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『からこといのち通信 №20』2月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2022/1/26 発行

『からこといのち通信 №20』2月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2022/1/26 発行

「あっ?これだ!」ギターに合わせて歌っていたらいつもと違う「こえ」が出た。声が焦点を結ぶというか、落ち着きどころに落ち着くというか。これまでの自分の声が、本物ではないと言うことが、はっきりする。

いつもの声は、ぼんやりとして纏まりがない。茫洋とした、それでいて見通しの利かない外皮に包まれたような声。ふだんの私はそれを自分の声として話し、自分の声だと思ってその響きを耳で捉えていた。自分の中に響いて聞こえるその声は、心地よくもある。

ところが、アボガドの中から大きな種がボロリとこぼれ落ちるように、「こえ」が飛び出してきた。コロコロと転がるように声が喉から転がり出ていく。

アボガドの種皮や果肉の発する響きは、私の声ではなかったのだ。私はいままで種皮に包まれた果肉の味わいを自分の声と思い込んでいた。歌の発音や発声の練習をするときは、種子=「こえ」ではなくて、その周りの被い(おおい)をいじくっていた。被いの発する声をどうにかしようと、努力をしていた。アボガドの果肉はそれなりに美味しかったので、種子のことはお構いなしだった。

「こえ」がコロコロと転がりだして「ことば」になる。「こえ」がコロコロで「こころ」(ココロ)にもなる。ところが歌というのは曲者だ。メロディーに合わせて声を出したくなる。音声の響きという美味しい果肉に、「こころ」が囚われて、いつの間にか、「こえ」=種子のことを忘れてしまう。「こえ」が被い隠されてしまう。

自分の声と歌のメロディーが葛藤を起こすから、そこに「ことば」の抑揚が出てくる。メロディーという海に飲み込まれまい、自分の「こえ」を海面上に露わにしよう!その治まることのない葛藤が、感情の、歌の抑揚を生み出すのだ。

自分の「こえ」で「ことば」を語る。それは声と、それを話す(歌う・語る)自意識との分断を超えて、声と自分の間の距離を失うことである。それは自然である。赤ん坊が笑い声を発するように。声を発する「からだ」とそれを他人事のように見晴らす我(自我)という分断の消え去った声である。「こえ」自体がそのまま「わたし」である。自己操作という葛藤から解き放たれ、心は自在に飛び回る。「自分が話す(歌う・語る)」という実感さえない。楽である!自由である。

そしてメロディーは、「こえ」と「ことば」のダンスパートナーとなる。

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琵琶湖合宿からの帰宅翌日のこと。自室で弾き語りの練習の時のことである。合宿での2泊3日は、さまざまな気づきを私に与えてくれる。新たな自分の発見を繰り返せるから、合宿は毎回新たな場となり、古びることが無い。同時に懐かしい場でもある。居心地のいい故郷に帰ったような3日間だ。「温故知新」ということか?

私という存在が開かれた時に、思いがけないプレゼントがやってきてくれる。今回は自分の「こえ」と「ことば」がやってきてくれたようだ。

合宿では毎回、宮澤賢治童話の朗読劇を舞台に乗せる。今回は『鹿踊りのはじまり』を演った。素朴に、物語の精髄(エキス)に触れられたようである。https://youtu.be/-rm3YAVdIoQ で限定公開しているので、よろしければご覧くださいませ(笑)

瀬戸嶋 充 ばん

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【1】 レッスン生活40周年記念(その4)
【2】 あまねとばんの交換日記(呼吸の話⑥)
【3】 レッスンのご案内
【4】 あとがき
【5】 バックナンバー( ばん|note ) 

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【1】 瀬戸嶋レッスン40周年記念(その4)

オンライン野口体操教室に参加してくれている Hさんから、インタビューの依頼を頂きました。インタビューのテーマとして「〇」印の項目を頂き、それについて考えていたら、通信の記事が出来てしまいました(笑)

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〇瀬戸嶋さんと、野口三千三、竹内敏晴との出会いを教えてください。

竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』の初版が1975年1月、野口三千三『原初生命体としての人間』が1972年1月。
全共闘運動が終焉を迎え、人々を支えていた社会改革への「連帯感」が分断され、敗北感と共に多くの人が孤独感に苛まれた時代です。社会改革という自己の外部に向かっていた意識のベクトルが、方向転換を余儀なくされ、多くの人々が自己を見直すことへとエネルギーを注ぐようになりました。

社会運動を主導した思想、その意識主体の運動と論理的思考に偏ることが孕む、「暴力性」。その反省から、感性主体、身体主体の思考へと、人々の持つ価値観が転換していきました。上述の2冊は、その転換の時代の先頭に立って、新たな価値観へと読者を先導した著作です。

私も「頭でっかち」、理系ですから頭で考えた狭い世界観の中で、全てを合理的に説明・理解しようとしていました。社会というのは基本、合理では動いていない。非常に不合理な欲望や感情、建前と本音の絡みあい。人間というモノは、論理=言葉(説明)によっては把握できない。何か特定の正しさは通用しない。

私は社会経験の乏しい学生でした。頭の中の正論を振りかざして、社会を理解し対応するしか、社会に関わる手立てを持てない。関わりを深めようとすれば当然、私の思う正しさは誰からも相手にされない。自分にとって社会は理不尽理解不能で、得体の知れない未知の恐ろしいものとなっていました。日々が酷い不安に苛まれ身動きできず、逆に安心を求める気持ちは募り、ますます居ても立っても居られない気分が、私を襲います。

当時教職を目指していた私は、このままでは自分は教師になれない。生徒や学校組織の中で、教師として自分が活躍できるようになるには「自分が変わらることが出来なければならない!」と、強い思い込みを持ちました。今思えば、苦しみばかりに囲い込まれた不安な日々の連続に、ギリギリまで追い詰められていたようです。頭の中の観念と現実のギャップに、自己が引き裂かれていたのです。

そんな時に、何かに引き寄せられるように「竹内演劇研究所」にたどり着き「竹内敏晴」と出会いました。先に「人間というモノは、論理=言葉によっては把握できない。」と述べました。「演劇」とは、科学や論理によっては把握できない、感情や欲望という得体の知れないモノを扱う世界です。科学は論理の枠に出来事を治(おさ)めて理解していく方法ですが、人間を知ろう、分かろうとするときには、科学だけでは手に負えない。簡単に言えば綺麗ごとだけでは、人間を理解できない。そこに芸術の必要が生まれて来るのでしょう。

私が竹内の指導を受けて体験したことは、自身の心の奥(それは「からだ」の深部でもあります)に、しまい込まれた感情や衝動を開放し、その激しい息づき(エネルギー)を元にして、表現(演技)を成り立たせる。個人の内部に潜む強烈な情動(情念)を表現として昇華させる。いわゆる「カタルシス」(魂の浄化)です。それは人間にとって「演劇」の存在意義でもあります。表現によって自己の精神に潜む「邪」を昇華し、魂を浄化する。心の眼の曇りを落とし、物事を明らかに見られるようになる。それは結果として「真の自分」=「自己の魂」の解放、自己の成長を促す、全人教育への発想へと重なります。

竹内敏晴が、敗戦から社会変革の波の中を歩み続け、その敗北の中から見出した道が、人間変革=個人の変容です。その方法として、竹内は「からだ」からのアプローチ(=演技レッスン)によって人間精神を開放していく。演劇がいわゆるエンターテイメント(娯楽・商業主義)へと変わっていく流れを離れて、竹内は演劇レッスンによって、社会や個人の思考の歪みから、人間性を回復していく活動へと歩みを進めていきました。

当時は、演劇に限らず、セルフケアとしてのヨガや東洋的身体術法、自己変革のセミナーなど、身体や精神世界のワークショップが様々に勃興してきました。

そんな時代の動きを先導したのが、「野口体操」です。旧来の解剖学的身体観を超える発想と実践を世に問うたのが野口三千三の活動でした。「からだ」の力を抜くことの全人的な意義を明らかに示し、それを実践に移し「からだ」の指導・実践研究を続けたのが野口です。野口は著作の中で「体操による人間変革」と端的に述べています。意識=思考による変革ではなくて、体操=からだの動きによる人間の変革です。

