見出し画像

志賀直哉×里見弴×暗夜行路③


ふたりの関係を知るための資料を確認しておこう。



志賀直哉、里見弴とも、相手について言及した作品は数多い。
志賀の場合、「児を盗む話」のように、初出時は里見についての言及があったものが、単行本などに収録される際に削除されていることもある。それらは入れていない。

里見弴
 ・腐合いと蝉脱(現存せず)
 ・君と私と
 ・善心悪心
 ・世界一
 ・或る年の初夏に
 ・幸福人
 ・春の水温むが如く

志賀直哉
 ・モデルの不服
 ・廿代一面
 ・暗夜行路草稿
 ・暗夜行路
 ・正誤

があり、そのほかに書簡や日記、未発表の原稿などがある。

作品と発表時期、作品内で扱われている期間を下図に示す。
中央の青い縦線が年代。
左右に色分けして引いてある短い縦線が、各作品の対応時期である。

作品数も多く、今すぐに把握できるものでもないので、今は飛ばしていただいて大丈夫である。今後混乱しそうになったときなどにご参照いただきたい。





ここで早々に、うわさの誤りがひとつ明らかになる。



うわさというのは、第1回で紹介したこの噂だ。

里見は志賀のお稚児さんだったが、里見がそれを作品に書いたために、激怒した志賀から絶縁された」。

このうわさにまつわってよく引用されるのが、大正2年の『君と私と』の一節だ。ふたりがこの作品のためケンカしたのは事実だが、実は絶縁には至っていないのだ。
志賀が腹を立てたことがわかっている作品は三つある。
「腐合いと蝉脱」
「君と私と」
「善心悪心」

見比べ表を掲示する。


表の最下段がうわさの内容だ。
上段と比べていただくとわかるが、条件を満たす作品はない。

世間でよく言われる絶縁は、大正5年~12年の『善心悪心』の絶縁だ。
うわさが指しているのもこれだと思われる。
つまり、うわさでは「君と私と」「善心悪心」が混同されているのだろうと思われる。

しかし、見取り図を見ていただくと、そんなものは些細な食い違いであることに気付かれるだろう。
里見はかなりのこだわりを持って志賀との関係を書き続けている。
これだけ書き続ければ、多少の混同が生じるのも無理はない。

なぜ里見は志賀との関係を作品にし続けたのか。
そしてなぜ志賀が怒ったのか。
そもそもどうして里見はケンカに至るような作品を繰り返し書いたのか。




里見にとって、志賀との関係はそれほど整理をつけなければならないものだった。


イメージとは逆に、相手から離れようとしていたのは里見の方だった。
里見には、人間としても作家としても、成長するために志賀から自立する必要があった。「善心悪心」には、精神的に志賀から殺される前に志賀を殺してしまおう、という考えにとりつかれたことも書かれている

後年、里見はこう語った。

志賀の束縛というか何というか、

あいつに掴まって
「来い」と言って引っぱられると
腕力的にも叶わないしね。

学生ことばでいう所の
牛耳られるというそういう形だったからね。   

石原亨『里見弴の語る大正・昭和文壇うらばなし』文芸社,2018


「牛耳る」は「デジタル大辞泉」によれば、団体や組織を支配し、思いのままに動かすという意味だが、ここで「学生ことば」と断られているところを見ると、当時の若者語として、対個人にも使われていたのかもしれない。
つまり、志賀から支配され、思いのままに動かされていた、ということだろう。


また、大正2年、志賀と「君と私と」でケンカをした三ヶ月後に、里見は大阪へ転居しているが、そのときのことをこう話している。(太字は引用者)

氏(※里見)は わたくし(※村松定孝)が

「(…)先生(※里見)が大阪へ逃れられたのは、
どうした事情からだったのでしょうか」

とたずねたのに対し、
即座に次のように答えられたのであった。

「それは、その、つまりは、
まあ志賀から逃れるためだったんです。
なんしろ、毎晩のように志賀が
僕を外へ誘い出しに来るんだ。(…)」

村松定孝『近代日本文学の系譜』社会思想研究会出版部1956、177

のちにあらためて検討するが、これだけが大阪行きの理由ではないだろう。だとしても、ともかく里見の中にこういう意識があったことも事実だと思われる。

精神的に殺されるというほどの「束縛」とは何か、どうして志賀からそこまでして逃げなくてはならなかったか、知るために、まずはふたりの関係をザッと見ていこう。





ふたりの出会い


志賀直哉は1883年(明治16年)2月20日、宮城県石巻で生まれた。
地縁があったわけではなく、父の仕事で赴任していた折りのことだったから、二歳のころには東京に移り、そののちは東京で育った。

