コバルトブルー【小説】




 しまった、と思うより先に、ガチャンと派手な音を立てて食器が床に砕け散った。後を追って湿りきった白いタオルが滑り落ちる。己の不注意から出た要らぬ失敗に、静かに溜息がこぼれた。片付けなくては。そう思うものの、秋生はその場から動けずに、ぼんやりと足元で砕けた破片を見下ろす。
 割れてかけらとなった物はもう微かな音も立てなかった。大小様々な破片は尖っていたり欠けていたりといびつな形だというのに、元からそこへ置かれていた物のように厭に静かだった。粒ほど小さな違和を感じて立ち尽くしていると、静けさに気づく。意識を向けると途端に、部屋が静まり返る。物音はない。
 今いる台所の面前は壁だ。その奥には藤田に宛てがった部屋がある。
 聞こえただろうか。
 平静を取り戻しつつある心臓の音だけが、胸に響く。静寂に響く。
 張りつめた空気が振動する。部屋に満ちた静寂を、揺らす。

 曇る垂れ込めた空から、薄青い光が室内に落ちる。陽光の輝きか、雲から零れた影か、判断のつかない色味が部屋の色を染めていく。薄くて暗い大気が、しかしほの明るく、青く、足元を照らす。

 静かな青が、目の奥を灼いていく。

 部屋の静寂が足元に這い寄って来る錯覚を覚え、秋生は馬鹿馬鹿しいと頚を巡らせて、その考えを払う。
 途端に日常へ帰ってきたように、時計の音がする、呼吸が聞こえる、そしてドアが開く音がする。
 青く染められた部屋を残して陽が落ちていく。

 状況を見て察した藤田は新聞紙を広げて、床に逃げ道を作った。破片の散らばった床板を素足で踏み越えるには、きっと痛い思いをしなければならない。一人では、動けない。簡単に説明をつければ、台所に閉じ込められていた。

 全く関係のないこいつに後始末を任せる形になるのが、我慢ならない。俺が片付ける、と制しても、拾いやすい破片を順に拾い上げていく。屈み込んだ男の頭を、見下ろす。
 「俺がやるって。どうしておまえが」
 破片をつまんでいく指の速さは変わらない。藤田は「どうして、っておまえな」
「おれは、やれる」
 藤田がこちらを見据える。
 おれのできることを、奪わないでくれ。
 想いを口にする勇気もなく、二人の間に静寂が落ちる。
 藤田は欠片をひとつ落とすと手を引く。
 秋生は台所から抜け出し雑巾を洗面所の戸棚から引っ張り出す。足で掴むと、食器棚と床の隙間を丁寧に拭っていく。藤田は何も言わずに立ち上がると自室へ引き返していった。親切を拒否する態度が藤田にどう映ったかわからない。だが言わなければ伝わらない。おれが何を必要として何を自分でやり遂げたいか。藤田は介助をしてくれるヘルパーではない。ただの同僚で、友人でいたい秋生にとって、藤田に生活を補助されるのは苦い思いがした。
 いや、友人ですらないのかもしれない。伝えなければ、わからない。この線引きを、わかってやってもいいと思うか、藤田。
 臆病な自分が恨めしい、と思った。


 自宅に戻るという藤田を見送って、秋生は居間のソファにうなだれる。
 このままではいけないとは、わかっている。ただどうしても素直になることができない。
 藤田を、信じきれていないのだ、要するに。
 幼い頃の別離が後を引いてここまで疑念が育ってしまった。本人に直接問いただすのも気が引けて今の関係を続けている。友人未満の、同僚という関係。幼い時分には藤田を名で呼び、帰宅したところを捕まえては勉強を見てもらった。共通の趣味であったサッカーを教えてもらったり、懐いて甘えていたこともある。もう遠い過去のようだ、と秋生は空(くう)を見つめる。