私(瀬戸嶋)は、1981年秋に初めて竹内・野口の指導を受け、これまでの生活・成長の過程の中で出会ったことのない世界を体験しました。「からだとことばのレッスン」教室で、これまで無自覚のうちに私自身をがんじがらめに縛り付けてきていた、自意識からの解放、その自由を存分に味わいました。レッスンの場には、今までの人生で体験したことのないような解放感が溢れていました。

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〇体操と演劇はすぐには結びつきません。「ほぐす」と「演じる」の関係は? 体操をすることがどうして演劇に有効なのでしょうか。

陶芸家は粘土を素材にして作品を作ります。演技者やダンサーは自分のからだを素材として、舞台作品を作ります。カチカチに固まった粘土で陶器の壺は作れないことでしょう。土を十分に捏ねて粘土の可塑性を最大限まで引き出して、創作が可能になるのではないでしょうか。

演技者に求められるのも、身体の可塑性(動きの滑らかさ)です。緊張で「からだ」がガチガチに固まっていては、求める、或いは求められるイメージに自己を同化させて、役を演じることは出来ません。ストレッチや柔軟体操で得られる関節の可動性だけではなく、筋肉・内臓も含めた身体内器官の柔軟性が必要です。合わせて身体深部感覚の感度、感受性の細やかさ、質的な繊細さも求められます。

からだ=素材の柔軟さと身体感覚(感性)の繊細さが求められるのです。感情とは目に見えないけれども、身体内の細かな震え(振動=呼吸)を伴います。戯曲に書かれた言葉のイメージや、音声の振動やリズムの影響を受けて、内臓が揺れ動き、感情の揺れが引き出されるのです。それが呼吸のリズムに乗って観客に共感され、その心を揺さぶるのです。素材が十分に練り込まれることで、表現の創造を可能にする「からだ」が準備されるのです。

現在一般的には、この感受性の繊細さを育てるトレーニングは、ほとんど為されていない印象を私は持っています。その必要性を感じている人もわずかなようです。演技者にとって、感じる「からだ」(感性)が大切なのです。筋トレによって鍛えられた筋骨隆々のからだは、演技のためには必要が無いといっていいと思います。

それだけに、説明よりも先ずは体験していただくことが、一番かも知れません。「からだ」を「ほぐし」た、ビフォーアフターを比較すれば、誰の眼にも演技や朗読、歌唱など表現の変化を明らかに体感することが出来ます。野口体操は表現者にとって自己の心身のコンディションを最良の状態に整えるための稀有の方法だと思います。ただし、舞台表現に求められるのは、日常的な自己を離れて舞台の想像世界にジャンプする高次の集中力です。野口体操は集中の成り立ちを容易にはしてくれますが、演技自体はまた野口体操とは別個の集中を必要とします。

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〇放送関係者による発声指導は、訓練的というか、人工的。その顕著な例がアニメ声優だと思っているのですが、そこには不自然な美しさがあります。ああいう声について、瀬戸嶋さんはどうお思いですか。また、瀬戸嶋さんならどのような発声指導から始めますか。

発声指導の一番の困難さは、指導を受ける本人が、どの声が自分のベースになる「こえ」であるかが分かっていないことだと思います。持って生まれた個性としての「こえ」への自覚が、指導を受ける側にも指導する者にも、全く分かっていない。ベースが出来ていないところへ、発声法や正しい表現法を取ってつけようとするから、、、。地盤の脆弱な土地を考慮せずに家を建てるようなものです。無理やり立てるので、その場しのぎの対症療法的になる。まずは土壌の安定を図らねばならないところほったらかして、建物の立派さばかりに気を取られてしまう。

アニメ声ですね。アニメ放映の初期の声優さんたちは、舞台役者出身が多かったと思います。だから彼らは呼吸(=土台・地盤)が出来ている。声に感情やイメージを乗せていくのは、呼吸です。息の揺らぎやリズムが言葉(こえ)を通じて、観客に伝わっていく。そして言葉の内側を支えているのは、俳優その人の自然な呼吸です。笑ったり、怒ったり、内的感情の表現はどこからか取ってつけるのではなくて、自分の自然な感情を、利用しなければならない。それが出来ていれば、ドラえもんであれ、日本昔話であれ、それを見聞きするものに違和感を与えることがない。自然にすんなりと物語世界に聞き入ることが出来るのです。アニメ声で全く問題がないのです。笛が鳴りひびくようなアニメ声が、心地よさや美しさを提供してくれて当然だと思います。

