クラブ「優美(ゆうみ)」【小説】









 大きな案件を抱え疲労を感じる日々だったがそれも晴れて円満となり、社内はにわかに和らぐ。秋生と藤田もこのところ書類に営業にと仕事に追われるだけだった日々に区切りがついてほっとしていた。藤田の担当する業務を補助する形で仕事を任されてきた秋生は、藤田を含め社内の人間の苦労が報われたことを喜んだ。
「ぱあっとやろう。今日の終業後、宴会だ」
 社内がわっと盛り上がる。秋生も責務からの解放感から、ほっと息をついた。
 藤田と秋生のデスクは離れている。といっても三つほど隔てた位置にあるので呼べば振り返ることのできる距離である。ちら、と視界の端にくるくるとした黒髪が映る。藤田も心なしか気を緩め微笑んだ表情をしていた。社内に解放感が広がっていって、わいわいと終業の時間もまだなのにあちらこちらでお喋りが始まる。それを咎める空気もなかった。隣にいた同僚に「なにが食いたい」と聞くと「蟹と、寿司と、肉だな!」と子供のような返事が返ってきて笑う。皆笑っていた。


 華やかな宴会場を後にして、皆気が大きくなっていた。二次会を敢行するべく人数を募っている。妻と子供が帰りを待つ者もいたが、その場にいたほぼ全員が次なる宴を待ちわびて手を上げた。歓楽街を目指して賑やかな集団が列を作って進んでいく。
 薄暗い通りがあちらこちらに伸びている歓楽街を通るのは久方ぶりで、秋生は少し頭を巡らす。電球の切れかかった看板が放置されているような店もまばらにあり、危うげな雰囲気を放っている。同僚に話を振られ視線を戻すと、大通りの華やかさに目を奪われ、瑣末なことは気にならなくなった。
 他よりも薄暗い看板の店の前で一行は立ち止まる。紫色に発光している看板は古びていて、通りの暗部を思い出し一抹の不安が湧き起こる。同僚と並んで扉をくぐると、しかし店内は予想に反して華やいでいて、仄明るかった。
 秋生と藤田、同じ部署の同僚数名でひとつの長いソファへ向かう。
 案内された席には三人の女が座っていた。
 年長の女がまず名乗った。
「智江(ともえ)です。今晩はよろしくね」
 見た目で想像していたよりも声が低く、もしや、と思うと二人目が「静(しずか)です。よろしくどうぞ」と挨拶した。手首が細く、節くれ立っている。とても女性の腕とは思えず、同僚と目を交わす。
 最後の一人は美人で、「あずさです」と名乗った。小柄で、今時の若者には珍しく黒髪をロングで垂らし、俯きがちに微笑んだ。また分からなくなるが、どうやらこの店はニューハーフの女性を集めて経営するクラブである。面白い所へ来た、と思うや否や、さあさあ、と智江に肩を掴まれ着席させられる。この三人が今夜の相手をしてくれるらしい。同僚が順に席に着くと乾杯の音頭をとるべく副社長がマイクを手に取り、今回までの仕事の功績を並べ上げて労った。
 乾杯、と声を上げると場がわっと盛り上がる。羽目を外して歌いだす輩もいた。
「今夜は智ちゃんって呼んで」
 智江は長いソファの真ん中に座り、藤田の隣で空いたグラスに酌をした。
 同僚の隣にはあずさが座り、静が秋生の傍へついた。共に酌を交わし合う。
「お兄さん、あんまりこういうお店は来慣れてなさそうね。大丈夫、怖くないわよ」
 静が微笑む。相手が元男だと分かっていても、服装や見た目は普通の女性と変わりなく、どう対応しようか少々混乱する。性別を超越した人々に接するのは初めてだ。だから素直に聞いてみた。
「女の子、なんですか、今は」
「そう思ってくれると嬉しいわ。私は、ほら、胸もあるのよ」
 そう言ってかがみこんだ静のドレスの谷間から丸みを帯びた肌色が覗く。見てはいけない気がして少々狼狽えたが、好奇心もそこそこにあって、「どんな気分ですか、体が女になるって」と聞いてみた。静は目を細めて笑う。
「もうね、嬉しいの。毎日変わらない自分の顔を見ていただけの日と比べたら、もう格段に心が自由よね。でも、苦労もあるけど、そんな毎日もいいものね」
 あずさはまだ身体をいじってないのよね、と話を振られたあずさは俯いて首肯した。
「ゆくゆくは本当の女の子になりたいんだけど……お金も、自信もまだなくって」
 あずさははにかむ。こうして笑むと本当に女性にしか見えなくて、少しどきりとしてしまう。
 まだ若いから、と静が言うので年齢を聞いてみると秋生と同い年らしく、そう伝えるとぱっと表情が和らいだ。緊張の面持ちだったのは本人の言う通り、自分に自信がないことの現れだったのだろう。少し明るくなった表情のあずさを、かわいいと思った。背も低く、はにかむように笑うとまるで少女のようで、背を支えてやりたくなるような儚さがあった。親近感が湧く。
 あずさや智江との話も交えつつ、静と話していると音楽の趣味やものの考え方が秋生と似ていて、こちらもすぐに親近感を覚えた。元が男というだけあって男の趣味や考え方を理解している。話し易かった。酒がなくなり、追加を頼む。ストローをついでに頼む。
「よく見たら、お兄さん、色男ね。今夜はラッキーね」
 智江が藤田の肩に手を添え、なにやら誘惑しているように笑った。藤田も笑いを返す。外面は良いんだよな、こいつ。秋生はそんな藤田を横目に思う。
「秋生さん、腕は、どうなさったんですか」
 あずさがおずおずと聞いてきた。両腕から垂れるワイシャツの先が空洞なのに気が付いたようだった。
「幼い頃、事故で」
「失くされたんですね。大変でしたでしょう」
「まぁ、ハイ。でも助けられてますから」
 こいつとかに、そう言って藤田を見遣る。藤田は「たまにこいつの家に泊りがけでいってるんですよ。仕事のついでに、少し手伝うだけです」と言った。すると智江が「あらやだ、一緒に住んでるの? やだわ~っ」と興味津々に目を輝かせる。静もきゃあと笑い声をあげる。
「あの、俺たちそんなんじゃないですから……」
 せめてもの抵抗に言ってみたものの、完全に興味の的にされてしまい、矢継ぎ早に質問攻めにあった。何をどこまで手伝ってもらってるの、藤田さんの方が年上よね、果てはお風呂はどっちが先なの、等々。苦笑いするしかなかった。