 中学校に上がって間もなく、背丈に合わずぶかぶかとした制服を誇らしく思いながら、行動範囲が広がったこともあって隣町に駆けては出来たばかりの友人たちと騒がしく遊んでいた。ある時、誰かが隠れん坊をしよう、と言った。他の奴らも無邪気に笑って、せーの、の掛け声と共に散っていった。
 草の垣根に隠れたり、やんちゃをして木の上に隠れたり、体を動かすことが楽しくてしかたない時分の子供たちは彼らなりに頭を使って鬼に見つからない場所を探した。
 どこに忍ぼうかきょろきょろと頭を巡らせていると、黄と黒の縞模様が目についた。そろそろとフェンスを通り抜けると、ひらけた場所に出た。なにやら巨大な鉄骨や木材が積まれ、汚れた重機が停まり、土山が至るところに盛られていた。初めて見る光景にぼうっと興味を惹かれた秋生はそれぞれに手を触れながらその奥へと進んでいった。巨大で重厚な重機に触れ、ほんの少しの恐怖感と好奇心を身に付けてしまった子供は当初の目的も忘れてぐるぐるとあちこちを見て周った。
 大きなトラックが静かに収められた建屋に近づいてみると、黄色いフェンスがぐるりと周りを囲んでいる。内部は作業場になっているようで、見たこともない分厚い金属が無造作に並んでいた。そろりと作業場へ忍び込む。薄暗くて底冷えする空気に身震いした。物静かな金属や電動の機械たちがひっそりと収められているこの場は部外者に警告しているようだった、とは後になって判ることだった。幼い少年は壁伝いに作業場の奥へと進んでいく。剥き出しの金属線に触れた途端、凄まじい衝撃が身を貫いた。目の前が真っ白になり、続いて真っ黒になったまま戻らなくなった。自分が立っているのか倒れているのかも分からなかった。声が出ない。手が動かない。全く状況が掴めない恐怖に、秋生は泣き出しそうだった。
 時間の経過も判らないなか、随分長い間そこへいたような気がする。次に記憶にあるのは病院の真っ白な天井で、体が動かし辛いと思ったら酸素マスクが付されていた。
 医師らしい白衣を着た男性や看護婦が病室を出たり入ったりしている。その合間に母と父が現れて、父からは説教と張り手を食らい、母は涙ながらに頬を撫でるのであった。
 いつ退院できるのかと大人に訊ねても誰も答えなかった。
 腕を切らねばならない、と医師が告げた時もどこか他人事のようで早く家に帰れないものかと窓の外を眺めていた。母はまた泣いた。父は確か居なかったと思う。仕事人間の父は最初の面会以降病室に顔を出すことはなかった。このままでは壊死が進んで切断箇所を繰り上げなければいけない、と医師が言った。仕方のないことだからね、秋生、と涙にまみれた母は秋生を慰めたのだった。この時でさえ、まだよく状況を理解できていなかったと思う。自分の身に何が起きたのか、これからどうなるのか、なにも分かっていなかった。
 看護婦に好きな食べ物を聞かれ、メロン、と答えると、メロンね、わかったわ、となにか準備をしているのだった。マスクを被せられ、直に意識が遠のいていくのに、あ、メロンの匂いだ、とそれだけ思った。

 目が覚めて、また母が泣いている、と思った。
 どうして泣くの、泣かないで、と呟くと、一層母は涙を流した。可哀想に、と。
 程なくして両肘の少し上からその下を失った少年は深い悲嘆と絶望に堕ちていく。藤田が秋生の前に姿を見せなくなったのもその頃だったように思う。数年後、唯一の味方だった母も死んだ。
 なにもかもに見捨てられたのだ、と心は荒れていった。

 そろそろ夕飯の準備をしなければ、と秋生はソファを立つ。
 介助者の早川さんがもう直ぐ家に着く頃合いだ。買い物を頼んで一緒にスーパーを見て回ろう。
 上着を取りに廊下へ出ると、目の錯覚か、辺りが青色に包まれたように感じて目を瞬く。もう陽も落ちて青色はどこにもないはずだ。ああ、破片を捨てないとな、と思い出す。


連続投稿二日目にしてギリギリ時計の隙間に滑り込んだ感じですが三日目は深夜に更新と相成りました。何故なら明日も明後日もきゅうりばたけできゅうりを収穫するはたらくかっぱになっているためです。本当です。

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