ところが、時代が進むと、アニメ声が定型化してしまっている。笑っているなら笑っているように見える(聞こえる)表現、悲しそうなら悲しそうな、怒っているなら怒っていると、分かり合える定型が出来てしまっている。「表現」が「説明」に置き換えられてしまっている。そこには「からだ」の底から湧き上がってきて、観客の心身を鷲掴みにして内側から揺さぶるような体験は、成立しない。表現を受け取め共有する場が、「脳内」に限られてしまっている。劇場で観客が肩寄せ合って、感動を全身で共有する必要が薄れてしまっている。定型のやり取りは、お互いに約束事の中に安心できる良さがありますが、人の心の機微に触れるには、定型を飛び出す勇気がいるはずです。

「放送関係者による発声指導」を私は直接に受けたことがないので、自分の見解に責任を持てないのですが、敢えて意見を述べるとすれば、、、、。それは彼らの指導には、「正しさ」がついて回るように思います。「正しい発声」「正しい感情の表現」「正しい実践」「正しい作品理解」、、、。先ずなにか「正しい」ものが、確固として学ぶ目的として既に設定されていて、その正しさを目指すことを「学習者」に求める。そこでは、テクニックの伝授や、ノウハウの指導が、第一になってしまう。「正しい」に照らして、「過ち」を指摘するのが当然になる。生徒は自他の過ちに不寛容になっていく。アートというのはたくさんの「過ち」の中から、それが醗酵して、新たな価値や表現が生まれて来ることではないでしょうか?

「過ち」を排除してしまえば、人間は必要がなくなります。アナウンサーや朗読者なんて、いらなくなる。与えられたことを「正しく」やれるのが器械ですから。現にテレビ画面の中のニュースのアナウンサーは、優秀なロボットに近づいて行っているように思えてしまいます。引き攣った表情で、柔和さが欠如している。アートは人間を人間にするためのもの。工業製品化から人間を救うのは、アートに課せられた使命だと思います。

現代という時代環境が、人間を工業製品化することに、私はひどく抵抗を感じています。私にとっての発声指導の始まりとしては、先ず工業製品化された人間から、その被覆を取り払い、一人一人の個性としての「こえ」(発声)を取り戻すことから始めます。声を発し、言葉を表現することの喜びを先ず十分に体験する。表現の求める形態(歌・朗読・演劇・・・など)への特化は、必要に応じてあとから選択すれば良いと思います。表現のためのテクニックや作品理解は、先ず十分に自己の声(からだ)が顕れ出されてからの作業です。自己の表現がどのような方面に向かうかは、十分に自己の本来の「こえ」が発見されれば、自ずと決定されてくるものでもあります。

生まれ持って与えられた、かけがえのない自分自身の「こえ」、声は「からだ」という楽器の発する音色です。「からだ」という楽器がよりよく響きを発することが出来るよう、発声器官の緊張を「野口体操」を手掛かりにしてときほぐし、持って生まれた楽器(からだ)が最大限に活用できるよう、楽器としての「からだ」を調律するのです。

具体的には、野口体操の「ぶら下げ」の姿勢で母音「あ」の声を出し、発声の障害となるからだの緊張を取り除き、声を出したまま起き上がり、立ってくる。そのときの声の変化は誰にで聞き分けることのできる顕著なものです。「柔らかく透明な」声が溢れてきます。発声レッスンへのスタートです。

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瀬戸嶋 充 ばん

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インタビューって有難いと思います。質問に答える形で、私の中から文脈が引き出されてくるのです。一人で書いていると、自分で何を書くか決めなければならない。それがたいへんで、通信を読んでくださる人から質問やお題を頂けるとありがたいです。よろしくお願いします。(その方が文章が平易なものに変わっていくと思います。私の書く練習の機会です)

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【2】あまねとばんの交換日記

あまねさんは、美大出身で油絵専攻、インタビューをライフワークとして、現在は子育てに奮闘中。
( あまねさんの最近の記事「あそどっぐ インタビュー」 https://note.com/kobagazin/m/m52dc197ffbaf

