見出し画像

志賀直哉×里見弴×暗夜行路⑭





「里見弴は志賀直哉のお稚児さんで、同性愛関係にあった」。



冒頭で紹介したこの噂。
正しいかどうか、ふたりの関係性を検証してきた。
さまざまな情報を知った今、改めて真偽を考えてみよう。

……と、書き始めたのだが、実は単純に恋愛要素があったかなかったかで言うのなら、答えは簡単だ。

あった

というのも、里見が、志賀に恋愛感情を持っていた、と何度か語っているのだ。

レトリックとして「恋愛」の語を使ったり、匂わせたりしたわけではなく、はっきりと「恋愛感情」として話している
だから、「恋愛要素があったかなかったか」で言うと、あった、と断言できるわけだ。

それでは実際の文章を見てみよう。


最初は、「君と私と」から。
 

A 


たしか私が十四になる春休だった、
鎌倉の方で病後を養って居た俊之助兄(※生馬)を
見舞がてら、君(※志賀)や黒田君が
泊まりがけで別荘へ来て居た。

或る朝、私と直ぐ上の金造兄とが
庭へ出てキャッチ、ボウルをして居るのを、
君たちはまだ寝床のなかにゴロゴロしながら
眺めて居て、時々ヒヤかしたり褒めたりした。

その時 私は
君が見て居るんだから
うまくやろう と思った。

それは確かに覚えて居るが、それが
運動ごとの何んでも得意だった君の
賛詞を得ようがためであったか、

或は君に対して
男同士の恋を感じていたためであったかは

はっきりしない。

何しろその頃は
一般学生の間に男同士の恋がヒドく流行っても居たし、
私もそれに浮身をやつして居た。

近頃その時分の日記をひらいて見て驚いた位
あらゆる頁に同性に対する恋情が
訴えられて居るが、
そのうちには君の名を見出す事は出来なかった。

然し君が泊まって居た二日とか三日とかの
短い間だけでも、君に
惚れて(言葉は可笑しいが)
居たのかも知れない。
 

若しそうとすれば、
この恋の成らなかったのは
私にとって大変な幸であった


少しでもそんな関係に這入ったならば、
私は今日の私ではあるまい。

――然しそれは兎も角、
私は順序を追って書いて行こう。

里見弴「君と私と」

もうひとつは、晩年の93歳、瀬戸内寂聴との対談内での発言だ。 

C

瀬戸内  (……) 先生は男色のご経験は
     ないんですか。

里 見  ないね。

瀬戸内  でも、かわいかったから
     大変だったでしょう。
     少年のころ、追いかけられて……。

里 見  それは非常にきらったね。

瀬戸内  でも、先生は志賀直哉さんに
     異性の恋を抱いたというふうに
     書いてらっしゃいますね


里 見  肉体的な関係にならなかったのを、
     大変に幸せだったということも
     書いてある。
     それは危険だよ。
     ほれていれば、機会さえあれば、
     そうなっていそうなところだけれども、
     いいあんばいに何もなかったね。

瀬戸内寂聴『生きた書いた愛した 対談・日本文学よもやま話』新潮社,1997
(149)

 

太字にした箇所から、次の2点が読み取れる。

  1. 里見が志賀への感情を恋愛感情と認識していた

  2. 恋は成就しなかった=肉体的な関係にはならなかった


Cでの里見の発言は、「先生は志賀直哉さんに異性の恋を抱いたというふうに書いてらっしゃいますね」と寂聴氏に質問されて答えたものだ。

寂聴氏が指しているのは、Aの文章だと考えてよい。
肉体的な関係にならなかったのを、大変に幸せだったということも書いてある」という里見の回答に該当するのは、「この恋の成らなかったのは私にとって大変な幸であった」というくだりだろう。

里見の答えからは、
「恋が成らなかった」というAの言葉は、「肉体的な関係には入らなかった」という意図であることが推測できる
この点を確認しておきたい。

わざわざ確認したのは、「なぜ恋が成らなかった」のか、ということを問題にしたいからだ。
そのとき「恋が成らなかった」とは具体的には精神的な次元の話なのか、肉体的な次元の話なのか、というのが問題になってくる。
詳しくはあとで触れよう。
ここでは、里見が「肉体関係にならなかった」という意味で「恋が成らなかった」と述べていることを確認して、話を先に進めよう。

上述の発言からは、少なくとも里見弴が志賀直哉に対して恋愛感情を持っていたのは確実だと言えるわけである。

ところで、上記で紹介した二つの文章には、それぞれA、Cと振った。
なぜか。
実は、時系列的にこのあいだに入る文章を、あえてひとつ飛ばしているからだ。
「志賀君との交友記」の一節で、昭和12年、50歳のときに書かれた随筆だ。順番で言うと「B」にあたる。

