた。読んでくれる人にとって、良いのか悪いのか全く分からないが、次回へと続けてみようと思っている。ご容赦頂ければと思う。それから質問やら内容についてのリクエストを頂けると有難い。私の奥の方から「ことば」が引っ張り出してもらえるような気がする。批評や論議は苦手だ。そういうものは私のやわな心を凍らせる(笑)

瀬戸嶋 充 ばん

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【2】あまねとばんの交換日記

あまねさんは、美大出身で油絵専攻、インタビューをライフワークとして、現在は子育てに奮闘中。
( あまねさんの最近の記事「あそどっぐ インタビュー」 https://note.com/kobagazin/m/m52dc197ffbaf

交換日記、前回通信 №16の『呼吸』についてのお話しの続きです。(№16は、https://note.com/kara_koto_inochi/n/nbed31cfaab42 )
今月は、瀬戸嶋ばんの返事が間に合わず、あまねさんの記事のみのお届けになって仕舞いました。ご免なさい。

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あまね → ばん(2021/10/13)

前回のばんさんのメールを、私は勝手に激励!ラブレター!として受け取り、この1ヶ月ばんさんのくれたラブレター(笑)を何度も読み返しました。なんともうれしかった。こんなエラそーなことばんさんは言わないだろうけど、まるで「きみは生きてていい」って言われたような心地でした。

むかし(大学生ぐらいかな)から身体というか、人間を「管」と仮定して考えることが多く、それがなんとなく自分にとっては自然でなじみがよく、これまで「仮に管であるならば・・・」と漂うようにあれこれ空想してきました(こころにおいては、沼を想像することもよくあります)。この「管」人間観は、あまねの虎は竜なんじゃ説とすこし響くのかもしれない・・・。

あとはあれですね、ホント関係ないかもしれないけど幼稚園はいるか入らないかぐらいに見ていた白昼夢があります。それも思い出しました。さほど大きくない帯がしずかに漂ってる。帯の片側だけが、葉脈のような管で縁取られている。その帯がいくつもあって(か・・・もしかすると、とても長い帯が一本だったのかも)、葉脈のような管のない、もう一方のひらひらした側で帯がお互いを切り合う。管は固いらしく、斬り合いは管でとまる。帯どうしがお互いの幅めいっぱいに切り合って、刃(帯)が奥まで入りきる感覚がここちよくって、複雑に切り合うほど恍惚としていたような記憶があります。

冒頭にわたしが「なんともうれしかった」と書いたのは、こういった、自身のワケの分からんものを、それと気づく人がまず、かなり少ないし気づいた上で諸手を挙げて(?)イエス!と言ってくれる酔狂な人なんて、そうそう居ないからです。仮に気づいていても、刺激せずに後ずさりするのが一般的な判断ですよね。・・・という背景がじぶんにあるせいなのか、他人に、そのひとが身の内にとじこめている怪物をみると、怪物にウットリと共振してしまって、なんの責任もとれないし、リスクだらけなのも重々承知なんだけど、そんなことはみなふっ飛んでしまって、夢中で「怪物く〜ん!!!」と呼びたくなってしまう(しばしば、そうする)。ばんさんも、もしかするとそんな具合で前回のメールを書いてくれたんじゃないかなあと想像して、それもまたうれしかったです。もっと言うと、わたしが夢中で「怪物く〜ん!!!」と叫ぶ声の主は、おそらくわたしの怪物(竜)です。竜が、やっとこさ仲間に会えて、己の声で、仲間に「会おうよ」と声をだせるのがうれしくってたまらないというのもある(人間のセオリーやら、倫理やらから逸脱した地点に、自分を置くことができますから)。だから、相手のなかにいる怪物の解放のよろこびと、自身の怪物が本音を叫べるうれしさが、なんだかもう、それがどっちのハッピーなんだか分からん、自他の垣根を失ったうれしさなんですよね。もっと言うと、それはもはや相手と自分の話だけじゃなくって、その人といっしょに地球の毒素を「うるっ」と消化してるような気さえする。そういう瞬間に身を浸すとき(めったにあることじゃないですが)、ああ生きてきた甲斐があったわいと思う。

ここまで書いて、山と同化したばんさんの感じたものってどんなかんじだったろうなあ、とますます気になります。

これまで呼吸って、「空気だ」って思ってたけど、このところ呼吸に気をつけて過ごしてみると、うつろう空気の輪郭とふれあっているからだ、空気との接点にあるからだ、に接しているからだ、そのまたとなりのからだ、からだのそと、ふうけい、そら、じめん・・・と、隣接しているものを追っていくと、こりゃどこをもって「呼吸」と呼ぶんじゃろうか?な気持ちになってきました。自転車デートで前を行くばんさんを見ていると、空間に対して、ふわ〜っとつながってばんさんはそこにいるから、ばんさんの肉体の輪郭がどっかにカツンとぶつかる気が全くしない、おそらくその可能性はゼロに近いのだろうな・・・という感覚をいつも覚えます。歩いてても、チャリでも、止まってても、関係ない。ってあれ?「うつろう空気の輪郭とふれあっているからだ、空気との接点にあるからだに、接しているからだ、そのまたとなりのからだ、からだのそと、ふうけい、そら、じめん・・・」こればんさんなんじゃねーの。って書いてて今思いました笑

