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「思考の洪水」がやってくる【雑記3】

 「思考の洪水」とは、僕の友人ののか先生の造語である。のか先生は大阪の大学で出会った人だが、とても良い文章を書き、しごできウーマンで、気が付けばなぜか北海道に引っ越していて、北の大地で冬は大雪、夏はぬるい冷房と戦いながら、今やばりばり働いている。「思い立ったが吉日」が座右の銘であれと願いたくなる、行動力に満ち溢れた、蒸気機関車のような人である。好き勝手書いたが、怒られないかなこれ。最近はあんまりnoteは更新してないようだが。↓

 そんなのか先生から『思考の洪水』という小説が送られてきたのは大学一回生のときである。絶対にどこかにファイルがあるはずなのだが見つからない。

 のか先生がいわんとするところの「思考の洪水」とは、恐らくは精神医学用語で言う思考促迫のことである。自分の意思とは無関係に、考えがとりとめもなく次々と浮かんでくる。時にそれは「考え」ですらないらしい。僕がのか先生から聞いて印象に残っているのは、階段に何らかの存在がへばりついて溶け落ちている。とにかくそういう摑みどころのないイメージが果てしなく浮かんでさっぱり眠れない。というものである。『思考の洪水』は、その頭の中を覗き込むような小説であった、はずだ。

 僕も大概色んな考えが頭を過ぎって気を散らしているタイプではあるが、のか先生が書くような極端な経験をしたことは無かった。だから当時は『思考の洪水』を読んでも、大変な人もあるもんだ、それあ薬の一種類や二種類呑まないとやってられないだろう、上手い文章だなあ、とか思ったくらいである。

 ところがそれから約四年。就職してすっかり仕事に疲れて、正月ぶりに実家に帰った夜、自分が眺めているのが天井なのか瞼の裏なのか判然しない夢うつつの中で、のか先生の言う「思考の洪水」をはたと了解した。

 大抵こういう夢うつつの時間はすぐに終わってしまい、次に目を醒ますと朝で(あるいは昼だったりするが)、「夢うつつ」はその輪郭だけを残して内実は記憶の彼方へと消え失せてしまうものだが、その夜はまったく様子が異なっていた。いつまで経っても夢うつつが終わらない。とめどない思考の連鎖がじゃぶじゃぶ溢れてきて、一度気が付くと「洪水」というのは実に言い得て妙だと思ったが、感心している場合でもなかった。

 僕が布団に入ると、実家に三匹おはします猫様のうちの一匹がやってきて、掛布団のちょうど真ん中にぐるりと丸まって鎮座ましましたので、僕はそれを避けてくの字になって、目を閉じる。眠る。眠る。

 ふくらはぎの辺りに猫様の温かみを感じながら、しばらく目を瞑って大人しくしていると、だんだん意識のとばりが下りて視界が暗くなり、自分が夢うつつの中へと足を踏み入れていくのが分かる。実のところ僕は最近、疲れからか上手く寝付けずに、毎夜少しずつこの「夢うつつ」の時間が長くなりつつあることを感じていた。僕は、努めて何も考えないようにして一歩ずつ眠りへと近付いていった。眠る。眠る。自分が息を吸って吐く音だけが聞こえる。座禅のようだと思う。座禅って、なぜか目の前をふらふら飛ぶ蝶々を眺めるイメージがある。なんで蝶々なんだろう。あれはWiiのゲームだった。ろうそくが一本立っているのを眺めて、つまり光に蝶々が吸い寄せられてきたのだ。なるほど。いや蛾だった気もする。ペシリ。雑念。手を合わせて頭を下げる。

 こんなこと考えている場合じゃないのだ。僕は寝なければならない。眠る。眠る。明日が来る。明日はどこに出かけようか。違う。明日のことは、明日考えれば済む。『ぼのぼの』という漫画があって、そこに登場するアライグマ君の「後で困るなら後で困ればいいだろ! 後で困ればいいことを、なんでいま困るんだよ!」みたいな台詞が僕は好きだ。けれども大阪に帰って来て、どこも特別な場所に出かけずにぼんやりしているというのは、勿体ない、が、こうして何も特別なことをせずに、猫様と一緒にぼんやり眠る日常こそ、僕が地元大阪に求めているものなのかもしれない。だから、眠る。カレンダー。カレンダーが気になる。仕事。あらかた片付けては来たが。週明けはまず誰某さんに連絡をするのだ。そうすれば十分間に合う。だから、それは週明けに考えれば良くって。カレンダー。社会人として、眠る前に明日のカレンダーを確認しましょう。と、会社のエライ人が言っていた。Googleカレンダーに色々の予定が入っている。社会人。のか先生は、この社会人という呼称に疑義を呈していた。別に、二十歳未満の人間も社会を構成していることには変わりないだろう。賛成。僕もそう思う。社会人って、もう十八歳以上の人は社会人なのか。

