ミステリー 里見弴の我孫子の土地の謎を解け! 最終回
〇里見弴の動きの遅さ
あらためて、里見弴が大正5年、志賀直哉に書いた手紙を眺めてみましょう。
ここから、我孫子にかかわる内容を拾います。
【1月12日】
【2月14日】
【2月29日】
【3月9日】
【4月1日】
【4月18日】
【4月27日】
【5月14日】
※志賀の分の地図というのは、おそらくこの時期、志賀が買っていた別の土地のことかなと推測しています。
【5月17日】
【5月20日】
※この手紙では、今までの礼も述べ、以前に借りていた交通費などを返しています。付き合いをやめるつもりだったことがわかります。
ただし「君が使いたいと言っていた畑のことで、決めることがあるなら決めておこう」とも書いていますので、完全に縁を断つというより、もう親しく行き来しないという意味合いだったのではないかとも思われます。
このほかには弴の兄、有島武郎の日記で、我孫子の家に触れているものがあります。
それによると、4月5日に弴の家の設計をしたそうです。
ですから設計の依頼など、ほかにもこまごまと手を付けてはいたのでしょう。
しかし、志賀にあてた手紙からは、執筆などほかのことに手を取られがちな様子がうかがえます。
その前年の手紙も同じ本に収録されていますが、くらべると、そのころより文章も固く、簡素です。全体としてやる気のなさが印象に残ります。
当時、弴は作家として上り調子の時期にありました。
新人作家の登竜門と言われる『中央公論』から依頼が入るようになり、力のこもった作品を続々と発表しています。
例えば、けんかの翌月に書いた「善心悪心」(!)、同時期の「俄あれ」などは、初期の傑作として知られています。
そもそも弴が大阪の下町に住んだのは、文学修行のためでした。
妻を迎えて、文学修行の地をひきはらい、東京に戻ったのが前年の10月。
作家としての評価がかかった正念場、というような時期でしょう。
弴の心は、完全に仕事へ向いていたのではないでしょうか。
転居に時間を使うより、執筆に打ち込むことが優先だったでしょう。
それに、当時は原稿輸送の手間もあります。
依頼を受けるにも東京の方が有利なはずです。
このまま東京にいたい気持ちもあったのではないか、というふうにも思われます。
現にその年、弴が引っ越したのは都内――それどころか、隣町でした。
それでなくても、下町育ちで芸妓だった妻が友人たちとなじめるか、土地を買う時点から不安だった、とも述べている弴です。
弴は我孫子への転居に積極的ではなかったのではないか、と推測できるのです。
〇志賀直哉のもくろみ
逆に、弴の転居に乗り気だったのは、志賀直哉だったと思われます。
ここまで見てくると、逆になぜそこまで弴にこだわったのか、不思議になるほどです。
志賀には、弴をちかくに呼び寄せたい動機がありました。
我孫子の冬に飽き、うんざりしています。
作家としてはスランプで、何年も新作を書き上げることができていません。
我孫子には親しい友人も少ない。
柳宗悦ももちろん友人ですが、彼は美学者として雑誌連載など仕事をしており、そうそういつもつるんでいるわけにもいかなかったでしょう。
そんなときに、親友筆頭と言ってもいい弴が遊びに来て、「引っ越しを考えている」と話したとしたら、どうでしょうか。
今までの鬱屈を吹き飛ばせると考えたのではないでしょうか。
志賀自身の転居の経緯からしても、弴に転居を勧め、その手引きをしようとしてもおかしくありません。
なんなら自分がそうだったように、多少強引でも土地があれば転居してこざるを得なくなるだろう、と踏んでいた部分もあったかもしれません。
〇志賀と弴の関係のあやうさ
もともと、こうなる前から二人の関係にはあやういところがありました。
志賀直哉と里見弴の関係に、精神的な同性愛の傾向があるということは、多くの研究者や評論家が指摘しています。
志賀にはカリスマ性と、のちに「ウルトラエゴ」とも称された強烈な自我がありました。
弴が5歳年上の志賀と知り合ったのは、ほんの小学生のころ。
成長とともに親しくなり、それにつれて志賀から大きな影響を受けることになります。
志賀もまた、弴をかわいがりました。
ふたりは一時期、毎日のように二人で過ごし、文学への夢を語り合い、切磋琢磨しあうようになります。
しかし、成長とともに、弴は志賀との近さに苦しむようになります。
二人の友人だった武者小路実篤は、
「志賀は友人にはあまりわがままを言わなかったが、里見にはわがままだった」
と語っています。
志賀が弴をさそう。弴は最初はことわる。しかし志賀が執拗に食い下がるので、結局はしたがってしまう。
そういう光景がよく見られたというのです。
これだけなら、大した話ではないように思えます。
ですが、弴にとってはこれは、ふたりの関係のゆがみを象徴するエピソードでした。
晩年、弴はこう語っています。
誘う→断る→食い下がる→したがう。
このやりとりを弴はくりかえし書いていますし、志賀も若いころを振り返った短編のなかで取り上げています。
志賀の書いたものをみてみましょう。
おおむねこのように、泊まりに来いと志賀が誘う(※ふたりの関係は精神的なもので、肉体的関係はなかったそうです)。
弴はことわる。
最後まで弴が言うことを聞かない場合、志賀は小柄な弴を無理に抱え込んで自宅へ連れていく。
こういう流れだったようです。
このへんについてはなかなか複雑なので、もしよろしければこちらをご覧ください!