引用してみよう。
 

B

もう一つ仕合せなことがある。

十二、三の時分、一時、
私はたしかに志賀君に惚れていた。

まだ学生の間に、男色の気風があり、
特に学習院など盛な方ではなかったろうか。

私もなかなかの美少年で、ずいぶん
年上の学生に口説かれたりしたものだが、
その道の言葉で「ちごさん(※受け)」なるべき私の方から、
「にせさん(※攻め)」なるべき志賀君に
思いをよせていた
時代があるのだ。

こんなことを公表されるのは、
閉口かも知れないが、
当時の志賀君は、すばらしい美青年で、
おしゃれで、運動事ならなんでも器用で、
この頃の言葉でいえば、サッソウたるものだった。

ところで、私の思慕が、
――無論、プロポーズした覚えもないが、
「哀しき片恋」に終った
ことは、
たいへんな仕合せで、
もしちょっとでもへんなことがあったりしたひには、
私は、同じ文学に志したりなんぞ
していられなかったに違いない。

偶然往来で会っても、「やア」ぐらいのことで
擦れ違ってしまえるような、
……さよう、まず、会社員にでもなっていたろうか。

返すがえすも、
そういう機会に恵まれなかったことは有難い。 

里見弴「志賀君との交友記」『里見弴随筆集』岩波書店,1994(87)


「ちごさん」「にせさん」は当時の薩摩での言い方が東京でも使われていたものらしい。「ちごさん」は稚児のことだろう。
今のBL用語で言うと「受け」「攻め」に相当する。

Bを加えて順番に並べ直すと、

A:里見26歳(大正2年)
B:里見50歳(昭和12年)
C:里見95歳(昭和57年)

年齢は数えで統一している。

このように発言した年をならべてみると、志賀を好きだったという言葉は生涯にわたって一貫しているわけで、信憑性は高いと言えるだろう。


さて、Bをあえて後に回したのは、先入観を避けるためだ。

ここで里見は、「哀しき片恋」と自ら語っている
そのため、先に読めば、
肉体的な関係に至らなかった理由は里見の片想いだったから
志賀には恋愛感情はなかった
と理解されることになるだろう。

Bは岩波文庫の『里見弴短編集』におさめられている。
現在、里見の書籍はほぼ絶版状態なのだが、例外的に新刊で流通しているのが同書で、おそらくなにか里見の作品を読んでみようと考えた人が手に取る最初の本ではないだろうか。

そのためか、現在では「里見の片想い説」が広く知られているようだ。

しかし、本当にそうなのだろうか。
確かにA,B,Cで里見は
「志賀に惚れていた」
「関係は成就しなかった」
と共通して述べているが、見直してみると「片想いだった」としているのはBだけなのだ。

AとCでは「恋が成らなかった」「肉体的な関係にならなかった」とのみ述べ、理由には触れていない。

先ほど確認したように、「恋が成らなかった」とは「肉体的な関係にならなかった」ということを意味している。
その場合、恋が成らなかったと言っても2つのパターンがありうる。

  1. 自分は好きだが、相手には恋愛感情を持ってもらえなかった

  2. 自分は好きで相手も好きになってくれたが、肉体関係には至らなかった

先入観なしに読めば、むしろCの発言は2を意図しているように読める。

BとCはどちらが正しいのか。



では、志賀はどう書いているのか。


残念ながら、里見への感情に恋愛がふくまれていたか、公表されている文章で志賀が言及したことはないようだ

志賀の弟子であった阿川弘之は、志賀の死後に随筆集を編むために志賀の随筆を調べ、「最も親しい友」だった里見について、まとまって語ったものがないことに気付いて驚いている。
そもそも志賀は、おおやけに里見への感情を語ることが少なかったと言えるだろう。

里見が何度か志賀への恋愛感情をおおやけにしている以上、もし志賀のほうに恋愛感情がなかったなら「自分は違うが当時は流行していたので……」とでもやんわり否定することもできたはずだ。
しかしいずれにおいても――激怒していた大正2年においても、志賀はその点には特に言及していない。

志賀が恋愛感情があったともなかったとも発言していない以上、志賀の感情は永遠のブラックボックスということになる
我々には正解はわからない。

確かに志賀と里見の間には緊密な共同体が成立していた。
だが志賀の言葉で裏付けが取れないから、曖昧に「精神的同性愛」や「共依存的関係」と表現されてきたのだろう。

この記事でも、やはり「あった」とか「なかった」とか断定することはできない――が、とりあえず可能なかぎり考察してみよう。

それにあたっては、明らかにされている里見の恋愛感情のほうを掘り下げてみたい。改めてA、B、Cを見比べてみよう。

A、B、C、いずれにも共通する要素として、
・里見は志賀に恋愛感情を持っていた
・肉体関係への発展はなかった
・ならなくてよかったと里見は考えている

の3点があり、これは疑問の余地がないだろう。

次に、疑問点。


①A・BとCでの「男色」に関する発言に温度差がある。

A、Bでは男色をわりあいと軽やかに認めているのだが、Cでは言下に否定している。
しかし、「小説二十五歳まで」という自叙伝的小説によれば、少年時代の里見には志賀以外にも、それこそ片想いの少年がいたり、男子校の同級生から求愛を受けたり、好奇心から年上の同性と性的な行為を試してみたりしているのがわかる。
現代の我々から見れば充分に男色と言い得るものだ。
何故Cでは態度が変化し、男色の経験はないと強く言ったのか。