 商売上手な話しぶりで年下の同僚と話をしていた智江が唐突に涙ぐみ始めた。
「弟をね、事故で亡くしているの。二回も」
 なんだか似ていて、姿を思い出してしまって、ごめんなさいね、智江はハンケチで目元を拭う。
 年上の女性の涙に、同僚はどうするべきか迷っているようで適当な相槌を打てずにいる。藤田が「それはお辛かったでしょう。御愁傷様です」と頭を下げた。同僚もそれに倣う。
「丁度、あなたたちと同じくらいの年齢の男の子だったのよ。二人とも自然散策が好きで」
 船の事故と山岳の事故で二人の弟を失ったと智江は語った。どちらもおおらかで聡明な弟だったのよ、と、思い出しては涙を落とした。
 藤田がママに酒を追加で、と頼む。二つのグラスにウイスキーを注いで、二人の弟たちに手向けた。
「ありがとう……。ごめんなさいね、湿っぽくなっちゃったわね。さあ、せっかく来てくれたんだからもっと楽しんでいって!」
 明るい智江に戻ろうと声を張り上げては同僚たちの空いたグラスに酒を注いでいく。
 秋生は、見えないところに傷を抱えている、この人たちのことをどれだけ知っていただろうか、と思いを巡らせる。女みてえ、と詰られ、影を歩くようにひっそりと生きてきたであろう彼女たちの窺い知れない闇を想像したことがあるだろうか。今まで身近に思ったことがなかった。こうして語り触れ合う彼女たちは自分と何も変わらない人間じゃないか。弟の死に涙しながらも現実を見据えて生きていこうとする智江の強さ。俺には、あっただろうか。ひと口酒を含み彼女たちを見つめる。身体が女性になったところで頭の中身の構造は変わらない。彼女たちの変化は自分で手に入れてきたものだ。彼女たちの端からは見えない苦しみを想って、しばし瞑目する。
 ねえ、秋生ちゃん。静に声を掛けられる。
「お酒、飲ませてあげよっか」
「え、いいですよ、大丈夫」
「世話焼いてあげたいのよ。いいでしょ?」
「う~、でも……」
 外野から声が飛ぶ。
「いいなー秋生! 飲ませてもらえよ」
 こいつら。仕方なく腹を決めて静に向き直る。
「ど、どうぞ……お願いします」
「はい、いいところでいいっていってね」
 グラスが口元に触れ、ゆっくりと傾けられていく。チューハイの弱いアルコールが舌に乗り、じわじわと舌をいたぶる。
 少し顎を引いて合図すると、汲み取ったようでグラスの縁が唇から離れていく。
 ヒュー、と周りから歓声が上がる。恥ずかしい思いで下を向く。社内では年下に位置しているので、強く反抗もできない。
「ご、御馳走様です……」
 静がにっこりと笑む。