https://note.com/kapibara2/n/n0aa15f5439e3
なぜ複雑かというと、このようなゆがみが、ただの上下関係によるものではなかったからです。
ふたりのあいだには、まるで二人で一人であるかのような強烈な一体感がありました。また、弴が志賀にさからえなかったように、志賀のほうにも、弴に引き付けられ、それに逆らえない、という感覚があったようです。
そのあたりはふたりの作品でも読むことができます。
めくるめくような一体感。
そんな極端なちかさの裏返しとして、志賀の苛烈と言ってもいい自我が、弴のそれを侵食しようとする。
ひとことで言うなら、そういう関係だったのだろうと思われます。
その象徴が、くだんのやり取りだったのでした。
しかし弴も気が強いたちです。
いつまでもそのままではいられません。
5歳年上の志賀は、もう自分の小説のスタイルを確立しています。
文壇の登竜門と言われる「中央公論」に志賀が寄稿を果たした年、弴はまだ自分らしいスタイルさえ見つけられていませんでした。
このまま志賀の支配下にいては、作家としても人間としても自立できない。
弴はあせったでしょう。
離れようとしはじめます。
いっぽうの志賀は、弴から「おまえは古い」と捨てられようとしていると感じ、激怒します。
ふたりのあいだに争いが起こります。
あらそいは大正元年から数年続きました。
なお、志賀の電車事故はこのころに起こっています。
しかし大正3年、4年とそれぞれ結婚し、家庭を持って遠隔地で暮らし始めたあたりから、いったん争いは落ち着きを見せていました。
そのはずでした。
しかしもしかすると、それは空間的な距離ができたことで生まれた小康状態でしかなかったのかもしれません。
ふたりの関係のあやうさは解決されていなかった。
それが、我孫子転居によって距離がちかくなり、また浮かび上がってきたのだとしたらどうでしょうか。
〇まず没交渉
2月16日、初めて我孫子をおとずれた弴は、その美しい自然を気に入ったのかもしれません。
そこで志賀からすすめられたとしましょう。
「我孫子へ転居してはどうか」と。
妻や仕事のことなど気がかりはありつつ、
「そうだなあ、ここに住むのもいいなあ」
……という気持ちになっても、不思議はありません。
しかし、綿密な打ち合わせもしないうちに、話がどんどん進んでいったとしたらどうでしょう。
しかも、その土地は志賀の家から歩いてほんの100メートルです。
100メートルて。
不動産サイトなら徒歩2分と書かれますよ。極近。なんなら近所のコンビニより近い。知らんけども。
聞いたらもう登記もすんでる。
志賀がそこで畑をしたいという話も出る。
日参する気満々じゃないですか。
前と何も変わらないじゃないか。
そう思うのではないでしょうか。
弴の意思を考えずに、強引に引き寄せようとする。あのころと何も変わりません。
またちかくに住んだら、元の木阿弥になりはしないか。いままで離れていたから、平和が保たれていただけだったのではないだろうか。
そんな不安が、弴のなかでふくれあがっていったのではないでしょうか。。
いらだっていたのは志賀もまた同じでしょう。
なにくれとなく協力しているのに、弴はなんだかぐずぐずしている。
もともと短気な志賀ですから、いら立ちを感じるのも当然です。
この時期の志賀の状況も見逃せません。
以前もご説明したとおり、志賀はスランプで何年も新作を書けていません。対する弴は、今や新進作家として文壇の注目を集め、仕事もひっきりなしに舞い込んできている。
まるでかつての状況が逆転したようです。
志賀直哉は「小説の神様」と呼ばれ、つねに泰然自若としたイメージがありますが、やはりスランプで書けなかった時期には、それなりに焦燥や葛藤もあったようです。
こうしてだんだんズレが大きくなっていきます。
そんな矢先、訪問の約束さえすっぽかされたとしたら……。
