志賀直哉×里見弴×暗夜行路⑬
暗夜行路 後
里見の特別さとは何だったのか
ドンキホーテは志賀、サンチョパンザは里見とおぼしきこの小文だが、注目したい箇所がある。
サンチョパンザが「同伴者」とされているのだ。
サンチョ・パンサは、通常「従者」などと翻訳され、ドン・キホーテより格下として扱われることが多いので、より対等な「同伴者」という表記は珍しい。
実際、スペイン語のウィキペディアでは「escudero」、英語のウィキペディアでは「squire」とされ、どちらも「従者・盾持ち」の意味だ。
同文中にも「家来」という表記があるので、志賀も正確に認識していたものと思われる。
ついでに、明治時代にサンチョを「同伴者」と呼ぶ習慣があったのか、当時の翻訳などを簡単に調べてみると、
従者(『鈍機翁冒険譚』/松居松葉抄訳/博文館/明26)
属従(『露西亜文学研究』/昇曙夢/隆文館/明40)
家来(『ドン・キホーテ物語』/佐々木邦訳/内外出版協会/明42)
家来(『ドン・キホーテ物語』/近藤敏三郎訳/精華堂/明43)
侍士(『ドン・キホーテ』/島村抱月、片上伸共訳/植竹書院/大正4)
いずれもドン・キホーテの家来、従者と訳されている。
「同伴者」という語は、一般的にサンチョ・パンサの説明として使われていたものではないし、原語や英訳から来たわけでもないと考えてよさそうだ。
すなわち志賀がこの文中で意図的に選択した定義なのではないか。
では、なぜ志賀はあえてこの言葉を選択したのか。
素直に考えれば、志賀が里見に対して持っていた認識を反映している。そういうことになるだろう。
この当時、志賀は、里見を自分の文学上の同伴者、つまり文学的パートナーだと見なしていたのではないだろうか。
「君と私と」に次のようなくだりがある。
吉田精一は『志賀直哉研究』で、雑誌白樺に注目が集まったポイントをあげている。
当時めったに見られなかった西洋美術の写真、武者小路の明るい思想、そして作品としての充実は、志賀にあったという。
志賀と里見は、白樺の作家のなかでも文学的傾向が似通っていた。
のみならず、実力の点でもこのふたりが注目されており、特に志賀が最も優れていると考えられていたことが読み取れる。
里見の書簡を再度ながめてみよう。
悲痛な訴えである。かみくだけば、こういうことだろう。
志賀は里見を文学的に育ててきた。なおも育てるつもりでいる。
それは志賀が里見の上に抱いているなんらかの「空想」とつながっており、里見への好意と結びついている。
それがあるかぎり里見は、志賀という「老いたる母」にしばられ、自由になれない。毒のようなものだ。
ひとりにしてほしい。自分の望む文学を学んでいきたい。
たとえひとりになって滅んでも、志賀の見込み違いということにはなるまいから……。
この志賀の「空想」が、「文学的パートナー」だったのではないだろうか。
志賀は里見を見込んで、自分の文学を教え込んできた。
志賀の「ゴー慢」は、他者とパートナーになろうとはしない。
志賀とともにあるパートナーは、当然のように、志賀と同じ文学観を持っていなければなるまい。
「「君と私と」の私に」のこのくだりを思いだしてみよう。
ふたりはそれぞれ別人だが、そのものの考え方はある程度――おそらく志賀が許容できる程度――までは一致していたはずだ、と志賀は言っているわけで、それこそが志賀の考える「パートナー」のありようだったのではないか。
これが志賀の「空想」であり、里見を苦しめる束縛の原因だった。
里見は志賀のつくりあげた世界のなかで創作しなければならなかった。そこからはみ出る着想を持つことは、志賀への裏切りだっただろう。だが、それでは「里見弴」の創作はできない。
里見が一方的に志賀に劣等感を持ち、そこから逃れようとしたというのが現在の一般的な解釈だが、志賀側から強い束縛があったことを見落としている。
年齢などからくる劣等感はあったにせよ、当時、里見が志賀との間に絶対的な才能の差を感じる状況ではなかったことは以前にも検証した。
むしろ劣等感はまず、志賀の束縛をはねのけられずに従ってしまうという方向に作用したのではないか。そして次に、自己の確立のために志賀をはねのけようとした。