②里見の「14歳のころの志賀への恋愛感情」は本当か

Aの文章で里見は、
恋をしていたのかははっきりしない
 ↓
当時の日記に、同性への恋心は記されていたが、そこに志賀は入っていなかった
 ↓
二、三日だけでも惚れていたのかもしれない」
と述べている。
だが、当時の日記に書かれていないなら、
「してみると、あれは恋愛感情ではなかったのかもしれない」
と来るのが自然ではないだろうか。
里見は、なぜ「志賀に惚れていた」という結論にこだわるのだろうか。

③BとCでは、「志賀と肉体関係に至らなかった」ことを説明する発言に、微妙な齟齬がある。

B→「悲しい片恋」
C→「機会があれば危険だったが、いいあんばいに何もなかった」
比較すると、微妙にその指すところが違う。
Cの言い回しは、要は機会があれば肉体関係になりえたということだ。
本当に片想いであればこんな言い方をするだろうか。

これらの一致と齟齬を検討し、書かれていない空白の部分を考察してみたい。


 

話を進める前に、「男色」を巡る意識の変化を知らなくてはならない。


明治時代、学生や軍隊などの男社会で男色が大いに流行っていたことは、こちらの記事で紹介した。

だが、一般の社会はちがった。
明治時代を通して、一般社会で「男色」は「同性愛」と呼ばれるようになりながら、次第にその居場所を失っていった

1872年(明治5年)に制定された鶏姦条例(その翌年、鶏姦罪になる)をご存知だろうか。

ざっくり言うと、男性同性愛における肛門性交を禁止し、懲役刑をさだめたものだ。日本史上で唯一、同性愛を禁止する法律だった
とは言え、現実に適用されたのは数例程度だったという。
違反者がいなかったためではなく、実際にいつどこで誰が肛門性交を行なったかなど、把握できるものではないからだろう。

この時期は、江戸からの引き続きで、男色もまだまだ禁忌ではなかった。
にもかかわらず鶏姦が禁止されたのは、男性同士の関係が異常と考えられたからというより、「先進国である西洋諸国で禁止されているので、男色は野蛮であり、文明国になるために禁止しなくてはならない」という考えのほうが強かったらしい。
なお、この時期は同じような理由で、銭湯の混浴や、肩脱ぎで通りを歩く、立ち小便、闘犬なども禁止されている。

鶏姦罪は約十年後、旧刑法が制定されたときに省かれ、なくなった。
しかし、「鶏姦」=法に背く犯罪、というネガティブなイメージは残った

社会学者の古川誠氏は、鶏姦罪の影響をこう指摘している。

男色という概念には付着していなかった
マイナスのレッテルが、
鶏姦(罪)という概念には
はっきりと結び付けられている
という点は、
決定的な相違点であった。

古川誠「「性」暴力装置としての異性愛社会――日本近代の同性愛をめぐって」



さらに明治半ばから、不良学生たちが美少年を拉致して性的暴行を加えるという事件に注目が集まるようになり、社会問題としてたびたびメディアに取り上げられるようになった。
当時、「鬼鉄一派」「雷義団」「隧道組」「白袴隊」などが悪学生のグループとして知られていた。

鶏姦についての新聞報道を分析した斉藤巧弥氏は、明治期を通して鶏姦についての報道が盛り上がった時期が二つあるとしている。

第一期は1875~1901年。この時期は、鶏姦そのものが悪と見なされているわけではなかったという。
1905~1914年は、その2番目の「第二期」である。ここで鶏姦=暴力とされ、「鶏姦が悪事であるということが明確に語られ始め」る。


第二期の記事においては
鶏姦が悪事のひとつとして明確に言語化されることによって、
その暴力性が強調されることになる。

二つ目は、鶏姦は悪事のひとつであるだけではなく、
その中でも特に問題のある行為として
見なされていることである。(……)

鶏姦が強姦と並んで語られる傾向からも
窺うことができる。つまり、
「(男性から)女性への強姦」と
「(男性から)男性への鶏姦」という
対によってこの時期の鶏姦は縁取られていた。(……)

この時期の報道によって、
鶏姦を行なう人物が
硬派の不良学生に局在化された
。(……)

さらにこの当時、しばしば
「不良学生」と並んで登場するのが
鶏姦学生」という表現である。(……)

「鶏姦学生」として表現されることで
不良学生の下位分類のような存在として
鶏姦が人物化されていた

斉藤巧弥「明治期の新聞における「鶏姦」報道の特徴:『読売新聞』と『朝日新聞』の分析から」



1905~1914年といえば、明治の終わりから大正の初めにかけてのことだ。
この時期、新聞では「鶏姦」に対するネガティブキャンペーンが繰り広げられた。ここでの鶏姦は犯罪であり、鶏姦を行なうものは堕落した学生として描かれた。


