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歌劇「ドン・ジョヴァンニ」(@兵庫芸術文化センター大ホール)について

兵庫芸術文化センターでは、毎年、夏になると、芸術監督である佐渡裕プロデュースによるオペラが上演されることになっている。

今年、23年はモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が上演された。ちなみに、過去の同じシリーズでは、22年の「ラ・ボエーム」、18年の「魔弾の射手」、17年の「フィガロの結婚」を鑑賞した(20年はコロナ渦で中止。21年の「メリーウィドウ」、19年の「オン・ザ・タウン」以前の公演は残念ながら観ていない)。

モーツァルトの真価というか魅力は、オペラにこそあると言ったのは誰だったのか。もちろん交響曲や協奏曲、器楽曲等すべてが素晴らしいのだが、その中でもオペラは本当に素晴らしい。200年以上も前、18世紀に書かれた作品であることが信じられないくらい、博物館の展示物のような古ぼけた骨董品ではない現役エンターテイメント作品としての瑞々しい生命力を保ち続けているのだ。

モーツァルトのオペラでは、いわゆる3大オペラ(「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」の3作品)あるいは、4大オペラ(「三大オペラに、「コジ・ファン・トゥッテ」を加えたもの)が代表的な作品とされる。これらのうち、「魔笛」はドイツ語の歌芝居(ジングシュピール)であるが、残りの3作品(「フィガロ」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ」)はいずれもイタリア語であり、いずれも脚本はダ・ポンテが書いている。

歌舞伎や浄瑠璃の上演において、いわゆる見どころや名場面だけを選り抜いて上演されるのが一般的であるのは、「通し狂言」(最初から終わりまで原典どおりに上演すること)だと、冗長な場面もあって観客が途中で退屈してしまうからであるが、オペラも同様で、最初から終わりまで通して聴きとおすにはかなりの忍耐を要するような作品が少なくない。

昔の王侯貴族などは、半個室みたいなボックス席に陣取って、オペラの上演中も、途中で飲み食いしたり、適当に息抜きをしたり、オンナを口説いたりしていたのであろうから、最初から終わりまで聴かせどころばかり続いては却って困るのであろう。

しかしながら、中にはCDを再生して耳だけで聴き流していても少しも退屈しないオペラ作品というのが(稀ではあるが)存在する。具体例を挙げるならば、ビゼー「カルメン」、J.シュトラウス「こうもり」、R.シュトラウス「ばらの騎士」といったところであり、加えて上記のモーツァルトの主要作品が該当する。これらの作品は、最初から終わりまで弛んだり退屈したりするシーンが少しもないのだ。これらに比べれば、20世紀になって書かれた「名作ミュージカル」の類の方が、よほど退屈な場面もあるように思えてしまう。

天才的なメロディ・メーカーとしか言いようのない作曲家は歴史上、何人かは存在するが、クラシックの世界で大家と呼ばれる人たちでも皆んながそれに該当するわけではない。モーツァルトが筆頭であることは言うまでもない。あとは思いつくのは、ドヴォルザークとかシューベルトくらいか。とにかく、モーツァルトは古今類を見ないメロディ・メーカーであり、まるで息を吐くかのように親しみやすいメロディを次々に思いついたようである。20世紀のレノン・マッカートニーだって、モーツァルトには絶対にかなわない。

「ドン・ジョヴァンニ」が日本でどれくらい上演機会があるのかは知らないが、たぶん、「フィガロ」よりは回数は少ないだろう。最初から終わりまで通して聴いたことのある人の数においても、たぶん「フィガロ」よりかなり少ないのではないか。しかしながら、「ドン・ジョヴァンニ」のメロディの秀逸さ、親しみやすさはどうであろう。誰もが知らず知らずにどこかで聴いたことがありそうなフレーズが次々と途切れることなく延々と続くのがわかる。

もちろん歌と歌の間には、チェンバロで伴奏されるレチタティーヴォ(語るように歌われるセリフの部分)が挟まるので、まったく途切れていないわけではないのであるが。たぶん、聴きはじめたら、途中でやめるのが困難である点に関しては、「フィガロ」よりも「ドン・ジョヴァンニ」の方が上ではないだろうか。

今回の上演はダブルキャスト制が敷かれており、ざっくりと外人主体組と日本人主体組に分かれていたようで、僕が観た23日(日)は千秋楽であったが、日本人主体組の出演日になっていたようである。僕は、日本人の声楽家に関する知識があまりないので、ここで個々人の評価をできる資格はない。

それでも、聴いていてとにかくすごく良いと思ったのは、池田香織の代役としてドンナ・エルヴィーラ役を歌ったハイディ・ストーバーであった。今日の他の女性歌手たちも決して悪くはなかったのだが、彼女1人だけがとにかく異次元という感じで、第1幕で登場した際の第一声を聴いた途端に衝撃が走ったのを覚えているし、印象は終盤まで変わることがなかった。他には、タイトルロールの大西宇宙、ツェルリーナ役の小林沙羅、あとはレポレッロ役の平野和が良かったと思う。

騎士長役の妻屋秀和(3月のびわ湖ホールでの、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でファイト・ポーグナーを演じていた)は、出番が少なすぎて、良くわからず。ドンナ・アンナ役の高野百合絵、ドン・オッターヴィオ役の城宏憲、マゼット役の森雅史は可もなく不可もないという感じで、あまり印象に残らず。このオペラで、ドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオの2人は、そこそこ出番が多いわりには、影が薄いというか、あまり生き生きとした人間のようには描かれていないのである。モーツァルトもダ・ポンテも、こういうクソ真面目なタイプの人物たちのことはあまり好きじゃなかったのではないかと思ってしまう。

このオペラの登場人物中で、僕がいちばん好きなのは、当然のことながらドンナ・エルヴィーラである。ドン・ジョヴァンニが根っからのクズ男であることを承知の上で、それでもバッサリと切り捨てることができず、未練タラタラ、最後の最後まで彼が改心することを願っているという、とてもとても情の篤い女性であり、このオペラのヒロインである。名盤と言われる過去のCD・レコードでも、往年の名歌手たちがこの役を歌っているのは、オペラの役柄としても、ドンナ・アンナよりも「美味しい」からに違いない。

話が逸れてしまうが、3月に「マイスタージンガー」を聴いた「びわ湖ホール」については、4月より芸術監督が沼尻竜典から阪哲朗に交代して、新体制で改めて精力的なプログラムを準備中である。

その中で、10月の「フィガロの結婚」は、阪哲朗が指揮だけでなく、フォルテピアノによる伴奏も担当するとのことである。本作に引き続いて、10月には「フィガロ」を鑑賞する予定にしている。ついでに言うと、びわ湖ホールでは、11月には「こうもり」を、狂⾔師の野村萬斎がオペラ初演出して、ドイツ語上演・日本語台詞で上演するし、来年3月には「ばらの騎士」の上演が予定されている。

大津は少々遠いのが難点であるが、3月に初めて訪れて、ホール自体は気に入ったので、これらの演目についても興味があるところである。


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