志賀の思い入れによる干渉を見落としてしまうと、里見が何にあらがおうとしたのか、関係の理解が不充分になる。
問題は志賀の「空想」だった。
「空想」。
すなわち「重すぎるイリュージョン」ではないだろうか。
志賀の「重すぎるイリュージョン」が、里見の書く「君の空想」であったならどうか。
重すぎるイリュージョンの全体像は、志賀と里見ふたりで文学的パートナーとして共に生き、共に創作をしていくことだったのではないか。
だとすると、「腐合いと先達」「君と私と」への怒りがクリアになる。
「草稿」「モデルの不服」「「君と私と」の私に」「正誤」で示された志賀の怒りは、いくつかの要素が複雑に混ざり合っており、把握しづらかったが、だとすればバラバラだった要素が一本の線でつながる。
志賀に嘘をついていたと伝えること。
志賀の理想と食い違う作品を書くこと。
それは宣言だった。
「自分は志賀の思っているような人間ではない。志賀と違う文学を求めつつある。志賀のイリュージョンを受け入れることはできない」。
志賀のパートナーであることを辞し、なにもかもから自由になって新しい自分を作り始めようという宣言だ。
「サンチョパンザの別れの演説」と一致する。
この小話でのドン・キホーテは、余裕を見せてサンチョ・パンサをクビにしたようだ。サンチョは損をした、などと揶揄するような一行で締めくくってさえいる。
だが現実の志賀直哉は、里見を「クビ」にはできなかった。
激怒し、がみがみと小言を言い続け、里見の体調を崩させて、しかしやり直そうと言った。
「二人で一人」
志賀のこの束縛は、他者をうけれられない「ゴー慢」さ、引いては「二人で一人のような存在」という理想を描いた狷介さとつながっているだろう。
里見の「君と私と」に、志賀が兵役にとられるくだりがある。
里見はその日、志賀と一緒に電車に乗り、兵営までともに行って入営の見送りをする。
その心は不安に満ちていた。
里見は、自分たちの関係を「君(志賀)にとって、いつ何時でもなげうつことの出来るもの」としているが、実際には志賀にはできなかったことは、ここまで見てきたとおりだ。
志賀はのちに、「暗夜行路草稿」のなかでこう書いた。
大胆な推測をしてしまえば、志賀は、祖母とのあいだにあったような「二人で一人のような存在」を、里見とのあいだで実現したかったのではないだろうか。
だから二人の関係は、境界線のない共依存的なところまで落込んでいき、「腐れ縁」や「耽溺」などの自分たちですら自分たちを制御できない状態になっていったのではないか。
パートナーであろうとしたことが問題だったのではなく、パートナーに対して同質な存在であることを求めたことがこじれ始めた原因だっただろう。
5歳年下の里見がまだ若く、少年に近かったあいだは、疑問を抱くこともなかったのかもしれない。
あるいは、PTSDにより自己嫌悪に苦しんでいた里見が、その苦しみを埋めてくれる相手として、志賀の強さに依存した側面もあるのかも知れない。
しかし、傷は癒えるし、少年は青年になる。
そのうえ、里見は従順に言いなりになるタイプでもなかった。
実兄で造園家だった佐藤隆三は、里見を「放胆な性格」と評しており、子どものころから明るく、怖い物知らずで気ままだったようすを書き残している。
隆三が書いているエピソードのひとつを紹介しよう。
里見は吉原で、口入れ屋の親方にからまれたことがあった。
そのとき顔色ひとつ変えずに、持っていたステッキを相手の押している自転車のスポークに突っ込んだのだという。
スポークがばきばきと折れ、当然親方は激昂したが、里見の方は平然としたものだ。怒号を柳に風と聞き流し、しまいに疲れた親方は引き下がってしまった――そんな逸話が当時は知られていたらしい。
明るくて機転が利き、肝の据わった気ままな性格となれば、誰か一人にしばりつけておく方が難しいだろう。
実際に里見は非常にモテるタイプで、学習院でも男子学生たちからモテていた。結婚していても女性の恋人が途切れなかった。妻も妾もいて、他に恋人もいた。それでも女性たちは受け入れていたようなので、ひとりにつかまえておくのは難しいタイプだったのだろう。
志賀としては、理想がかないやすそうな、大人しく依存的なタイプを選べばよさそうなものなのに、わざわざ難しいチョイスをしてしまったわけだ。
