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「ありのままの自分を愛せ」って、ありのままの自分なんてものを他人に愛させるなという意味なのでは?

ありのままの私、という言葉のちょっとした流行のきっかけになった「アナと雪の女王」1作目の大ヒットは、もう2013年の話だと知る。あれからもう7年も経ったのか。

名曲「Let it go」は、自分の力を恥じて閉じこもっていた雪の女王・エルサが、隠していた力を爆発させて「もう人の目を気にする良い子ちゃんはやめる、これこそが私!」と高らかに自由を宣言する内容で、多くの女性(そしておそらくセクシャルマイノリティの方々なども)がその姿に自分を重ね「自分を愛すべし」とか「自己肯定感」とか「セルフエスティーム」とか「ボディポジティブ」とか、あのあたりの…力強くも、まだまだファジーなところのあるキーワードの流行にもリンクしていったのかな、という感じがある(批判ではないです)。

私も多分にもれずあの歌にはすごく心を打たれたし、「Let it go」以降、長い間「ありのままの自分を愛する」ということは私のテーマであり続けた。

そして最近になってようやく、「ありのままの自分を愛すること」の意味についてきちんと整理がついた感じがあったので、ここに書いてみようと思った。

「ありのままの私を受け入れろなんてムシが良すぎる」

「ありのままの自分を愛すること」の重要性を分からなくしてしまうのは、多分「自己中心的であってはならない」という世間的、常識的なルールのせいというところが大きい。

例えば美輪明宏さんの有名な発言にこんなのがある。

「ありのままの私を受け入れて」
なんていう女はムシがいいのよ。
ありのままのお前がなんぼのもんじゃっていうのよ。
なんの努力もしないで、ずうずうしい。
例えば畑の大根だって、
引き抜いて、泥を落として、皮をむいて、千切りにするなりして、
お皿に盛って、「はい、召し上がれ」って、
それで美味しく受け入れられるんでしょう。
泥だらけの大根を突き出してさあ食えって、失礼だと思わない? 


この言葉に頷く人は多いのではないか。

そしてこの言葉に頷けるからこそ、最近の「ありのままの私」なんていうのは鼻につく、と感じてる人も多いはずだ。

ちなみに美輪明宏さんはどちらかというと保守的な感性で品位や礼儀について語ることの多い方で、最近の「自己肯定」「個性を大事に」的な価値観とは多少食い違って聞こえることが多いのだが、思わず背筋がスッと伸びるような美しい言葉は、「古い」と切り捨てるにはもったいないものばかりだと思う。

私は中学だか高校だかの時に友人から借りた美輪さんの書籍でこの言葉に触れて大変印象に残っていたので、「let it go」の感動の後、長いこと自分の心のマイルールとして刻まれていたこの言葉をどう取り扱うか、ずいぶん悩んだ。

「ありのままの私を受け入れろという女は図々しい」←わかる

「ありのままの私を愛そう」←これもわかる

この一見矛盾した自分の気持ちにどう折り合いをつけたらいいのか。

同じように感じている方は意外に多いのではないかと思う。つまり、「ありのままの自分を愛したい、愛するべきだと感じている」一方で、「他人に対し図々しい自分でいたくない」という気持ち。「自分に正直でありたい」一方で、「他人を傷つけるくらいなら自己主張はしたくない」という気持ちを抱えて悩む。

が、結論として私が言いたいのは、タイトルにも書いたとおりだけど、この二つは全く矛盾しないということだ。

誰かが愛してくれるまで自分を愛さない人たち

ありのままの自分を愛することは、他人にありのままの自分を愛せなどと言わないことである。これを説明するために、前の美輪さんの言葉に戻ってみよう。

「ありのまま私を愛して」と男性に迫っている女性。まあ別に女性じゃなくてもいいのだが、美輪さんのセリフに準ずる意味で。

その女性は、果たしてどんな表情をしているだろうか?

高慢な、尊大な、調子づいた、図々しい顔をしているだろうか?

私がリアルにイメージできる彼女は、悲痛な顔をしている。

「私は、ありのままの私を愛せない。捨ててしまいたい。でも捨てることもできない。だからあなたが、私のありのままの姿を肯定して。そのままで生きていいと言って。」とすがりついているのだ。

思うに「ありのままの私を愛して」という女は、「私という素晴らしい存在をあなたはそのまま受け入れるべきだ」というような尊大なタイプではない。そのタイプの女は、ありのままの私を受け入れてもらえなくても実際大して気にしない。ついでに言うと「図々しい」と言われたとしても、それだって気にしない。「は?うるせーよ、気に入らねーなら去れ」である。

ありのままの自分を愛せない、受け入れられない人だけが、他人に「ありのままの私」を愛してもらおうとするのではないか。そうやって愛してもらえたら、誰かが愛してくれたらきっと、自分でも自分を愛してやれる。だからお願い私を愛して、と。

さらにこのタイプの人が、美輪さん的な言葉に傷つくから事態がややこしくなる。「私って、なんて図々しい女なの。もっといい子にならなくては。素敵な人にならなくては。ありのままの自分なんてやっぱりゴミなんだわ」。

ありのままの自分で生きることに憧れながら、ありのままの自分を罵り続ける。こういう生き方をしてる人は多いと思う。

(かつての私です。)

他人にさえ愛を求めない人

と、こういうことを書くと「私は自分を全然愛せないけど、人に愛してくれなんて迫ったりしませんよ」ということを言う人がいる。

そういう人に言いたいことは「病気になるからそんなスタンスはよしなさい」ということだ。マジで。人に「愛してくれ」と重たく迫ってる方がまだ健全だ。いや別に他人にも愛を求めず自分でも自分を愛さない人が悪だと言ってるわけじゃなく、その生き方、シンプルに苦しいでしょと思う。

苦しくないなら別にいいんだけど。多分苦しいと思うんだけどどうですか。苦しくないならわりかし自分のことちゃんと愛せてるんだと思うのでご安心を。

ありのままの自分は自分で愛せという話

ちょっと脱線したけど話を戻します。

まあ要するに「ありのままの自分」なんて他人にとっては無価値だからこそ、そんなもんは自分で愛してやるほかないという話なんです、きっと。少なくとも私はそのように捉えるようになってから「自分を愛せ」るようになってきました。

スッキリした結論です。「ありのままの私」なんて重たいものを、人に背負わせてはいけない。背負わせないために、自分できっちり背負えという。けっこう手厳しいけれども。

ありのままの自分を愛するというのは、ありのままの自分をさらけ出すという意味ではない。自分の子供のありのままを愛するということが「どこでもなんでも好き放題やらせて、注意さえしない」ことを意味しないのと同じで。

子供が外で騒いだら静かにしなさいと叱る。「嫌いだから」と食べ物を粗末にしたり、友達を叩いたらきちんと注意をする。でも、その子の騒ぎたい気持ち、「嫌いだ」という気持ち、友達に腹が立った気持ち自体は否定せず、受け止めてやる。

そういう感じのことを、自分の中の子供(ありのままの自分)にやってやればいいだけだ。まあ、自分を愛せない人ってそういう育て方をしてもらっていないことが多いから、それだけのことがとても難しいんだけど…

ありのままの自分を愛するということは調子に乗ることではないし、やりたい放題やることでもない。図に乗らず他人を尊重するためにこそ、自分を愛すべきだ。そこには大義がある。だからみんな堂々と、自分を愛していけばいい。

「ありのままの私を愛す」というキラキラした響きが気に入らないなら、

「自分に嘘をつく生き方はやめろ」でもいいでしょう。

私も今はこっちの方が気に入っている。


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