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六畳の夢と自由


小さい頃は、夢と現実の境界線があまりなかったように思う。

夢は現実の中の一つというか、現実の“別の形”として夢がある。そんな感覚。

どちらが良いとか悪いとかもない。


小さい頃はお人形遊びが好きだった。
お気に入りの人形やぬいぐるみと私は友達で、私は彼らといろんな旅をした。ある時は白い布団の雪山を探検し、ある時はたんすの隙間の秘密基地で会議をした。畳のへりに電車を走らせ、街を作った。押入れの洞窟探検は一番の大冒険だった。

私は何者にもなれて、その中のどれも、現実の私の中の一人だった。現実の私と、彼らと冒険する私は等しかった。

今はどうだろう。

だんだんと見る夢が変わった。

ある時は世界を旅する旅人だった。
ある時は通訳だった。
ある時は色白の眼鏡の彼の彼女だった。
ある時は声優だった。
ある時は翻訳者だった。
ある時は研究者だった。
ある時は大好きな彼との結婚だった。


私は、大学を卒業して会社員になった。

いつの間にか、夢は「見て良い夢」と「見てはいけない夢」があると思うようになった。

ここ3年、夢を見るのが辛くなった。

叶えられなくて辛くなるなら、最初から夢なんて見ない方がましだ、と思うことが増えた。

気づけば私の夢は、小さく、狭く、苦しいものになっていった。

私の夢は何なのだろう。

好きなミュージシャンのライブに行くこと?
たくさん旅行に行くこと?
きれいな服を着て、友達と美味しいものを食べること?
素敵な家に住むこと?
大好きな人と結婚すること?
将来のお金に困らないこと?

どれも本当だけど、どれも少し違う気がした。 

夢は、叶えるために見るものなのだろうか。

「夢」はいつからから、「幸せ」にすり替わっていた。

夢はもっと自由だったはずだ。

現実を違うフレームで捉え直す。もう一つの自分にとっての現実を作る、自由な空間。

「夢=幸せ」を外してみる。  

この身ひとつで、私はどこにでも行けるし、誰にでもなれる。この身体は、本当は無限だ。

小さい頃の、六畳の畳の部屋で冒険していた時を思い出す。

私は私でいてよくて、私のまま、何にでもなれる。


私はとても自由だ。


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