あとそうそう、いなげやのベンチでずーっとお話ししていたとき(二人ともクツも脱いで、足をベンチにのせて自宅のようにくつろいでいた)、話をしながら、ばんさんの方へぐにょ〜と輪郭が溶けていくというか、吸いこまれるような感じがあって、コーヒーにクリープ入れたときみたいに、わたしとばんさんがぐるぐると一体化するような感覚をおぼえました(おもしろかった)。声は呼吸のお花みたいなもん(?)だろうから、ふつうの、会話する声でひとと混ざることもできるんだな〜・・・っていう、ばんさんのレッスン通って何年目になるんだよ(笑)な感想ももちました。

あまね

(つづく)

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返信の代わりに、ばんの感想

「呼吸」を話題にしたら、こんな風に話が膨らんでしまった!呼吸って面白いなぁ~。
あまねちゃんからメールで届いた上記の記事、一読した始めた時、光の沸騰が飛び出してきた。
それは文章の意味内容というより、本のページを開いた瞬間に沸き立つ光を浴びせられたような。
「呼吸」を語ることには、酸素の物理的な供給交換だけに収まらない、不思議な世界が広がってくる面白さがありそうですね。

ばん

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【3】 レッスンのご案内

● 秋の伊豆川奈合宿開催 【11月26日の開催分、現在キャンセル待ちです。】
秋の心地よさをご一緒しましょう。「からだとことばといのちのレッスン」にはもってこいの季節です(笑)
⦅Ⅰ⦆2021年 9月24日(金)~26日(日)
⦅Ⅱ⦆2021年 11月26日(金)~28日(日)
詳細は以下ホームページをご覧ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/2021%E5%B9%B4%E7%A7%8B%E3%81%AE%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%B7%9D%E5%A5%88%E5%90%88%E5%AE%BF/

● 琵琶湖和邇浜合宿
恒例になっています琵琶湖合宿、来年も開催します。
2022年1月8日~10日 琵琶湖冬合宿

● 「出会いのレッスン☆ラジオ」https://www.youtube.com/playlist?list=PLnDMDlLE0m1LaDrvijAQA8RwzaiNAAdpZ
番組表は、https://ningen-engeki.jimdo.com/

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内は、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

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【4】 あとがき

● 知合いに40周年の話をしたらいきなり「そりゃ、お祝いしなけりゃね!」と言われた。私は「40年やって来てやっと見えてきたことがあるよ」と自分の変化や発見を相手に聞いて欲しいと思っていたのが、いきなり「お祝い」と言われて、ことばが途切れてしまった。そういえばこの頃「40年」を度々口にする。あまり自分では意識していなかったが、どうやら内心「40周年」が嬉しくて堪らないらしい。

● 私自身は自己主張を億劫に思う。だから会合などで集団の中にいるときは、片隅でこっそりと周りの様子を眺めて過ごす。誰かが意見を述べたり、皆がワイワイと意見を交わしているときなど、私の出番はないと思い詰めて身を引いてしまう。と自分では思っていたが、どうやらそうではないらしい。私がその場にいることの意味。周りの人からの私への印象と、私が私自身の印象と思い込んでいた自己像との間には、酷くズレがあるようだ。人と話したり、思いを言葉にして文章を書いたりしていると、思いがけない自分が姿を現してくる。これまでに何人かの友人から「お前は変わった奴だよなぁ~!」と何度も言われて来たが、自分では至って普通のつもりだった。自分の普通が、他人からは必ずしも普通ではない。こんなことに気が付き始めたのも、最近のこと。青春時代から40年後のことである。我ながら悠長なことだと思う(笑)こんな人もあんまりお目にかかったことがない。「変わった奴」だ!

● 合宿参加の申し込みが増えてくれて嬉しい。レッスンをすることが私の喜びだ。レッスンをしないでいることは苦痛でさえある。昔のこと、有名な登山家が「あなたはなぜ山に登るのか?」と記者に問われて「そこに山があるからだ!」と答えた。リアルを危険視する今の時代、なぜレッスンをし続けるのか?「そこに、からだがあるからだ!」とでも答えようか。

● 水面下で、、、大げさかな? でもなかなか水面から飛び出せないのは事実か(笑)関西方面でのワークショップの復活再開を画策しています。どなたか興味を持っていただける方がいらっしゃいましたら、力を貸してください。コロナの中にも拘らず、満員御礼の続く琵琶湖・伊豆の合宿。外の地域にも合宿の機会を広げていきたいと思っています。これもまたお力添えをお願いします。

● 質問や「こんなことを題材にしてほしい!」など、お便り大歓迎です。私のレッスンや文言は、参加してくれる人たちとの交流から浮かび上がってきたものです。私の言葉自体が、様々な人たちとの出会いによって紡ぎだされてきたもの。それは通信に関しても同様なことです。それもこれも40年のレッスン修行をへて、今になって見えてきたことですが(笑)

瀬戸嶋 充 ばん

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【5】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №17』11月号 2021/10/24 発行

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