家は士族で、祖父は二宮尊徳に学び、陸奥相馬藩の家令をつとめた。明治に起きたお家騒動「相馬事件」を検索すると、祖父の名を見ることができる。お家騒動に巻き込まれ、このころは志賀家も大変だったようだ。

志賀との対立で知られている父は、山岡鉄舟に剣術を学び、志賀家を裕福な資産家へ押し上げた有能な実業家でもあった。
志賀には誕生前に早世した兄がいたため、次男ながら跡取りとして誕生し、祖父母の溺愛を受けて育った。


里見弴の本名は山内英夫。
1888年(明治21年)7月14日、有島家の六番目の子として生まれた。
名字が有島でないのは、誕生直前に母方の叔父が早世したためだ。

山内は母の実家の姓で、岩手県南部藩につかえる士族だった。
母は、明治維新に際して城が落とされたときは、城主の奥方を守りながら長刀を手に落ち延びたという女丈夫である。

山内家は、母の弟が継いでいた。
しかし跡継ぎのない状態で病に倒れてしまう。
そのため、その三日後に生まれた姉の子、すなわち里見が、山内家の養子となってあとを継ぐことになったのだ。
なお、里見のひとつ上の兄も、父方の祖母の実家を継いで「佐藤」と名乗っている。
しかし、里見は有島家でほかの兄弟と変わりなく育てられた。山内の祖母も同居し、里見を溺愛したという。


生まれたのは横浜だが、やはり地縁があったわけではない。大蔵省の官僚だった父が、横浜税関長を務めていたからだった。横浜税関のホームページでは、歴代税関長のなかでも名の残る数人の一人として顕彰されている。

父は、薩摩藩の士族だった。
幼少期に父親(里見から見ると祖父)が「平佐崩れ」というお家騒動に巻き込まれて島流しになったために大変苦労しながらも成功を収めた、立身出世の手本のような人物である。

里見が六歳の頃、父は大蔵大臣と意見が衝突して辞任。
一家は鎌倉の別荘に移り、約一年半そこで暮らした。
里見によれば、別荘と言っても百姓家だったそうで、決して豊かな暮らしではなかったようだ。

父は実業家に転身し、有島家を資産家へと育て上げて、ふたたび東京へ戻る。

白樺派のひとり長与善郎によると、有島家と志賀家は、良家の子女がつどった白樺の仲間のなかでもツートップの資産家だったという。
明治になり、平民になった武士は、多くが経済にうといために没落している。その中で才覚を発揮し、成功をおさめた志賀・有島のふたりの父は、実に傑物だったと言っていいのではないだろうか。
東京へ戻ったとき、里見は七歳だった。
数えなので、今だと六歳くらいだったかもしれない。

さて、なぜ長々と生い立ちを語ったか。
実は、もうこのあと志賀と里見が出会うからである。

仲のいい文学者たちのエピソードは多いが、そのなかでも出会いの時期としてはかなり早いほうではなかろうか。
初めて顔を合わせたとき、志賀は十二歳、里見が七歳(数え)だった。
例えば志賀と武者小路が出会ったのが志賀十九歳、武者小路十七歳の学生時代である。それと比べてもだいぶ早いことがわかる。

東京に戻った次兄・生馬は学習院に編入した。
そのクラスメイトだったのが志賀だ。二人は、両者の少年期を通して最大の親友同士になる

ちなみに志賀は、出会って二、三年ほどは生馬に恋心を持っていたと書いている。十五歳で後輩の美少年に恋をしたというので、そのあたりまでは生馬に淡い恋心を抱いていたのかもしれない。

それはともかく、志賀は友人たちと有島家に遊びに来るようになり、そうして里見と会った。
志賀によれば、七つの里見は赤いねんねこばんてんを着せられ、その裾をずるずる引きずりながら、ちょこちょこ出てきたのだそうだ。

年少だった里見のほうは、当時の志賀についての記憶はないらしい。
今で言えば小学校低学年だから、中学校に通う年齢の兄たちの遊びに入れてもらえるわけはなく、家族の会話に出てくる志賀の話を聞き覚えていたくらいだったようだ。



