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そこのあなた、ちょっと里見弴について知りたくないですか?(前篇)


日本最大級のポータルサイト、ご存知ヤフージャパン。
そのヤフージャパンで、つい最近こんな記事が紹介されていました。


文豪・志賀直哉と里見弴は「プラトニックな恋愛関係」にあった!?
女性と結婚しながら男性と恋に落ちた文豪・志賀直哉の「身勝手すぎる罵倒」とは?


うおーい、まじかー、って言っちゃいましたよ。

志賀直哉と里見弴は、その現役時代にも雑誌で「同性愛」と書かれたことがありますが、まさか2023年のインターネットでもこんなタイトルが躍るとは。中公文庫さまのお力でしょうか。すごいぞ。

はた、とnoteのアクセス数を見てみれば、今週のアクセス数が4倍か5倍くらいに増えています。ご訪問ありがとうございます。
さては、
ていうか、里見弴て、誰?
とか、
志賀直哉みたいな有名な作家にそんなことあるの?
とかいうことで検索して来られる方がおられるのでしょう。

無理もない。
無理もありません。わかります。
思えば私が高校生だったころ、国語の教科書の文学史のページにはギリ「里見弴」と載っていましたが、近年ではそれも消えたと聞いています。
しかし志賀直哉は、いまだに著名。
そんな大作家志賀直哉と、なんかよくわからない無名作家が? ていうかそもそも、なんて読むの?
そう思われる方もおいででしょう。
ちなみに読み方は「さとみ・とん」です

果たして里見弴はどんな作家なのか。
志賀直哉とどういう関係だったのか。
どうして同性愛と言われるのか。

まずは作家としての里見の来歴、それから志賀との関係をチャチャっとご紹介したいと思います。


上品さと俗っぽさが絶妙な作風


まず、作家としての里見弴を見てみましょう。

ざっくり述べると、里見の作風は写実主義に属します。
作品としては、花柳界や芸者との恋愛を扱ったものが有名です。
もうそういうイメージになっちゃってるみたいなのですが、それ以外にも、市井の人々の心情ややりとりを切り取った、あざやかな作品も数多く残しています。

生き生きした会話や、空気の作り方が圧倒的にうまく、心理分析に定評があります。そのうまさから「小説の名人」と呼ばれることもあります。
お座敷遊び、デパートでの買い物、芝居見物などの大正時代の風俗の描写、登場人物のふとしたしぐさ。
一瞬一瞬の「雰囲気」としか言いようのないものをとらえて文字に閉じ込めていく手腕は、みごととしか言いようがありません。

特に会話文です。
大正時代にここまで、日常の話し言葉を文字に書き起こして再現できる男性作家がいたのか、と感嘆するほどの腕です。

全体の雰囲気としては、上品さと俗っぽさが絶妙にまじりあい、日本の近代作品としてはめずらしいことに明るくカラッとしているので、読みやすくもあります。
ただし、多少むずかしい漢字や単語、当て字などを投げ込んできたり、一文一文が長いので、文章を苦手に感じる方もおられるかもしれません。



テーマとして有名なのは「まごころ」
長くなるので詳細は省きますが、「素の心」というような意味合いです。
恋多き里見の「浮気のいいわけ」と思われていることも多いようですが……。



数多い代表作


代表作をあげておきましょう。94歳で亡くなる間際まで創作を続けたこともあって実に多作です。
「多情仏心」「今年竹」「安城家の兄弟」など長編も多く書いており、「安城家」などなかなか面白いのですが、どちらかと言えばその資質は短編にあるように思われます。
短編「銀次郎の片腕」「椿」「かね」、中編「善心悪心」「荊棘の冠」「極楽とんぼ」あたりが代表作とされることが多いようです。興味のある方は、この辺から読んでみられることをお勧めします。

変わったところでは、死刑囚の生き胆を奪い合う薩摩の風習をあつかった「ひえもんとり」も一部で有名です。実際の習慣かは不明ですが、薩摩士族だった父親から聞いた話がもとになっているそうです。

なお、こういう場合に挙げられることがあまりない作品ですが、長編「金の鍵の匣」、中編「縁談窶」などもなかなかよいので、そっと付け加えさせてください。


当時の知名度はS級


では、里見はどのくらい知られた作家だったのでしょうか。


里見弴が文壇に名乗りを上げたのは、明治43年のこと。
まだ学生でしたが、学習院の同級生や先輩たちとお金を出し合って同人誌「白樺」を出し、そこに小説を載せるようになったのです。