言うなりになる相手がほしかったのではないだろう。
里見が手紙で書いているとおり、それは「好意」とつながっていた。
だからこそ、志賀は里見が他者性を明らかにしても、里見を切り捨てられず、共存ができないか模索し続けたのではないか。
すこし先の話になるが、二人は復縁し、生涯親友であり続けた。
志賀は「正誤」に、「より安全な、より完全な友達として蘇った」と記している。
ふたりが深い理解と友情を互いに抱いていたことは間違いない。だからこそそのうえに、志賀のイリュージョンも育ってしまったのだろう。
見方によっては、その関係は「源氏物語」の若紫と源氏の君にも似ているかもしれない。
志賀の「暗夜」とは
「暗夜行路」の阪口の話に戻ろう。
前編で一度退場したかに見える阪口は、後半でちらりとその影を見せる。そのあたりから再び物語は不穏な気配を漂わせるようになり、やがて妻の不貞の事実が判明する。
謙作は妻を許そうと考えるが、無意識では許すことができず、夫婦は苦しむ。謙作は鳥取県の大山に向かい、自身を見つめ直そうとする。
その山中で一夜を過ごした謙作は、忘れがたい体験をする。
ここから夜明けの描写は、日本近代文学史上、屈指の名文として知られているので、よろしければ実際に手に取ってみていただきたい。
このあと下山した謙作は高熱を発し、危篤の床につくことになる。連絡を受けた妻は謙作のもとに駆けつけ、謙作とともに生きていくと心に誓った。
そして長い物語は幕を閉じる。
「暗夜行路草稿」に手をつけたのが大正元年(1912年)。
前編を発表してからまた長い中断をはさんで、最後の章が発表されたのが昭和12年(1937年)。
実に25年をかけた完成だった。
実は、ここに紹介した最終章のエピソードも、事実を下敷きにしている。
大正3年。
志賀と里見がふたりで松江に滞在し、初めて里見が志賀の手を振り払ったことは先に触れた。
その後、里見が実姉の療養に付き添うために帰ってしまうのだが、しばらく志賀は松江にとどまり、「暗夜行路」の原稿を書きあぐねていた。
このとき志賀は大山へ向かい、このクライマックスの体験をしたという。「自分はゴー慢だった」の草稿はこのあとに書かれている。
志賀に大きな影響を及ぼしたと言われるできごとだ。
ここまで検討してきたことを踏まえて考えれば、この場面で謙作は(そして大正3年の志賀は)初めて他者との共存を体験したと言える。
「目に見えない自然」は、宇宙をつくる生命のエネルギーを意味し、「神」のことでもあるだろう。
彼は生命エネルギーの海に溶け込みながら、こだわってきた「自我」がちっぽけなものだったと悟る。溶け込んでしまいながらも、彼は消されることはなく、ただありのままの彼であり続けた。
他者を受け入れる=自分を消す、ではなかったのだ。
この経験のあと、志賀は「自分はゴー慢だった」の文を書いた。結婚を決め、武者小路への拒絶を解き、父との和解の土台にもなったはずだ。
そして「暗夜行路」の作中では、謙作は、どうしても受け入れられなかった妻直子の他者性を受け入れられた。
これらを踏まえ、「暗夜行路」を大正元年から3年を抽象化し、昇華させたものとして現実の出来事を重ねてみると、志賀の苦闘がどのようなものだったか、推測してみよう。
明治40年ごろから、より自我を強固に育てようとしていた志賀は、異質なものを排除し、精神的に徐々に孤立しつつあった。
しかし大正元年以降、里見の「腐合いと蝉脱」「君と私と」によって、自分の狷介さを突きつけられて、志賀は自己と文学観の見直しを迫られる。
なぜ自分は孤独になってしまうのか。
自我と自我とは相容れないものなのか。
それでも共にいたいなら、いったいどうすべきなのか。
そこから数年間、ふたりは近づき、また離れ、また近づきながら、相手を侵蝕しない正しいありかたを模索した。
しかし、志賀は、そんな里見を認め、応援する気持ちと同時に、離れて自立しようとする里見を許せない感情もわだかまっていた。
ついに松江で里見から振り払われた志賀は、里見が本当に自分の足で立ったことを理解する。
そんなおり、立ち寄った大山で、自分より大きなものを認め、受け入れて、調和する自我のありかたを体験する。