里見の小説にもそのへんは反映されている。
里見25歳の作品「小説二十五歳まで」が執筆されたのは1912年。まさにこの時期のことだ。
作品内で取り上げられたのは、1905年以前の青少年期で、作中ではときおり男性との恋愛関係に触れられる。
が、そのたびに必ず「鶏姦はしていない」と付け加えられる。厳格に、例外なく、きちんとだ。

里見の少年時代には、過去の「鶏姦罪」もあって鶏姦にネガティブなイメージがあったにせよ、学生なら許されるものだっただろう。
しかし執筆した明治45年には、もはや鶏姦は学生にすら許されないものになりつつあったことがうかがえる。

そしてそれは、里見だけの認識ではなかったようだ。

鶏姦、つまり肉体関係をともなう男色は悪、ともなわない男色は問題なしという見方は、他の作品でも見ることができる。

  • 坪内逍遙「当世書生気質」
    男色のすばらしさを熱く語る書生は、「性行為があれば自然に背く行為だが、精神的なものなら問題ない」と答えている。
    出版は、1885(明治19)年。
    この時期にはもう知識人階級には「男色は自然に反する」という見方がすでにあったこと、性行為をともなう男色とそうでない男色を分けてみる見方がうかがえる。

  • 森鴎外「ヰタ・セクスアリス」(明治42年)
    作品の舞台は明治10年代。
    男性同士の性行為も行なわれているようだが、男色派であっても主人公を性の対象と見なさない登場人物は、性欲を持ち込まない限り、なよなよした女色派よりも雄々しく信頼に足る友人として描かれる。
    鶏姦(それはしばしば無理矢理行なわれる)がないかぎり、男色は異常ではないのである。

  • 折口信夫「くちぶえ」
    主人公の少年は中学に通っている。ここでも男色は流行しており、主人公も上級生から求愛を受ける。しかし主人公は、穏やかでものやわらかい同級生の少年に恋心を抱いている。
    作中で、主人公に対して性欲を示す上級生は嫌な存在として描かれ、性を介在させない主人公と同級生の愛情は善いものと見なされる。
    しかし、同級生に対する自分の感情にも性的な要素を感じるとき、主人公は、自分も嫌な存在だと感じる。
    性をともなう男色・伴わない男色が明確に区別されている。
    性を感じる時、それまでは善き側だった主人公も、嫌な側へと移行してしまうのである。

  • 川端康成「少年」
    先日文庫本が出版され、大きな話題を呼んだ。
    川端の大正5~6年の日記をもとにしていて、日記中の時間は里見たちの学生時代より10年ほどあとになる。
    清野少年は、性行為を望まない川端を全面的に信頼しているが、おそらく性欲を示してくる上級生に対しては強い嫌悪感を見せる

  • 秋田雨雀「同性の恋」
    やはり先日出版されて話題を呼んだ『給仕の室 日本近代プレBL短篇選』にも収録されている短編で、帯の惹句にも同作の一部が使われている。
    明治40年に発表されたこの作品には、「男同士の恋は魂と魂が合することで、昔は肉体のまじわりさえあったという」としている。
    このころには「肉体のまじわり」つまり鶏姦は、あまりおおっぴらにできることではなくなっていると推測できる。


とは言え、男色そのものがすぐに消えたわけではない。
プラトニックな男色なら許されたことは上記からもうかがえる。


しかし同時に、鶏姦を伴わなかったとしても、男性同士の恋愛・性愛を「自然に反する」「野蛮」なものとする見方は、社会の西洋化・近代化とともに広がっていきつつあった。

明治32(1899)年に行なわれた「男色に就て」という講演記事では、男色は生れつきの「病気」という見方が示されている。
「男色」と呼んではいるが、その捉え方は江戸時代の「男色」から離れて、西洋の「同性愛」の概念に置き換わりつつあった

1909(明治42)年には、河岡潮風が「学生の暗面に蟠れる男色の一大悪風を痛罵す」というタイトルで学生男色を痛烈に批判した。これも男色を異常で不自然なものとしており、西洋の「同性愛」の考え方に近い。

当時の西洋医学では、男性同士の恋愛・性愛は病気であり、異常であり、変態だった。男性同士の恋愛を解釈するコードは、じわじわと日本古来の「男色」から、そのような西洋的な「同性愛」に切り替わりつつあった。

大正2年には、クラフト=エビングの『変態性欲心理』が出版されて性科学ブームが起きている。
明治から大正にかけての社会の変化にともない、「男色」は「同性愛」に変わり、「性の好みのひとつ」から「異常な変態」へと変わっていったのである。

学生男色の文化はなおしばらくは残る。
が、それは彼らがまだ男として未成熟で、かつ女性が身近にいないという理由があったからだ。
前述の「学生の暗面に蟠れる男色の一大悪風を痛罵す」では、「同性を愛するのは不自然だが、同性しかいない場所では同性に目を向けるしかないのは仕方のないことで、いわば不自然の自然」と唱えている。