交換日記、『呼吸』⑥ 呼吸について話をすると、とても大切な「なにか」に触れられる気がしています。6回目の連載です。
今月は、ばんの返信。(2022/1/5記)

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あまねちゃん

『 なんだか知れないけれど「また呼吸さんが来てくれたな⁉」と分かってしまう。』 (通信19号記事) の質問へのお答えから(笑)

ZOOMの時でもリアルでもあまり変わらないのだけど、正座している人の姿勢を先ず見る。この時の見方がポイントかも。

腰から下で見るというか、私のお腹に目が在って、その目(胎眼?)を相手のからだに向けるというか、、、。

ふつう相手の様子をうかがうのは、私たちの顔に二つ付いている、眼(カメラ)ですね。いわゆる観察眼(観「み」て察「さっ」する)になるわけです。

おそらく私(ばん)の場合は、眼で見て理解(観察)することをしていない。これは、レッスンで私が作る場の特徴かも。(おそらくがつくのは、ZOOMでは目で見なきゃどうにもならないですから。でも「からだ」はモニターの向こうと繋がっている!)

私たちはいつも観察・監視の目(視線)に晒されている。そしてそれにならされてしまっている。学校なんか一日中それが当たり前になっていて、そのストレスが感じられなくなってしまっているのかも。

野生動物(家猫もだ!笑)だと、視線を感じただけで逃げ出しますよね。危険の中でいのちを保つ(守る)ための、大事な本能(能力)です。その大切な能力を鈍くしなければ、学校の中では過ごすことが出来なくなっているのかも。(これは危険に襲われていても、危険を危険と感じられなくしてることですね。怖いです。)

生きていくために予め与えられた自然の能力を、押し殺さねばならない。街中は街中で監視カメラ、さらに相互監視の世界(観られていた側も見返すことで監視をするようになる。視線は互いを刺す刃ですね、そんな関係の世界からは、逃げ出したくなって、当然自然かも)。

家庭の中だって監視の目を逃れるのが難しくなっているかも。自室の壁の向こうから伸びてくる観察・監視の目(気配)を(小動物が身を守る時のように)感じることだってあると思います。

私たちのレッスンや合宿の場は、観察・監視されるストレスの無い、希少な場かも知れません。普段の生活環境とは異なる世界なのかもしれません。

・・・横道に滑ってしまった。
・・・正座のレッスンで、私が何を見ているか?へのお返事ですが。

正座している相手の「からだ」に、私はお腹の目を向ける。(この時、「顔の眼」には相手の座っている姿や背景(襖や畳、座布団など)も当然見えています)

お腹の目を向けると同時に、自分の「からだ」(=お腹)の中に、相手の存在を招き入れるような感じがあります。

おそらく外から見ると、このとき私(の「からだ」・「いき」)は相手の「からだ」とひとつになるところを、レンズの深浅を合わせるように探っている。

そしてその結果、相手の息と私の息がひとつになる。座っている人と境(距離)が消えて、同じ一つの息をしているわけです。

(この一連の私の中の変化は、意識的にやっているわけではありません。相手の存在に注意を向ける(集中すると)自然とこうなります。これは特別な能力では無いと思います。人と人とがひとつになりたいと願うことで、壁を乗り越えて行きたくなるのは、そんな能力を本能的な望みとして、誰もが備えているからでは無いでしょうか?)

ひとつになると、相手の呼吸は、私にとって自分のモノでもあるわけです。大抵は、苦しいまで行かなくても、微妙な呼吸への閉塞感を感じる。二人の「からだ」が一緒(一つ・同期)になっているので、相手の息をつめてる緊張が伝わってきて、息苦しい。自分の普段の呼吸に靄が掛かってしまい風通しが悪い感じ。(私とあなたが二つながら一つになっている)

相手のモノであれ、私のモノであれ、ともかく「呼吸さん」が困ってしまう。
呼吸が上手くできない原因は、物理的にからだの中の空間が緊張によって歪み塞がっているわけですから、息が深くできるように、「呼吸さん」が自由に振る舞えるようになるために、内的な空間の歪みの原因となる緊張を、姿勢から外したくなる。(「呼吸さん」の訴えです)