里見が実際に志賀と関わるようになるのは、十二歳くらいになってからだ。


生馬が友人たちとの遊びに連れて行くなどしていたようだ。
この時期のふたりは「親友の弟」「兄の親友」というポジションだった。

  • 皆で野球をした帰りに、里見が寝込みそうになり、志賀がおぶって連れ帰ってくれる。「おかげで背中があったかかった」と笑って言う。

  • 志賀が里見に自転車や鉄棒を教える

  • 多摩川べりでテントをはって野宿する

  • 夏休みに一緒に旅行する

などの微笑ましいエピソードが残っている。
ふたりの関係を軸に見ていった場合、第1期と呼びたい時期だ。

前々回の記事で紹介した志賀への恋愛感情は、この時期のことだ。
夏、鎌倉の別荘で、生馬の友人たちが川に飛び込んで遊んでいた。そのなかで志賀が一番うまいと思って感心した、とも里見は書いている。

志賀は運動全般が得意だった。
里見はそこに憧れを感じていたのだろう。
ちなみに、志賀は『大津順吉』の草稿で、「自分は気になった美少年には自分を好きにさせることができた。運動が得意で、運動場で目立てれば振り向かせることができた」という趣旨のことを書いている。
「運動が得意だとモテる」という志賀のカンは正しかったようだ。




だが、当時の恋愛感情についてはどこまでのものだったのか、多少疑問がある。


この時期、それぞれ「恋」と言えるものを、ふたりとも経験している。
相手は異性もあったし同性のこともあった。同年配の少女へのほのかな初恋や、同性から想い、想われるなどしている。

志賀と里見は同じ少年を好きだった。
里見の一学年下の安井くん(仮名)という美少年だ。
彼には恋人がいたようで、里見は告白すらせず、「遠くで小娘のように」見つめているだけだったようだが、志賀はそんなことはしない。
のちに恋人からうばって交際を始めているのはさすがと言おうか

里見によれば、このころの日記に志賀の名はないという。
また、少し成長した志賀が難しい話ばかりするようになったため、つまらなくなって嫌いになったとも書いている。

ここから、この時期の里見の感情は、恋と言うより「スポーツ万能のかっこいいお兄さん」への憧れだったのではないかと思われる。

だとすると、なぜこのエピソードを『君と私と』の冒頭近くに配したのか。
実はこの「意味」のほうが重要だと考えられる。
これものちほど検討しなくてはならないポイントだ。



明治三十八年ころからを、第二期としたい。


里見は十七歳、志賀二十二歳。

志賀二十二歳というと、普通は大学生か、もう就職して働いている年だ。
ここで説明しておくと、当時の学習院は、

  • 初等部6年  (現在でいうと小学校)

  • 中等部6年  (現在でいうと中学・高校)

  • 高等部3年  (現在でいうと大学)

高等部のあとは、希望すれば無試験で帝國大学へ入学できる。
学習院の特権である。

志賀はもう学習院を出て帝國大学に通っていてもおかしくない年齢だが、中等部で二年留年していたので、当時は高等科にいた。
成績が悪かったのではなく、授業中にじっとしていないなど素行点が悪かったという。二学年下の武者小路実篤や木下利玄らとクラスメイトになり、親しくなったのはこのためだ。

さて、なぜこの年から第2期としたいかというと、この年、生馬が欧州留学に旅立ったからである
身体を壊して学習院をやめた生馬は、療養ののち画家になることを志し、本場ヨーロッパで学ぶことになった。

里見は幼い頃から、生馬にずいぶん懐いていた。
長兄である有島武郎は十歳年上で、里見が物心つくころには学習院に入学して寄宿舎で暮らしており、休みの日に帰宅するくらいだったので、里見の幼少期に兄弟を取り仕切っていたのはガキ大将の生馬だった。
生馬も、里見をずいぶんかわいがっていたようだ。

一番頼りにしていた次兄が欧州に行ってしまうということで、里見は心細さに泣くこともあった。里見は度胸のあるタイプだが、感情が豊かで涙もろい側面もあり、嬉しいにつけ悲しいにつけよく落涙する。

心配した生馬は、友人に、自分が留守のあいだ、里見の面倒を見てやる後見人役を依頼した
頼まれた一人が志賀だ。

ここから、志賀と里見の関係は、生馬抜きに直接成立するようになる
里見にとって、志賀はなついていた兄・生馬の代わりだったが、やがて生馬以上の存在になっていった。
志賀も、ノートにこのように書くようになる。