学生男色を描いた多くの作品で、登場人物は「未成熟」とセットで描かれる。
そこに共通して認められるのは、社会に出て成熟すれば男色の季節は終わるという認識だ。
少年愛を書き続けた作家稲垣足穂が、そこに「まだ男にならない性的に未分化の美」を見出していたのは偶然ではないだろう。
未熟で「男」になりきる前の学生であること、その前提で学生男色は許されていた。
社会人になってなお男性へ恋心を持つとしたら、それはもはや「学生男色」という保護を外れた「同性愛者」、異常者ということになる。

社会はゆっくりと、「同性愛=異常」と見なす価値観に覆われていったのである。

これを踏まえて、①~③の疑問について考えていってみよう。


①A・BとCでの「男色」に関する発言に温度差がある。


おそらく、上述の社会的変化が反映されているのではないか。
Aを書いている1912年は、まだ「学生男色」自体は悪ではなかった。
そのため、里見は「鶏姦があったかどうか」にウェイトを置いており、志賀を含めた同性への恋愛感情はさらりと書けたのだろう。

Bは昭和12年。
「男色」から「同性愛」に切り替わってはいたが、「男色」の感覚を持った世代は生きていた。川端が「少年」を発表したのが昭和23年。太宰治の「津軽」などを見ても、おそらくまだまだ学生男色の余韻は残っており、「学生時代の思い出」「少年のころの片想い」としてなら、公にする余裕はあったのではないだろうか。

一方Cは、さらにくだって昭和57年の対談だ。
里見はもはや90代。学生男色の思い出を持った世代は多くが鬼籍に入り、「同性愛」というだけで拒絶されるような時代になっていただろう。

里見の認識のなかにも、時代の変化はすりこまれていたはずだ。
もはや「男色」は、鶏姦がなかろうと、学生時代限定であろうと、異常と見なされる。だから言下に否定した。

ただしここで注意をしたいのは、おそらく里見の中から「良い男色」「悪い男色」の基準が消えてはいないと思われることだ。
里見は「恋愛感情があった」こと自体は明確には否定していない。
寂聴氏への受け答えを見るに、「肉体関係があったか」にポイントが定まっている。

学生男色、鶏姦、同性愛と、男性同士の性愛をめぐる価値観が大きく揺れ動いた時代を生きてきた里見の中では、複雑なかたちでそれらの体系が折り合わされていたのではないだろうか。
そのために、肉体関係のあるなしという観点での返答になっているのではないだろうか。

実際に、書き残されている範囲では、少年時代の里見は男性に恋愛感情を抱いたり、鶏姦まではいかない性行為を行なったこともあるようだが、鶏姦は行なっていないらしい。
ここから透けて見えるのは、里見のなかには、男性との性行為への大きな抵抗感があったのではないか――ということだ。



②里見の「14歳のころの志賀への恋愛感情」は本当か


里見が十四歳のころ志賀を好きだったという言葉の意味を考えたい。
と言うより、何故それが「君と私と」冒頭近くに語られたか。
なぜ「恋」とされなければならなかったかを考えたいのである。

「君と私と」での里見は、まず志賀との出会い、次第に接点を持ち出したなりゆきについて語る。
その次に、志賀への恋愛感情について触れる。
そして「恋が成らなかった」ことを喜び、「それは兎も角順序を追って書いていこう」と物語に戻るのである。

しかし、志賀への恋心は当時の日記では確認できなかったというくらいのあやふやなものだ。
幼年時代からの成長史である「小説二十五歳まで」には、志賀も姿を見せるが、恋心には全く触れられていない。

「君と私と」では、ふたりが同じ少年に恋をしていたことにも触れられているが、こちらは「小説とは関係ないが、面白い係り結びをしていると思ったので書いておく」とされている。
しかしながら恋愛感情について述べたときには、そのような但し書きもない。

里見は、流れで何となく書いたわけではなく、明確に意志を持って志賀への恋心について書き留めたと見るべきだろう。
なぜ、わざわざ志賀との関係の語り初めに触れ、「恋だった」としなけばならなかったのだろう

それは、「君と私と」のテーマと関わりがあるはずだ。
「君と私と」がどのような状況で書かれたかはこの記事でも見てきた。
「君と私と」内ではこう語られている。

――君に云う。

私は何故こんな物語を書き始めたのか。(……)

――君と私との関係を考えたい、
弁めておきたい。
こう思うのだ。

「君と私と」(226)


「君と私と」は、志賀と里見との関係を再考する目的で書かれた、と述べられている。
冒頭に志賀への恋愛感情をおく意味合いは、この主題と関係がなければならない。

冒頭、しかも二人の出会いの直後に置かれたとき、この段落はどういう意味を持つだろうか。
その場合、「恋」の宣言は伏線として機能する
たとえ二度と「志賀への恋心で」などと書かなかったとしても、読者はその後につづく二人の物語全体に、「恋」の響きを聞き取らざるを得なくなる。

