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「大河ドラマ」について

前に「朝ドラ」について書いたので、「大河ドラマ」についても書いておきたい。

わざわざ言う必要ない話ではあるが、「大河ドラマ」は史実ではない。実在の人物をモデルにした作品が多いので(架空の人物を主人公にした作品もいくつかある)、その辺のところで視聴者の誤解を招きやすいが、あくまでもフィクションである。ここは重要なポイントである。

それでも、実在の人物をモデルにする以上、あまりに史実とかけ離れた脚色とか、粗雑な時代考証とか、あるいは登場人物の年齢設定の矛盾といった素人が見ても明らかな瑕疵がそこここに散見されるようでは、視聴者としてはシラケてしまう。

幼児の設定のはずなのに大人の役者が演じていたり、老人のはずなのに全然老けたメイクをしておらず年齢不詳状態になっているようでは、真面目に見ているこちらが馬鹿馬鹿しくなる。

作品数として、戦国時代とか幕末とかが多くなるのはやむを得ないのだろうが、それでもこう毎度毎度となると食傷気味である。関ヶ原の戦いとか本能寺の変、池田屋事件はもう何回見せられたかわからない。

それでも、最新の時代考証とか研究の成果に基づき視点が刷新されたり、斬新な解釈が加えられたりするのであれば、一向に問題ないのであるが、あまり代り映えしないものを何度も見せられるとなれば、もうお腹一杯である。

NHKは決して認めないであろうが、主人公にすべき人物のネタ切れ現象はおそらく何年も前からNHK内部では深刻な問題になっていたのではないか。再来年、24年度の主人公は紫式部であるという。これはかなり新鮮である。それなのに、来年、23年度はまたもや徳川家康の登場である。他に何かマシな企画はなかったものかと思う。

かといって、あまり知名度の高くない地味な人物を主人公にするのは、テレビ局的にはリスクが大きい。はっきり言えば、視聴率が取れない可能性が高い。それに、約1年間、1回45分のドラマ50回分のストーリーを埋めるに足るだけのトピックやエピソードが集められるかどうか心許ない。史実で埋められなければ、いかにもな作り話で埋めるしかなくなる。韓国の歴史ドラマみたいである。史実はわずかで、残りはほぼ作り話といった具合になる。

20年度の「麒麟がくる」は、まだ記憶に新しいし、わりと人気もあり話題にもなったドラマだと思うが、明智光秀クラスの超有名人でさえ、「大河ドラマ」の主人公に据えるとなると、制作側としては相当に苦労したようである。そもそも前半生に関しては、ろくすっぽ資料が残されていない。どこで生まれたかについても諸説ある。明智と名乗っているから美濃の土岐氏の支流と言われているが(「麒麟がくる」でもこの説をとっていた)、なにせ戦国時代である。系図のロンダリング事例は枚挙にいとまがなく、基本的に「言ったもの勝ち」である。挙句、山崎の合戦で命を落とさず、天海僧正になったという説まである(義経=ジンギスカン説みたいなものか)。だからか、ドラマのエンディングも何やらわけのわからないモヤモヤした感じであった。

各地域は郷土に所縁のある人物を大河ドラマの主人公にしようと誘致活動をするらしい。「麒麟がくる」でも、福知山、亀岡両市の地元活動による貢献は大きかったという。まちおこし、観光客集めの一環である。きっと地元では一定の経済効果が見込まれるのだろう。地味な地域であれば、一気に世間の注目を集めるかもしれない。

既に有名人をたくさん輩出しているような地域であれば、これ以上、あまり頑張る必要もないのだろうが、そうではない地域の場合、地元の役所や商工会議所、議員などが中心になって、「〇〇を大河ドラマの主人公にしよう」といったキャンペーン運動を展開したり、署名活動をやってみたりと、かなり涙ぐましい努力をするのだそうである。