 そんな調子でグラスを空ける端から注ぎ込まれ、相当アルコールが回ってきた。
 酔い潰れはじめた秋生を気遣い、静が介抱する。
「苦しそうね、秋生ちゃん。……首元緩めようか」
 ぼうっとしながらも、ん……と生返事を返す。
 酔いが回り、先刻から秋生は寝そうだった。意識が時々はっきりとしない。
 細く節張った静の指が秋生のネクタイを外すべく伸ばされ、するすると抜き取られる。手にしたネクタイを秋生の鞄に置いて、また首元に手を戻す。秋生はソファに寄り掛かり、静の厚意をされるままに受けていた。酔いに染めた目元が目立った。ぷち、ぷちとシャツのボタンが外される。第一ボタンと第二ボタン。静は、酔った秋生の顔を見ながら手を動かした。頬が赤い。同僚にいじられて俯いてしまう程、照れ屋で素直じゃない、しかし真面目な印象の青年だったが、今や体面もない、自然だ。眠たさに負けている。人間らしい、そして若さ故の秋生の失態が、静には可愛らしいものに感じられた。
「……静さん」
 掠れた声で小さく呼ばれ、静ははっと我に返る。相手は客だというのに一瞬素の考えで接していた自分に気がつき、そして目をやった手元の状態に、きゃあ、と手を上げた。
「開けすぎ……」
 シャツは第四まで開けられていた。無意識の静の手がそうしていた。
 きゃーごめんなさ~い!……
 

 店を後にする一行は智江たちの見送りを受けて再び歓楽街へと歩み始める。秋生もなかなか楽しんだ。ここの人間は、好きだった。好ましい人間ばかりだった。
 弟を二度の事故で亡くしていた智江。人生観や音楽の趣味が合う静。同い年で、本当に女性のようなあずさ。様々な人と話をして、やはり世界は狭くない、と秋生は思い直す。人間は、嫌なばかりじゃない。
 なんだか元気をもらったな、そう呟くと同僚も同じ気持ちのようで「また会いに来たいですね。あずささんたちに」
「また、来よう。あの人たちに会いに。いつでも待ってるさ」



以上で四年程前に書いていた秋生と藤田の話のストックが終わりました。二人がお互いを見ること、語らうこと、触れることを選びゆく未来に少しの希望を持って筆を持ったり置いたりしているうちに文章の創作から離れてしまいまだまだ未完の小話が沢山あります。少しずつ手をつけて、また続いていく彼らの話を置きにきますね。


とは言ってもまだまだ終わりません!

明日からは 鹿島と書生君 という、秋生と藤田にも関わる人物たちのお話を投稿していきます。時代は昭和後期から移って、大正から昭和初期に移ります。移ると言っても同じ街の話です。複数の時代が複雑に溶融し合う街のこともお話の中で触れていきますので、よければお付き合い下さいますと嬉しいです。アデュ!

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