「現在」への暗示として作中で機能させることが、ここでの目的だったのではないか。
志賀と里見との関係には恋愛感情がふくまれている。
過去ではない。現在だ

実際に14歳の里見は、志賀に何らかの特別な感情を持っていたのかもしれない。
だが「恋」というより、運動ができるかっこいいお兄さんへの憧憬程度のものだったのではないだろうか。どちらにせよ日記に書き留めるほどの感情ではなかった。
なにしろその数年後には、志賀が大人っぽくなって難しい話をするようになったので、すっかり嫌いになってしまった、というくだりもある

十四歳の少年の心を横切っていった、日記に書き留められすらしなかった淡い慕情。それに託して、里見が「君と私と」に書き込もうとしたのは、もっとどうにもならないもの――30歳と25歳のふたりのあいだに存在している、現在の感情だったのではないか。

現在から逆算したからこそ、14歳のときの感情が深い意味を持った可能性もある。
いずれにせよ、里見にはその感情を過去に託す必要があった。
それは、社会の動きと無関係ではないだろう。

「君と私と」が書かれたのは大正2年。
どちらも学生ではない。
社会人で男性同士であれば、風当たりが厳しくなりつつある時期だ。その感情は「同性愛」というコードで読まれることになる。
そのころに、たとえ肉体関係はなかろうとも、現在相手への感情に恋愛感情がふくまれているとは到底おおやけには言えなかっただろう。

許されるとすれば学生時代。
14歳のころの、鶏姦を伴わない淡い恋心としてならば、文句の出所もない。

様々な要因が絡み合って、しっちゃかめっちゃかになってしまったふたりの関係。そこには相手への恋愛感情もひそんでいる。
あのパラグラフは、その伏線になっているのである。

さて、そうなると気になってくるのが志賀の反応である。

志賀は、このくだりに対して驚きや不快を示していないのである。
まるで、ふたりにとっては元から共通認識だったかのように……。


③BとCでは、「志賀と肉体関係に至らなかった」ことを説明する発言に、微妙な齟齬がある。


B→「悲しい片恋」
C→「機会があれば危険だったが、いいあんばいに何もなかった」

BとCには、上で指摘したような違いがある。
これにあたって少しBに注目してみたい。

Bは、Aを読み返して記憶を呼び起こして書いたものだ、と里見は書いている。
すると、AとBの微妙な違いが気になってくる。

A→「日記には書かれていなかったが、2,3日のあいだだけでも君に惚れていたのかもしれない」
B→「確かに志賀くんに惚れていた」

Bではだいぶ強く言い切っている。
おそらく事実に即しているのはAのほうだろうが、Bは気楽な随筆なので、そこまで厳密に整理して書く必要を感じなかったのだろう。
実際に里見の中では、14歳の感情は、後年のふたりの関係の前触れのようなかたちでつよく認識されているのかもしれない。

すると、Bで「自分の片恋」と強く否定した理由もうかがえる。
恋心を強く言い切った以上、強く否定しなければ読者から余計な憶測を呼んでしまうからだ。
ふたりは親友として広く知られていた。この時期にも、奈良と東京に離れているにもかかわらず、年に1~2度の頻度で行き来し合っている。そこに疑惑の目を向けられないように、強めに否定しておいたのではないか。

「志賀くんは閉口だろうが」とつけくわえたのも同様の理由だろう。
自分の問題であって志賀は関係ない、自分の片想いだ、と強く言うことで、「惚れていた」という強い言葉を否定し、「同性愛」ではなく「学生男色」の範囲に留めておくことができる。
志賀への配慮だろう。

ではCはどうか。
Cでは逆に、里見は「男色」にかかわったことを否定しようとしている
「鶏姦」であれ「同性愛」であれ、社会的によくないことはしていない――それがここで里見の言いたい内容だ。

となると、「志賀とは何もなかった」と言うのが最善のはずだ。
Bで言うとおりなら、好きだったと言っても、14歳の少年が、19歳の青年にほのかな恋心を感じただけのはずだ。
哀しい片恋で実ることはなかったというなら、そう言えばすむ。
「子どものころ二、三日憧れてただけで、志賀はこっちをなんとも思ってなかった。それきりだよ」
と言えばすむ。
なるほど、男色というほどの話ではなかったのだな、と誰が聞いても納得するだろう。

ところが里見は、「惚れていれば何があってもおかしくないが、幸い何もなかった」と答えている。
里見からすれば、肉体関係さえ否定すれば問題なかったので、その範囲で正直に答えたのではないか。寂聴氏の質問が不意打ちだったためもあるだろうし、里見が馬鹿正直なせいもあるだろう。

だがこの答えでは逆に、肉体関係に至りそうなところまではいった――と認めているようなものだ。

もしも本当に14歳の片恋だったなら――「19歳の青年に二、三日片想いをした14歳の少年」なら、こんな話になるだろうか。

もっと年上で、両者憎からず思っているときの話ではないのか。

BとCの状況と発言を比べてみると、Cのほうがより事実に近いのではないかと思われてならない。
そしてCの発言は、やはり「恋愛関係」があったのが「君と私と」執筆当時のことだと裏書きしているのではないだろうか




そこに愛はあるんか?