 じゃないんだよ。僕は瞼の裏で習字をやるみたいに、でっかく「眠る」と字を書いた。眠る。眠る。僕は確かにいま習字をやるように眠ると書いた。習字。毛筆だったぞ。ぜったいにいま筆で書いた。けれどもその想像の中に筆を持つ手はどこにも無かった。この毛筆は一体どこから出てきたんだろう。「眠る」。「眠る」。寝る。寝ると眠るって、どう違うんだ。横になる。寝るは意識があってもなくても良いのかもしれない。寝る。寝屋川。京阪電車。何か聞こえる気がすると思ったら頭の中で京阪電車の通過メロディが鳴り続けている。デデデデッデ。デデデデッデ。なんか怖いよな、京阪電車の通過メロディって。音色。「ねいろ」でなくて「おんしょく」と読む。多分雅な弦楽器をイメージした音色であるはずだ。昔、それは幼稚園生の頃の遥か昔だが、大阪市営地下鉄の警笛が怖かった。電車の到着と同時に、梅田駅のドームのようなコンコースを満たす、ぶおおという電子警笛。頭蓋骨の中身がぜんぶぶおおと揺れているような感覚がして恐ろしかった。

 もうだめかもしれない。一時間近くずっとこんな調子だった。深呼吸をする。眠る。眠る。まだ遠くの方でデデデデッデ。と言っている。早く通過しろよ。僕はあまり京阪電車には乗ったことがなかった。京都に出かけるのには、大抵阪急電車を使った。僕にとって、京都というのは、少し特別な場所だ。京阪神とひとまとめに呼ばれる地域ではあっても、生まれ故郷の大阪や、八年近く住んでいた神戸と違って、京都は帰る場所や地元ではなく、やはり旅する場所であった。もっとも、関西に住んでいればいつでも出られる土地ではあったが。文学フリマ。ライブハウス。学生時代に学友と出かけたいくつかの記憶が蘇ってくる。僕のある友人の「もうあんな日々は帰ってこないのだ」という意味のツイートが不意に去来する。一緒に京都へ出かけた親しい人のうち何人かとは、既に離れ離れになってしまった。だから正確には、親しい人、ではなく、親しかった人、である。僕は少なくとも、誰かを傷つけたいとか、誰かを不幸にしたいとか、思ったことは無いのである。祇園や岡崎で僕は心から笑っていたのだが。どうして真面目に生きて、他人を傷つけることになるのだろうか。僕は最近、自分は人間の皮を被った化け物なのではないかと疑っている。必死で、人間の真似事をしている。だから大真面目にやっているつもりで笑われたり、精一杯手足を振り回して人を傷つけたりするのだ。化け物。デデデデッデ。通過列車がやってくる。線路もホームも黄色い線も無い。のか先生の言う「階段にへばりついて溶け落ちる存在」を僕は理解した。迫り来るそれは、何かが溶け落ちた存在であることだけは確かだった。色はどす黒く(と起きている今はそう認識し、形容するが、実際のところその存在に色があったのか定かではない)、ちっとも前に進まず、僕との距離も少しも変わらず、しかし確実に僕に迫ってきており、僕はなぜか僕の脇に居た大変「親しかった」人に、これはまずい、早く行こうと声をかけるが、その人はただ僕を睨めつけて、いくつかのひどい言葉を言った後に、こんなことを言いたいはずではないのにと叫んで泣いた。

 ……それから僕は悪夢の向こう側へと引きずり込まれ、戻ってきたかと思うと既に朝であった。いったいどんな悪夢を見たのか定かではないが、とにかくただ悪夢を見るためだけに横になっていたという感覚で、まるで眠れた気がしない。この感覚がずっと続くとなると、毎晩大変な苦労である。

 あまり夢日記などを克明に書き残すのは精神衛生上良くないという話を聞くが、確かにこのnoteを書き終えた今、脳髄が異様な高速回転をしているのがよく分かる。夜遅くに激しいことをするものではない。

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