見出し画像

1人あたり購買力平価GDPについて

購買力平価(PPP)は、「為替レートは2国間の物価上昇率の比で決定する」という観点により、インフレ格差から物価を均衡させる為替相場を算出している。各国の物価水準の差を修正し、より実質的な比較ができるとされている。

GDPは、人口が多い国が大きくなるのは当たり前なので、1人あたりGDP、それも購買力平価ベースのGDPが、それぞれの国の国民の実質的な「甲斐性」の目安と判断できそうである。

そう思って、90年と21年の31年間の各国の「1人あたり購買力平価GDP」推移を調べてみたのが、以下の表である。データの出所は、「IMF World Economic Outlook Database(2022年10月)」である。

日本は「失われた30年」とか言われているので、ずっと横ばいかと思ったのだが、30年間で一応は2倍ちょっとくらいにはなっている。ドル円の為替レートの推移が影響しているのかもしれない。いま(22年10月)時点ではかなり円安に振れていて、ドル円だけでなく他国通貨に対しても円安基調になっているから、今後、もっと数字が悪くなる可能性はある。

ここで問題としたかったのは、他国の伸び率との相対比較である。日本が2.2倍くらいになっている間に、米国は2.9倍、ドイツも同じくらい、英国が2.8倍、フランスが2.6倍である。あんまり仕事していない感じのスペインでさえ2.8倍である。

アジア諸国は、シンガポールが4.9倍、香港が3.6倍、韓国6.4倍、台湾6.3倍である。

その結果として、「1人あたり購買力平価GDP」の21年実績でも、日本は、シンガポール、香港、韓国、台湾のいずれにも劣っている。90年時点では、シンガポール以外には全然負けていなかったのにである。

こういうのを見ていると、日本はもはや先進国でもないし、アジア諸国と比べても「普通の国」という感じである。世界的に見ても、アジアだけで見ても、日本の相対的なポジションはこの30年でどんどん落ちて行っているのは間違いない。

ちなみに、「1人あたり購買力平価GDP」のランキングで世界のトップに位置するのは、ルクセンブルク(131,873.99)、シンガポール(116,486.28)、アイルランド(113,267.77)、カタール(104,740.20)、スイス(77,740.87)といった国々となる(単位:米ドル)。

パッと見て、気がつくのは、「金融で稼いでいる国が多い」「英語でビジネスができる国が多い」といったことである。

これら2つは密接に関連する。海外の金融機関を自国に呼び込もうと思えば、英語でビジネスができること、いろいろな規制というか、ローカルルールが煩雑でないことが前提として必要になる。

これら両方に関して、残念ながら、日本はクリアできていないし、今後もなかなかクリアできそうな感じがしない。

日本のドメスティックな金融機関は、世界的な競争力に関しては「二軍」以下だから、あまり大した実力は有しない。日本を金融マーケットとして活性化するためには、海外の金融機関に日本でもっと積極的に活動してもらって、アジアだったら香港やシンガポールではなくて東京というようになるためには、これらの地域と同じ土俵に立つしかない。

そういう点に関しても、英語教育を充実させて、「準公用語」くらいにしておくことは避けて通れないのではないのか。

日本以外のアジア諸国の場合、列強の植民地だった時代が影響してか、英語でしか高等教育が受けられなかったところが少なくない。日本は明治期以降、専門用語や専門書が日本語で翻訳され、日本語によって容易く高等教育を受けられたことになったメリットは大いにあった反面、英語もろくすっぽ実用レベルで使えない大卒者が大量生産されてしまっているデメリットもある。このことが、ここに来て、ジワジワとマイナスに作用しているような気がしてならない。

日本人が英語に習熟しないのは、英語ができなくても何も実生活で不自由しないからである。あるいは、英語ができても大してメリットがないからであるとも言える。したがって、英語が実用レベルで使えるかどうかで、初任給が異なるとか、大企業に新卒で就職するには英検準1級以上じゃないと、そもそもエントリーシートを受け付けてもらえない等、英語の能力で差別するようになれば、これから社会に出る若者も目の色が変わってくるかもしれない。

アルバイトやパート勤務であっても同様に、外国人客が来るような商売であれば(ファストフードでも、観光地の土産物店でも)、「英語手当て」を時給にプラスするようにすれば、英語を学んで時給を増やそうと考える人が増えるであろう。

小学校から英語を教えたところで、短時間、英会話の真似事をしたくらいでは、大した効果も得られないし、たぶん何も変わらない。具体的に、英語ができることのメリット、英語ができないことによるデメリットを社会的に示せば、基本的に生真面目で平等意識が強い日本人の国民性を勘案すれば、子どもたちではなく父兄の目の色が変わる。

そうなると、学校教育における英語の比重にも変化が生じる。父兄からの圧力が強まるからである。たぶん、「英語を学ぶ」のではなく、「英語で学ぶ」くらいにシフトチェンジする学校も出てくる。つまり、国語以外の科目はすべて英語で授業をするといった学校である。公立学校よりも私立学校からそういうところが出てくるかもしれない。中高一貫教育の私立学校等ならば、やろうと思えばすぐにやれるのではないか。それに一部の公立学校が追随する。学校による格差が生じるのはやむを得ない。上澄みのレベルが上昇すれば、底辺のレベルも徐々に底上げされる。そもそも義務教育だから、結果も平等という方がおかしいのである。

中国人や韓国人も、ずっと以前は、日本人同様に英語が苦手であった。それが国を挙げて英語教育に取り組んだ結果、日本だけがアジアで取り残されてしまっている。10年とか20年くらいかけるつもりで、日本も本気で英語教育に取り組む必要があるのではないだろうか。

江戸時代のように鎖国して、内需だけで経済を回していくつもりであれば、そんなことは不要であろうが、資源もなく、人口も減少している国の国民が、現在の生活水準くらいは維持したいと思えば、外国から資本や人を呼び込むしかない。そのためには「客集め」の戦略を国の最重要課題の1つくらいに考えて、必死で取り組まないといけないのではないだろうか。

そういうことをやらなかった結果が、この30年間の「1人あたり購買力平価GDP」のランキングの推移に表れているような気がする。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?