ここで少し「君と私と」執筆当時のふたりの関係を見直しておこう。
ふたりの関係で見落とせないのは、ふたりが本格的に親しくなったのが1908年(明治41年)ということだ

その年、志賀、里見、木下利玄は関西へ徒歩旅行をしている。

このときのことを書いたものに「寺の瓦」「若き日の旅」の二冊がある。
「若き日の旅」で、里見は旅行時のふたりの身分について、
志賀は「既に学籍を脱していた」
里見は「学習院の高等科2年」
と記している。

志賀は帝大を中退していたが、この時期は徴兵を回避するために籍だけ残してあった。
とは言え、本人や周囲は学生ではなくなったと見なしていたのだろう。

ふたりは幼少期に5歳差で出会った。
「親友の弟」、「兄の親友」。
そんなところから「お兄さんに遊んでもらうちびっ子」といった関係で始まり、やがて留学する生馬から頼まれて、志賀が里見の後見人となる。
このころから生馬抜きの親しい関係になったふたりが、さらに「親友」になったのは、この旅行でのことだった。

「君と私と」によれば、旅行以降、ふたりの距離はぐっと近づいたという。想像をまじえて述べると、このあたりからふたりのあいだに恋愛感情が交じり始めたのではないだろうか。

志賀の行動を追っていくと、里見の一方的な恋心だったというのは無理がある
里見に恋愛感情があったというのなら、志賀の側にもそれに相応する恋愛感情、もしくはそれに近い感情があったのではないかと考えるほうが自然だ。

かりに里見の一方的な感情だったなら、「君と私と」で恋心を告白した上で「離してほしい」と頼んでいるものを、志賀は激怒して拒んだことになる。それはいささか不自然ではないだろうか。

Cの「惚れていれば何があってもおかしくない」は、志賀の側もまた里見に「惚れてい」たことを裏付けているように思われる。

明治40年の志賀日記に、「いくら愛されても解されなければ苦しい(42)」と、孤独を感じていたことを示す文言がある。
愛してくれても理解してくれない相手とは、祖母か、当時文通していた女性か。

いずれにしても里見は、その孤独を埋めてくれる存在として、志賀に改めて見出されたのではないだろうか。

あくまで推測ながら、里見は志賀にとって幼児期から知っているちびっ子で、親友の弟でもある
志賀が学生でいる間は恋愛対象にしようとは思わなかったのではないか。

だがこの旅行の時期、里見は20歳。
もう、志賀が難しい話をしただけで嫌いになるような、幼い少年ではない。

「若き日の旅」の冒頭では、旅費の件で志賀から完全に子ども扱いされているが、旅の過程で志賀がわからなかった英単語の綴りを知っていたり、旅の途中で届けられた武者小路の「荒野」を読んで清新な感動をおぼえたりといったような、知的・精神的成長を示している。

文学の道を歩み出そうとしていた志賀は、このとき、ちびっ子だと思い込んでいた里見が大人になっていて、「人生に対する考え、芸術に関する考えでは或る程度まで」一致している相手であることに気付いた。
もはや、赤いねんねこばんてんの裾を引きずってちょこちょこ出てきた幼児ではない。

その前年には、里見と話していると、どんな話でも心が開くような気持ちがする、と手帳に書き留めてもいる。もともと好もしい相手であったことはここからもわかる。
そんな里見が、志賀の理想の相手に近いと気付いたとき、志賀はどう感じただろうか。
なんなら美少年で知られ、明るくてさっぱりしたところのある里見は、面食いの志賀にとっては好きなタイプでもあったかもしれない。

志賀が学習院の学生だったのはほんの2年前。
前年も大学に通う学生だった。
学習院で多くの恋をし、卒業する年まで後輩を恋人に持っていたことを考えると、頭ではともかく、身についた恋愛対象をそうそう切り替えられはしないだろう。

菊池寛なども、後年は愛人の女性をつくるなど女性関係が賑やかだったが、学生時代は男色派で、卒業後もしばらくはその意識が抜けなかったようなことを友人の久米正雄が書いている。

だが、このとき、かつての男色の時代はもう終ろうとしていた

1908年は、鶏姦へのネガティブキャンペーンのまっただなかでもある。その翌年には「学生の暗面に蟠れる男色の一大悪風を痛罵す」が出版されてもおり、「同性愛」コードが社会に浸透しつつある時期だった

もう学生ではない志賀は、男色を行なうのにふさわしい立場ではなかった。同性に恋をすれば、「同性愛」コードで解釈され、志賀は「同性愛者」ということになる。
それでなくてもプライドの高い志賀には、「変態」とか「異常者」などとして軽蔑されることには強い抵抗感があり、絶対に選択できなかったはずだ。