それはカッとなるでしょう。
そのとき書かれた志賀の手紙には、こういうくだりがあります。
その「不快」がなんだったかについては書かれていません。
ですが、もともと志賀がいらだちをつのらせていたことがわかります。
志賀はこのように弴をなじったあと、思い直して冷静な手紙を出しなおしています。
しかし今度は弴のほうが引きませんでした。
弴の返信は次第次第に激してゆき、とうとう没交渉を宣言するにいたるのです。これもまた、弴がそのまえから感じていた違和感や不安が背景にあったのではないでしょうか。
〇そして絶縁へ
志賀の絶縁宣言も、一連の流れのなかにあるでしょう。
「汝汚らわしき者よ」と書いたハガキを弴にたたきつけたのは、没交渉の一か月後でした。
志賀は「善心悪心」(くしくも掲載誌は「中央公論」です)を読んだことが、その原因だと書いています。
ではいったい「善心悪心」のどこに怒ったのか?
志賀は明らかにしていません。
作中で「志賀を殺したかった」と書かれたことが原因ではないか。
いやいや、性病の治療をしていたことをにおわせられて怒ったのではないか。
などいくつか言われています。
なるほど、それらも志賀の気に障ったかもしれません。
しかし、ここまで見てきた経過をかさねあわせてみると、違う可能性が浮かんできます。
「善心悪心」は、志賀が山手線に跳ね飛ばされた事故をあつかっています。弴は現場にいあわせ、志賀を病院へ運んでいます。
「善心悪心」によれば、その晩の志賀は、頭を打って直近の記憶をうしなっていたようです。
まるで抜け殻のように、ただにこにこしながら「何があった?」と聞きます。小説を書いていたことも憶えていません。
弴が話すと「そうかい、間抜けなことをしたもんだなあ」とわらう。
しかし何度説明しても忘れてしまいます。
そして同じ質問を延々とくりかえす。
病室でつきそっていた弴は、しまいにうんざりして、寝たふりまでしています。
これが作中の志賀の最後の姿です。
志賀は最後まで読んで、スランプである自分を揶揄されたと思ったのではないでしょうか。この抜け殻のような志賀は、スランプ状態の志賀の暗喩だと。
とうとう没交渉を宣言し、志賀を捨てた弴。
この場面で意気揚々と勝利宣言している。
「志賀はもう終わりだ。中身がからっぽの抜け殻だ。俺にはもう不要だ」
あいつはそう言って、俺を嘲笑しているんだ。
……と、感じたのではないでしょうか。
だからこそ「けがらわしき者よ」とまで、弴をののしったのではないでしょうか。
ですがどうやら、弴にはそういうつもりはなかったようです。
のちに志賀が「どこに怒ったかは忘れた」と書いたのは、考えすぎだったと気付いたからかもしれませんし、当時の心境をもう思い出したくなかったからかもしれません。
いかがでしょうか。
こう見てくると、我孫子への転居、志賀の絶縁宣言がつづけざまに起きたのは、無関係ではなかったと言えます。
我孫子の転居問題が、二人のあいだのゆがみを浮き上がらせたのです。いつか解決されなくてはならないことでした。
絶縁は、当然の結果だったのかもしれません。
土地台帳が入手できたことで、土地をめぐるこういった状況も、もうすこし明らかになったように思います。
ちなみに、ふたりは7年後復縁しています。
こういういきさつがあったのに、どうして復縁できたの? と思われる方もおいでかもしれません。
ヒントは「暗夜行路」です。
このへんもこちらの記事で書いてますので、興味がわいてこられた方はよろしければ!
なお、この記事の中で取り上げた二人のけんかですが、そのきっかけになった弴の小説は、こちらでまとめて読めます!
くしくもこちらも中央公論です。
……中央公論って……ふたりのなんなん……???
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