余は山内と話すときは
如何な理屈をいう場合でも
心の開くような心持がする。

志賀直哉「手帳9」『志賀直哉全集補巻五 手帳・ノート1』岩波書店,2002


まだ筆名を名乗っていないので、このころは本名で呼んでいる。生馬宛の手紙などでは「英夫くん」「英坊主」などとも書いている。
志賀にとっても、里見は心をひらける相手になっていったのだろう。

のちに武者小路実篤は、志賀と里見には兄弟のようなところがあったと書いているが、そのような関係になっていったのがこの時期だと言えよう。




第3期は、明治41年からとしたい。



この年、志賀、里見、木下利玄は関西を巡る徒歩旅行に出発した。
四国の大名の家系の木下は、途中から藩の用事のために抜けた。あとは志賀と里見の二人で旅している。
旅中、志賀と里見の関係に変化が起る

それまでの志賀にとって、里見は、年より小さく感じられていたのではないか、と思うのである。
里見は小柄で、身長が百五十三センチほどだった。
知人女性によれば、「小さいがみっともなくはない」そうなので、おそらく小顔でスタイルは良かったのだろうが、当時の成人男性の平均身長が百六十センチだから、やはり小さい。
今の平均身長で勘案すると、百六十三センチ前後の感覚だろうか。

その上、初対面がねんねこばんてんだ。
ねんねこばんてん世代ではないのでピンと来ないが、ねんねこばんてんを使われるのは乳幼児だ。七歳の子が着せられるものではない。
里見によれば、おそらく当時大病をしたためその病み上がりだったのだろうというが、いずれにしても志賀にしてみれば相当に「ちびっ子」という印象になっただろうことは想像に難くない。

親友の弟でもある。

こう考えていくと、志賀にとって、里見は実際以上に幼く見えていたのではないだろうか。
寝込みそうになった里見をおんぶして送ってやったというエピソードも、そのころ里見は十五歳。今で言えば中三~高一くらいなので、そんなことをしてもらう年ではないと恥ずかしかったという。志賀がおぶってやろうと思いついたのも、里見が年齢より幼く見えていたためかもしれない。

しかし、この旅行で二十歳になった里見と旅行をともにするうちに、形勢が変わる。
志賀は、思っていたより里見が大人になっており、しっかりしていることに気付いたらしい。この旅行から扱いが対等になり、以前より距離が近づいた、と里見は書いている。

ところで、大阪で鳥鍋屋に入った二人は、男女が逢い引きするのに使われるような部屋に通されてしまったそうだ。
二十五歳の志賀と、学生で年より若く見える里見の二人連れは、男色のカップルに見えたのだろうか。

それから二年後、明治43年に、志賀と里見の放蕩が始まった。
ふたりはさらに距離を縮めていく。
志賀の日記を検証していくと、この年、志賀が最もよく会った相手は里見だ。しかし放蕩のために酒の量も増え、生活は崩れていく。

「腐れ縁」と呼んでいた引力もますます強くなっていった
ふたりは、週に2、3日というペースで、離れることができずにふたりで夜更けの町を歩き続けたり、志賀が「泊まりに来い」と力任せに里見を自宅へ連れて行くなど、先の見えない行為を繰り返し続けた。

さらに里見が苦しんだ理由として、志賀についていた「嘘」があった
ある女性に関することで、里見は志賀に事実を話せず、適当な話でごまかしてしまっていたのだ。その罪悪感もあった。女性のことも里見を苦しめていた。

この時期、里見の苦しみは日を追うごとに増していく。
帰宅しない里見や、息子を連れ回す志賀に対して、有島家の目も厳しくなっていった。
帰国した生馬と志賀は、里見のことで口論までするようになる。
この時期から、固い友情で結ばれていた志賀と生馬のあいだにはヒビが入り始める。

明治45年、ついに里見は、志賀との関係を問い直す作品群に着手した。
そして、志賀との激しい争いが始まるのである

ここまで、ザッと明治45年までのふたりの関係の外形をなぞってきた。
次回は、里見が問おうとしたものはなにかを検証したい。
ここから、単純な噂だけではわからない、ふたりの関係に踏み込んでいくことになる。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?