一方の里見のほうはまだ学生なので、男色のうちに入る。
(のちに里見が相手への恋愛感情を口にするのは、恋愛関係の始まりにおいてまだ学生だったため、罪悪感が薄いからかもしれない
しかしそれでも「鶏姦」はだめだ。それはネガティブな行為としてメディアから喧伝されている。

里見自身「鶏姦」を敬遠していたらしいことは、上で見たとおりだ。
A,B,Cのいずれでも里見が「肉体関係を持たなくてよかった」と述べているのはおそらく本音だろう

もしそうなっていれば作家にはならなかったかもしれないというのは、つまり、もはや志賀に逆らう気力は湧かなかった、自我を確立する余裕は持てず志賀に服従するしかなかった、という意味だろう。
里見の側としても、ふたりの関係をそれ以上先へ進めることはできなかったと思われる。

この時期のふたりには、恋愛感情を抱いたとしても、もはやそれを具体的な恋愛関係に発展させることは許されなかったのではないだろうか。

それがどこまでふたりに自覚されていたのか、抑圧された無意識下のことだったのか、認知されていたのか。話し合いなどが持たれたのか、それとも敢えて口にはしなかったのか。
そのあたりはわからない。
が、ふたりの関係がこじれていった根底には、この恋愛感情がひそんでいたのではないだろうか。

志賀は里見を文学上のパートナーにしようとしていたのではないか、と前回の記事で書いた。
志賀は「一人の個人を形成する二人の人格」を里見の上に重ねようとし、恋愛関係としては実現できないものを、文学上の伴侶というかたちでかなえようとしていたのではないだろうか。

だからこそ思い入れが強かった。
里見に「束縛」と感じられるほどの傾注となった。

さらに恋愛感情として表現できない感情は、「腐れ縁」としてがんじがらめにふたりを縛り付ける。
志賀の束縛と自身の感情との軋轢で里見は疲れ切り、八重の件でのトラウマの苦しみも加わって、もはやその関係は彼には支えきれなくなっていった

見方によっては「暗夜行路」「暗夜行路草稿」に登場する女性「登喜子」も、謙作(志賀)が彼女に恋心を感じるのは、里見への感情の裏返しであるとも取れる。

その日、志賀は里見の「腐合いと蝉脱」を読んで、イリュージョンを揺さぶられていた。イリュージョンと自分の一部である里見を失う不安と怒りを感じた志賀は、失われそうな一部を埋め合わせてくれるものを求めて、その日出会った登喜子に甘いときめきを感じたのではないか。

志賀は「その数年間、恋をするつもりは失われていた」としている。それは里見の存在によって満たされていたからではないか。
登喜子への感情は、里見への怒りが落ち着くにつれて薄らいでしまう。

志賀はおよそ15年後、登喜子と再会したときのことを短編にするが、この話も里見が登場する。まるで志賀にとって、登喜子への思いは里見とセットであるかのようだ。


もちろん志賀の感情は、本人の発言が残されていない以上、推測でしかない。だが両者に恋愛感情があったと考えるなら、このようにさまざまな説明がついてしまうのである。


ふたりに恋愛感情はあった。
しかし、外形的な「恋愛関係」にはならなかった。
そう考えるのがもっとも妥当ではないか。

たとえば時代が違って、それを恋愛感情として表現できたとしたら、ふたりはどうなっていたのだろうか。
志賀の文学観や里見のトラウマなどの問題もあるので、やはり何かしらの相克はあったかもしれない。だが無理矢理にひとつの枠におしこめなくてすめば、志賀の束縛もそれほど厳しくはならなかったかもしれず、里見もまた違う向き合いかたをできていたのかもしれない。

歴史にifはない。
わからないことだが、しかし、うまくバランスを取れたならふたりがどうなっていたか、考えるヒントがある。

絶縁からのその後のふたりの様子だ。

次回、ふたりがどうなったかを見届けよう。
最終回です。
 
 
 
〈参考文献〉

  • ゲイリー・P・リューブ 藤田真利子訳『男色の日本史 なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』作品社,2014

  • 辻本侑生「いかにして「男性同性愛」は「当たり前」でなくなったのか――近現代鹿児島の事例分析――」『現代民俗学研究』第12号,2020

  • 前川直哉『男の絆 明治の学生からボーイズ・ラブまで』筑摩書房,2011

  • 前川直哉「明治期における学生男色イメージの変容女学生の登場に注目して」https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282680373249920 

  • 前川直哉「近代日本の男子学生と「男色」 : 1900年代の変容を中心に(IV-1部会 ジェンダーと教育,研究発表IV,日本教育社会学会第58回大会)」https://cir.nii.ac.jp/crid/1543950420045946496

  • 礫川全次編『歴史民俗学資料叢書第2期第3巻 男色の民俗学』批評社,2003

  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?