当時の明治文壇では、自然主義が一大勢力となっていました。「自然主義にあらずんば人にあらず」と言われるような状況でしたが、それが明治末あたりから変わります。
自然主義一辺倒の文壇を変えたいと思った若者たちが、新しい傾向の作品を引っ提げて次々と登場し、大正文壇のとびらが開かれていったのです
「白樺」もそんな若者たちがつくったものでした。


なお、志賀直哉は「白樺」の中心人物の一人です。
「白樺」の作家陣で、小説の才においてまず認められたのが志賀でした。白樺の中でも年長のほうだった志賀は、創刊号に「網走まで」を掲載しており、すでにみずからのスタイルを確立していたことがうかがえます。

5歳年下の里見は、その点一歩およばないところがありましたが、やがて自分のスタイルを確立。「白樺」で小説と言えば志賀、そして里見と見なされるようになり、新進気鋭の作家として認められてゆきます。
そのころ、彼らは古い文壇に切り込む志士のような存在でした。

大正3年、かの夏目漱石の誘いで、朝日新聞に短期集中連載を持ちます。ここで、いわばプロ作家としての第一歩を踏み出したのです。

そこから里見は文壇のスターダムへと駆け上りました。大正5、6年は里見の年と言ってもよいでしょう
当時、やはり花形だった芥川龍之介とも並び称され、「弴と龍之介、どちらが勝つか」と文壇で言われるほどの花形作家になっていったのです。
人好きのする性格から友人も多く、文壇の多くの作家たちと親しく行き来しています。
今では名前も知らない人のほうが多いでしょうが、確かに里見は大正文壇の中心に立っていました


志賀との友情も、「人気作家と無名作家」ではなく、「人気作家同士」としてコンビのように見られ、よく知れ渡っていましたから、二人が絶縁したときは多くの人が驚いたようです。絶縁のいきさつについては、あとで書きます。
作家の高見順は、のちに志賀との対談で「あの時は大変なことが起こっているという感じがした」というようなことを述べています。



挑む側から挑まれる側へ


しかし、時代は移り変わります。
大正文壇から昭和文壇へと移り、かつて若者だった大正作家たちも、若者たちから時代遅れと見なされるようになっていきます。
里見もその例外ではありません。
今度は里見たち大正作家こそが古い体制となり、若者たちから挑まれる立場になったのです。若い作家や評論家たちは、里見たちを酷評するようになります。

友人だった芥川龍之介が「将来に対する」「ぼんやりとした不安」と書き残して自死を遂げたころ、里見はスランプ状態にありました。
確かに、この時期の里見の作品はパリッとしないものが多いようです。

ですが、里見はペンを離しませんでした。彼はただただ書き続けました。
数年後、「かね」という作品で里見はスランプから復活します。室生犀星も、「ここまで来たら里見弴は日本一だ」と称賛の言葉を送りました


それからも里見は、時代とともに生きながら、自分の世界を表現し続けました。戦後もすぐれた作品が多く残されています。

意外な仕事としては、物故した西園寺公望をめぐる資料を整理し、わかりやすく補訂を加えています。
資料の作成者は、西園寺公望の秘書であった友人、原田熊雄。
原田は「開戦までの政治状況を残したい」と考え、幼馴染だった里見にひそかに補訂を依頼したのです。作業は第二次大戦中、軍部の目を避けて極秘裏に行われました。里見は戦後、GHQの軟禁下におかれて補訂作業を続けています。後年、「西園寺公と政局」として、岩波書店から刊行されました。

里見は昭和54年まで健在でした。長命です。
多くの作家たちが世を去るなか、94歳まで悠々と生きました。年齢とともに里見の作品には滋味が増し、しみじみとした味わいを持つようになっていきます。

とはいえ、もはやかつてのような第一線の花形作家とは言えません。
「花形作家」から「前時代の大文士」になり、「大正時代の作家のひとり」になり、「昔の作家」になり……。里見を高く評価していた丸谷才一は、「誰も里見弴を読まない」となげきました

そんな里見の名が今も出るのは、映画監督小津安二郎の原作者としてか、今でも大作家として名が残っている志賀との関係、この二つがきっかけであることが多いようです。

お待たせしました、いよいよ志賀との関係について説明したい、のです……が。
ちょっと長くなってしまったので、いったん分けて、次の記事でご紹介しましょう。






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