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いわゆる「実学」について

「リベラル・アーツ」のことも書いたので、ついでに「実学」についても書いておく。

福澤諭吉は、『学問のすすめ』において、「実学」(=すぐに役に立つ学問)の重要性を説き、「虚学」(=実用にはあまり役に立たない学問)を否定したことになっている。『学問のすすめ』をちゃんと読めば、福澤先生はそんなこと言っていないと思うのだが、この話については省略する。

「リベラル・アーツ」の記事にも書いたが、すぐに役立つ知識は、すぐに陳腐化する知識である。あと、基礎があって、その上に応用がある。また、すぐに役に立たないと思えるものにも価値はある。

そういう意味で、「リベラル・アーツ」と「実学」のどちらが重要かといった議論は意味がないし、どちらも重要、前者という基礎のあるところに後者が成立するというのが本当のところであろう。

でも、今の日本国内の論調というか、文科省あたりがやろうとしていることは、さにあらず。日本の大学の世界的な評価を上げるためにも、「実学」重視、文系よりも理系重視、主要な大学とか成果の上がりそうな研究に対して予算を重点的に配分する等々の路線を邁進しているような気がする。

「実学」で成果を上げるためには、しっかりと「リベラル・アーツ」教育をやって、若者の基礎学力をレベルアップする必要がある。大学受験がイベント化しているあまり、受験科目に偏った勉強しかやっていなかったり、いわゆるAO入試や推薦入試の弊害で、それすらやっていない若者も少なくなかったり(今は一般入試よりもこちらの方が多いらしいが)、昔よりも基礎学力は低下しているそうである。にも拘らず、データ・サイエンス教育だ、プログラミング教育だと言ったところで、底が浅いものものしかやれないような気がしてならない。

文系・理系についても同様である。そもそも文系だ理系だという分類自体、そろそろ考え直した方が良い時期ではないのか。中学レベルの数学で挫折したような若者が私大の文系には大勢いて、経済学とか勉強しているらしいが、まともな教育が可能とは思えない。文学部とか社会学部だって、数学とか統計学が必須であろう。高校レベルまでは広く浅くでも満遍なく幅広い教育をするべきだし、それに耐えられないような若者を大学に進学させるべきではない。

予算の重点配分については、もっともな感じもするのだが、およそ文科省の役人に、成果が上がりそうな研究分野とか、戦略的に重要な研究分野とかの「目利き」ができるのだろうかという気はする。そんなことがわかるようならば、誰も苦労はしない。ノーベル賞をもらっているような学者は、何十年後かにノーベル賞をもらえるだろうと確信して研究をしていたわけではないはずである。興味があって研究していたことが、たまたま後世になって注目されて、たまたま高く評価されるに至ったというのが実情であろう。研究には、そういう「セレンディピティ」がつきものである。運とか巡り合わせの力は無視できないくらい大きい。

『学問のすすめ』で、福澤諭吉は、「虚学」の例として、古文や漢文を上げて、悪くはないけど、頑張って勉強するほどのものではないということを書いているが、福澤自身が、実は漢学を人並み以上にしっかりと勉強していたのはよく知られている話であり、「春秋左氏伝」を愛読していて、全巻を何度も読み返した上に、面白いところは暗記までしていたと、『福翁自伝』にも書いている。

そうした漢学の素養があるからこそ、英語を翻訳する際に的確な訳語を作ることもできたのだろうし、中国に逆輸入されたものも少なくないとされている。したがって、漢学にしても、「虚学」なんてとんでもない話であり、しっかり「実学」として役に立っている。要すれば、即効性があるかどうかの違いだけであり、役に立つか立たないかは、もっと中長期的な視点で見ないことには判断できないということになる。

いずれにせよ、世が進歩するにつれて、勉強することはどんどんと増えているんだし、一方で、就学期間が50年前も今も変わらないというのは無理がある。平均余命も伸びているんだし、就学期間も増やすのか、あるいは社会人になっても学び続ける機会を充実させるのか、何らかの対策を打たないことには、ちょっと先行きどうしようもないような気がする。

「リベラル・アーツ」か「実学」かという二者選択の問題ではない。「リベラル・アーツ」も「実学」も両方揃って、もっと勉強しろよというのが本当のところ求められていることであると思う。


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