火葬【小説】
人気の途絶えた細い路を黒い影が歩いていく。辺りには誰もいない。先を見ても周囲を見回しても、どこまでも続く薄闇に草木が揺れるだけだ。陽が沈み、日陰から立ち現れた夜気が、しっとりと風や地面を濡らしている。空を切る様な甲高い音を感じて、鹿島は目線を上げた。長く続く土路の先に小さな人影を捉える。足付きはたどたどしく路の向こうからこちらに向かってふらふらと歩いてくる。幽かな月明かりのなかに足を踏み入れた、その、小さな姿を認めた。
短く質素な着物に身を包んだ齢五、六の童だった。先刻耳にした甲高い音は童の泣き声であるらしかった。ただ、奇妙であった。鹿島ははた、と訝しむ。このような人の通らない路に、果して餓鬼がいるものだろうか。棄てられたか、と鹿島は表情も変えずに考えていた。人里から迷い込むには距離があり、何より一本道であったから来た道をただ引き返せばそれで帰れた筈だ。では、と尚も鹿島は考えた。何か恐ろしい物があったか、坊主。
奇妙な程静かに、お互いに近づいていった。鹿島は何も言わない。相手は幼い子供で、遠めからでも鹿島の影を恐ろしいと感じたならば、一層泣き喚いてその場でへたり込むに違いなかった。それでも童はひたひたと歩きをやめない。
いよいよ目の前に至るとようやく童は顔を上げ、初めて眼前に人のいるのを知ったようににたたらを踏んだ。
「母ちゃんが、母ちゃんが」
童は顔をこれ以上無い位ぐしゃぐしゃに歪めて泣いていた。その中から一言、ようやく聞き取れる言葉があった。暗闇の深さにのまれまいと懸命に頭を振る姿さえも残酷に埋もれてしまいそうに、そう見えた。
だから、というわけではなかった。
鹿島は一言「来い」と発し、童が歩いてきた路を進みはじめる。童は動かなかったが、行き場が無いのか、やがてふらふらと鹿島の後をついて歩きはじめた。道中童のすすり泣く声が周囲の木々に響いては吸い込まれていった。
僅かな月明かりの中を歩み続ける。草原は途絶え雑木林へと変わっていく。いよいよ林の深部へ踏み入ろうとする段になると北風が強く吹きつけてくるようになった。木の葉が円を描いて飛び去っていく。時折強い風が枝葉をすくってぶつかり、肌を切った。
林を進むと川があり、そこを抜けると開けた場所に出た。その脇に粗雑な小屋があった。
ぼろぼろに荒れ果てた小屋には戸すらなく、入り口と小屋沿いに、雨よけの毛羽立った木の板が並べられているだけだった。
風が叩きつけるたびに小屋全体が音を立てて軋む。童は荒れた小屋へ近づいてくと、母ちゃん、と弱くつぶやいて中へ入っていった。
童が行灯へ火を灯した。薄暗がりに小屋の内面が浮き上がる。
もう補強にもならない、所々がさかむけた板が壁にそらにと打ち付けられていた。
小瓶が割れ、手つかずのまま隅に転がされている。壊れかけた小屋の中、唯一梁だけが力強さを残していた。
油のにおいとは違う、異質なにおいを感じ取って、鹿島は左を向く。
襤褸布の上に女の姿があった。
痩せこけた頬骨がふかく影をつくり、火の揺らめきとともに輪郭を揺らしている。
「おまへの母だな」
鹿島の問いに童はうなずきかけたが、嫌々をするように頭をふるった。
変色しはじめた母親の体にすがる童は隣に立っている男と母親とを交互に見て、しかし何も言えずにくぐもった声を上げた。
鹿島は一度小屋の外へ出ると頭をめぐらせた。木陰にひっそりと生えていた背の低い花をもぎる。母のもとへ戻りその胸の上へ花を乗せた。
それを見た童は、はっとして鹿島と同じように花を持ってくると母へ手向けた。
小屋のどこにも父親の匂いはない。母親を亡くした幼い童の拠り所はいまや見も知らぬただの男だけであった。じきにどこへ行くとも知れないただひとり。
童は再び泣き出すとうずくまって両手で視界を塞いだ。静かに幾ばくかの時間が過ぎた。
風が吹き荒び、それを追いかけて木々が唸る。強風が吹いて、鹿島の被っていた黒い帽子が風にさらわれ上空の彼方へと消えた。
ゆっくりと行灯を傾けていく。囲い紙に油染みが広がり、ぼうっと火が燃え盛る。
行灯を雨よけ板に立て掛けて数歩下がる。瞬く間に火が燃え広がる。強風に煽られ熱風がかき消されてはまた立ち上る。それを繰り返すと、火の勢いが人の背丈を超えた。
童はぼうっと炎を見つめている。鹿島も燃え上がる小屋を見つめた。二人の長さの違う濃い影が激しく揺らめいた。
この先に町がある、と教えて、鹿島は炎に背を向ける。川岸で一度小屋のある方向を振り返ったが、あとはもう振り返らなかった。
童は炎がすべてをねぶり、炭へ還すまでじっと動かなかった。
ただじっと母の亡骸を見つめていた。
私の中には幽鬼のようだと噂される鹿島という男がいます。
白髪で、黒装で、世の中から疎まれ、自分というものがない。
世の中の何にも期待していないし何にも望まれることのない、諦めたような(そもそも期待をしていない)男。
もう数話先で街に潜む怪奇が現れ始めます。
おたのしみに。
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