このことが、志賀に過去の自分の「ゴー慢」に気付かせ、新しいありかたのヒントを与えることになった。
しかしもちろんすべてが一気に片付いたわけではないだろう。
志賀はあたらしい文学観を確立するために3年の苦闘を要した。志賀は大正3年4月から新作を発表せずに「暗夜行路」の著作に傾注し、書くことができずにそのまま休筆した。
大正6年に発表された「小品五つ」のなかの「宿かりの死」という短編は、より大きな生物に憧れて大きな殻に引っ越し、身体を肥大させ続けたヤドカリが、その虚しさを悟って殻を捨て、生身の苦痛に耐えながら歩き出し……という物語だ。
生身の痛みに耐えて這い続ける休筆は、大正6年まで続いた。
その過程で自分を置いていった里見への怒りを爆発させもし、それが「汝穢らわしき者よ」のハガキになる。
しかし足かけ8年の絶縁は、ほんとうに二人が別々の人間となるためには必要な、最後の痛みだったのかもしれない。
「暗夜行路」にまつわるメモのなかに、クライマックスにかかわるものがある。
それによると、謙作は妻に裏切られて病の床に就き、坂口が駆けつけて謙作と手を取り合い、謙作を看病するという結びも考えていたようだ。
このラスト、実際の「暗夜行路」と比較してみると、
「謙作が病の床に就く」
という共通点に気がつく。どちらの終幕も、謙作は病の床に就き、看病を要している。
違いは、謙作のもとに駆けつける人物だ。
「草稿」のアイデアでは坂口。
完成稿では妻だ。
「暗夜行路」の最後で、謙作のもとに駆けつけるのが妻なのはなぜか。
もちろん、謙作とともに生きるべき人間が彼女だからだ。
この最後の段落では、それまでずっと謙作視点で語られてきたものが、妻直子の視点に切り替わっていることが指摘されている。
なぜか。謙作の一部だった妻が、謙作とは別個、そして対等の存在になったからだという解釈がある。大山の経験で、妻の他者性を受け入れられるようになり、妻は謙作の一部にならなくても共に生きられるようになったのかもしれない。
そしてその前には、駆けつけてくるのは、坂口だったのだ。
「暗夜行路」は完成に25年かかった。
その25年の間に、謙作――志賀とともに生きる存在は、康子夫人になった。
しかしはるか若い日、25年前の志賀にとって、その位置にいたのは里見だったのかもしれない。文学上のパートナーである里見と、たとえ異質な自我を抱えていようと、ともに生きるためのただしいありかたを、志賀は探し求めていたのではないか。
最後に謙作とともにある人物の変化は、そのことを意味しているのかもしれない。
だとすれば、「和解」の謎も解ける。
「和解」とは、大正6年、父と和解してその喜びを一気に書き上げたとされる私小説だ。
「和解」は名作とたたえられる一方で、「何となく和解してしまうので、父との対立と和解の理由が分らない」という批判もある。
苦闘し、成長した結果、志賀が他者との共存を肯定できるようになり、大正元年ころの緊張状態を乗り越えたなら、父と和解できるのも当然、ということになる。
武者小路との復縁も同様だ。
異質であることの肯定的な面を見られるようになったのは、その数年の苦闘があってこそだろう。
推測ながら、生馬に対しても、父や武者小路との「和解」が念頭にあり、回復できるのではないかという気持ちがあったために、中途半端な付き合いが続いたのではないだろうか。しかし、社会的地位にこだわる生馬との価値観の相違は、志賀にとって許容できるものではなかったのだろう。
「暗夜行路」でも「和解」でも、志賀の父は、父そのものというよりも他者の象徴として機能していたのではないだろうか。
その背後に里見の存在は隠されている。
しかし、「暗夜行路」を牽引し、動力となったのは里見弴だろう。
里見が志賀に与えた影響は、もっと見直され、研究されてもいいのではないかと思うのである。
さて、ここまで二人の間の腐れ縁と束縛、「重すぎるイリュージョン」のようすを見てきた。
果たして、ふたりの桎梏に恋愛感情は含まれていたのだろうか?
いよいよ検討する準備が整った。
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