幕末の備中松山藩(岡山県高梁市)の陽明学者で山田方谷という人物がいる。佐藤一斎(儒学者、『言志四録』の著者)の門人で、すぐれた財政家として備中松山藩の経営再建に大いに貢献した人物である。高梁市では、この山田方谷の「大河ドラマ化」運動が何年も前から盛り上がっているらしく、僕も岡山出身の知人に頼まれて署名をさせられたことがあった。

山田方谷は、業績を見れば、たしかにエラい人なんだろうとは思う。でも、こういう地味(ごめんなさい)というかあまり一般ウケしなさそうな人を主人公にしたドラマを作ったとして、いまどきの視聴者がおよそ1年間、テレビを見てくれるほど辛抱強いとは思えない。

似たような「大河ドラマ誘致活動」は、日本国内の津々浦々で他にもたくさんあるのだろう。地元では郷土の偉人としてそこそこ名前が知られてはいても、全国区の知名度はない「プチ有名人」クラスの「大河ドラマ」主人公候補者たち。申し訳ないが、いずれも「どんぐりの背比べ」であり、テレビ制作者にとってあまり心躍るような素材ではない。

だとすると、「大河ドラマ」をどうすればよいか。以下は、自称「朝ドラ評論家」にして「大河ドラマ評論家」でもある僕の私見である。NHKの人たちにはたぶん受け容れてもらえないのは覚悟の上で記載しておく。

まずは、現行の「大河ドラマ」については、一旦、どこかでリセットする。もう同じパターンで60年以上も続けているのだ。とっくの昔に制度疲労を起こしてしまっている。いまどき、日曜日の夜に家族そろってテレビを見る家庭ばかりではないだろう。60年前ならいざ知らず、娯楽の選択肢はテレビ以外にいくらでもあるのだ。国民から徴収した受信料をふんだんに費やして重厚長大なドラマを制作したところで、若い人にどこまでウケているのやら、NHKのエラい人たちは虚心坦懐に検証してみるべきである。

次に、仮にそれでも今後とも「大河ドラマ」を続行するのだとしても、実在の人物にこだわるのはやめる。実在の人物にこだわっている限り、もうネタ切れであり、二番煎じ三番煎じは避けられない。過去にも架空の人物が主人公の「大河ドラマ」はいくつかあった。この際、原則としては架空の人物が主人公のドラマの方をメインとするようにスタンスを切り替えれば、「ブルーオーシャン」が目の前に広がる。

三番目に、時代劇へのこだわりは捨てる。先に書いたとおり、実在の人物へのこだわりを排し、架空の人物に選択肢を広げ、さらに時代劇へのこだわりも排し、現代あるいは未来にも選択肢を広げれば、ますます「ブルーオーシャン」というか「いまだ未開拓の分野」が目の前に広がる。現状では、最初から自らの選択肢を狭めすぎているのである。

最後に、1月スタートで約1年間で1クールというスタイルも臨機応変に変えても構わないということにする。民放のドラマのように「3ヶ月1クール」が基本というスタイルに変更すれば、今よりはドラマのネタはいろいろと見つかりそうである。さきほど書いた山田方谷レベルの人物であっても、1年50回のドラマの素材としては厳しくても、3ヶ月12回くらいならばなんとか耐えられるかもしれない。こういうちょっと小粒でニッチな素材が選択肢として入ってくる。

要するに、現状の「型」を所与のものとはせず、フリーハンドにいろいろな可能性を探求するようにするだけで、いろいろな可能性が目の前に広がってくるのである。

我々の日常の仕事にも似たようなことは起きている。自分たちで「かくあるべき」と型にはめてしまっていることが原因で、思考の幅を自分で狭めてしまっていることが多々ある。一回、いろいろな既存の制約をリセットして、ゼロベースで考え直してみれば、意外と打開策は目の前に転がっているのだ。「視野の狭窄化」というのは、我々の皆んなが戒めなければならないことなんだと思う。


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