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「いつか報われる日」は多分やってこない

努力は報われる、という言葉がある。それを固く信じている人もいるだろうし、そんなもんはデタラメだと笑う人もいる。
実際のところはどうだろう。本当はみんなよく知っている。
努力は報われることもあれば、報われないこともある。どっちもある、ただそれだけなんである。

私たちはどんな行動を起こしたとしても、その行動が引き起こす結果を正確に知ることなんかできない。

私たちはくじ引きをしている

誰かに優しくしてあげたい一心で行ったことで、その誰かに嫌がられた経験というのは誰にでもあるだろうと思う。
誰かに好かれたくて行ったことで、嫌われたことも。
成功するためにやってみたことで、失敗したことも。

どんなに事前に準備していようと、どんなに意気込んでいようと、失敗に終わることは、どうしたって、ある。

結果に期待して行動を起こすことは、クジを引くようなものかもしれないと思う。当たりますようにと期待しながら、行動を選ぶ。こっちかな。あっちかな。こっちなら当たりかな。あの人はこっちの行動で当たったと言っていた。じゃあ私もこっちにしてみようか。
でもくじ引きはしょせんくじ引きで、一定数でハズレを引く。

そのように行動している限り…つまり結果に、報われることに期待している限り、私たちは偶然に振り回されて一喜一憂することになる。
私たちは当たりを引いたら幸せになれるはずだと考える。次は当たりを引きますようにと思って行動を起こす。
失敗すれば、次こそは当たりを引きたいと願い、次の行動を起こすだろうし、
もし当たりを引けば、やった、当たった!と一瞬嬉しくなった後、もっと上の当たりが欲しくなる。そして行動を起こす。
一瞬の幸福を追い求めて行動を続ける。これがスタンダードな生き方だ。
くじ引きは楽しいゲームだから、くじ引きの人生も悪くはない。勝てば嬉しい、負ければ悔しい。

結果ではなく行動を楽しむということ

でも本当は、そこにもう一つの生き方がある…と思う。くじ引きをやめる人生だ。一喜一憂はやめて、ずっと楽しく幸福でいる人生。
そんなことは不可能だと思う人もいるだろうけど、実はそうでもない。
結果に期待せず、行動に集中することでそれは可能になる。楽しい結果に期待して行動を起こすのではなくて、行動そのものを楽しむ。

例えピアニストになれなくても、今ピアノを弾くことが楽しい。例えお金にならなくとも、今この仕事をこなすことが楽しい。これから先あなたとどんな関係になるとしても、今あなたと一緒にいられることが楽しい。
成功者になろうとも、負け犬で終わろうとも、今生きていることが楽しい。
それは子供みたいな生き方かもしれない。
でも、もし明日世界が終わるとしたら、みんなそういう生き方をするだろうと思う。

多分、本当に幸福に人生を生きるということは、くじ引きをやめることだ。報いを期待しないことだ。今起こせる行動の選択肢の中から、「一番いい結果になりそうな行動」を選ぶのではなく、「行動それ自体を楽しめるであろう行動」を選ぶことだ(それが一致することもあるだろう)。どちらにしろ、行動が引き起こす結果のことはわからない。少なくとも、完璧にはわからない。でも、自分がどんな行動を楽しめて、どんな行動を楽しめないのかはみんなわかるはずだ。

だとすれば、どちらが本当に幸福に近づく選択肢なのか。

私たちは今日から変わることができる(かもしれない)

いやそれは極論だ、というのはね、まあね、その通りだと思う。

ただそれでも、
明日死ぬかもしれないから、やりたいようにやろう、生きたいように生きよう…そう言い続けて私たちは歳をとり、不本意に積み重なった過去を振り返って唖然としたりしている。
そんな人生をどうにかしたいと思いながら、どうにもできず途方に暮れていたりするわけで。

だったら、ほんの少しでも、今日から変えてみるべきなんじゃないかと思う。
モテそうな服を選ぶより、自分が着たい服を着る。
儲かりそうな仕事を選ぶより、自分がやりたい仕事をやる。
ウケそうなネタを書くより、自分が書きたいネタを書く。
得意なことより、好きなことをやる。

好きなことばかりやってたら見事に追い詰められました、なんてこともあるだろう。それでも好きなことばかりやっている間の幸福がなくなるわけではないし、好きでないことをやっていたら追い詰められなかったはず、というのは想像でしかない。

明日のことは、誰にも、本当に、わからない。
そのことを私たちは何度も何度も思い知らされてきたはずで、だったら、結果への期待を手放すことは当然の選択のようにも思える。それはもちろん、けっこう怖いんだけれど。

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