腰を緩めたり、胸・肩を屈めさせたりなどと、この時私が相手の姿勢を直すのは、自分の「からだ」の姿勢を整えているようなものですね。こんなかな?こうかなと?一緒になって姿勢を直していると、水路が開くように「いき」の道が開く。

「いき」の道が十分に開くと、生命活動の主役であるところの「呼吸さん」が活躍してくれるのです。私も相手も一緒に、息が楽になり「なんだか知れないけれど『また呼吸さんが来てくれたな⁉』と分かってしまう。」のです。

正座の姿勢が楽で気持ちよいものとなり、内側の暗さが消えて、内的な活性化の結果として、内側から明かりがともったように、本来の輝きが溢れてくる。美しいですよね。ともかく呼吸への圧迫が外れた「からだ」は気持ち好い!

外部と身体感覚との壁からも解き放たれて、「呼吸さん」は、外の景色の中へも自由に広がり、私たちの眼も、色鮮やかに息づく世界を受け取れるようになりますね。

ばん

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⦅「叩けよさらば開かれん」の世界です。なぜだと考えると出会いは遠ざかります。「呼吸さん」は私の視野から姿を隠してしまいます(照れ屋なのかも 笑)。目の前の人の「呼吸さん」にも、自分が生きている場や天体や大地の「呼吸さん」にも、全ての意識の対象一つ一つに、ニコニコとノックを繰り返し続ける。(賢治さんですね!)そうすると「呼吸さん」と自分との間に壁なんて無かったことを、呼吸さんからのプレゼントとして、呼吸さんが教えてくれるのです。個人という幻想から逃れる道はここに在るように思います。また、一度ここを通らないと「呼吸さん」のことは分からないかも知れません。レノンの歌「イマジン」にも通じるかな。⦆

(次号、あまねさんの返信につづく)

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【3】 レッスンのご案内

● 琵琶湖和邇浜合宿
『鹿踊りのはじまり』舞台上演。YouTubeに限定公開しました。
https://youtu.be/-rm3YAVdIoQ
から、ご覧ください。

● 神戸ゆらゆらワークの会主催WS
『「からだ」から始まるコミュニケーション入門』
2022年2月19日(土)~20日(日)、神戸市東灘区会場にて。
詳細は人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/2022%E5%B9%B4%E7%A5%9E%E6%88%B8%E3%82%86%E3%82%89%E3%82%86%E3%82%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E4%BC%9A-2-19-2-20/ をご覧ください。

● 春の伊豆川奈合宿開催 
2022年3月19日(土)~21日(月)
詳細は、人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/2022%E5%B9%B4%E6%98%A5-%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%B7%9D%E5%A5%88%E5%90%88%E5%AE%BF-3-19-3-21/ をご覧ください。

● ワークショップ・合宿などのイベントのご案内は Facebookページ https://www.facebook.com/SensibilityMovement に「いいね!」して頂ければ、詳細が出来次第、FB通知でご案内します。

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内は、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

●「出会いのレッスン☆ラジオ」https://www.youtube.com/playlist?list=PLnDMDlLE0m1LaDrvijAQA8RwzaiNAAdpZ
番組表は、https://ningen-engeki.jimdo.com/

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【4】 あとがき

先日近所で、満開の蠟梅を見た。陽に輝き黄色に咲きわう蠟梅に「ああ、今年も春が来たのだな!」と、ちょっぴり嬉しくなった。
コロナや不況にまみれて気持ちは冬。春などまだまだだと思い込んでいたようだ。
冬至はひと月前、とうに過ぎている。陽は伸びてきていて、天候は春に向かっている。
冬のどん詰まりに向かって下降していたのが、最下点を過ぎ、今は春に向かって登って行っている。
厳しい峠を越えたのだ。いまはひと時は心配を忘れて、春の訪れを祝おうじゃないか!

「どうしようか?」と頭を悩ます前に、バカになり切って「どうにかなるさ!」と大きな声で雄たけびを上げるのも良いだろう。

みなさん、本年もよろしくお願いします。

ばん(瀬戸嶋 充)

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【5】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №20』2月号 2022/1/26 発行

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