見出し画像

志賀直哉×里見弴×暗夜行路①

※こちらは、詳しい内容を知りたいかたや、考察したいかた向けの内容です。
ちょっと読みたい方向けには、こちらの記事を用意していますので、よろしければどうぞ。
 




文豪ブームをご存知だろうか


ちかごろ、「文豪」の登場するコンテンツが花盛りである。

なにしろ、タイトルに「文豪」が含まれている創作作品だけでも、

  • 『文豪ストレイドッグス』

  • 『文豪失格』

  • 『文豪とアルケミスト』

  • 『めぞん文豪』

 など、複数あげることができる。

上記の作品群は主に漫画・ゲームだが、さらに「文豪」をタイトルに含まない作品やメディアミックスも加えれば、小説・アニメ・映画・舞台・ドラマCDなど、幅広いメディアで多くの作品が発表されている。

これらの作品では、文学作品よりも、執筆した作家本人の個性に重点が置かれているのが特徴だ。
それも、伝記的なアプローチよりも、その破天荒なエピソードや、代表的作品のイメージを強調してキャラクター化するというアプローチがとられている。

必ずしも、教科書で見かけるような著名作家や大作家である必要はなく、近・現代作家全体をひっくるめてゆる~く「文豪」と称しているようである。

読者は、個性的なキャラクターと、彼らによるコメディ、バトル、アクション、謎解き、青春ドラマなどのストーリーを楽しむ。ベースとなった作家や作品への入り口にもなっている。
自己に忠実に生きた作家たちは、現代人から見ると、人間らしく、野性的な自由を感じさせてくれる魅力的な存在なのかもしれない。 

ブームがあれば便乗もある。
昨今、文豪にまつわるネタ本や、マニアックな作家・作品を編んだアンソロジーの出版も相次いでいる。

で、この記事である。
文豪ブームに便乗させていただこうと、ちゃっかり書いている。
あなたはご存知だろうか。
かつて文壇でよく知られており、文学史上の大事件とすら呼ばれていながら、今では忘れられがちな事件があることを……。

というわけで、この記事は、以下のような方におススメです。

  • 「文豪」に興味があって、新しいエピソードを仕入れたい方

  • 「文豪」好きな彼女やお子さんの興味を引きたい方

  • 飲みの席で新ネタをドヤ顔で披露したい方

  • クソデカ感情が好きな方

  • うわさに惑わされることなく、本当のところを詳しく知りたい方


ここで文豪クイズ!!(銅鑼)


以下の文章を読んで、誰が誰のことを書いている文章かわかるだろうか。わかれば、その人はなかなかの〝通〟である。

それでは行きますよ。

その時 私は
君が見て居るんだから
うまくやろう と思った。

それは確かに覚えて居るが、それが
運動ごとの何んでも得意だった君の
賛詞を得ようがためであったか、

或は君に対して
男同士の恋を感じていたためであったかは
はっきりしない。

(中略)

然し君が泊まって居た二日とか三日とかの
短い間だけでも、君に
惚れて(言葉は可笑しいが)
居たのかも知れない。

???

どうだろう。
男性が男性に対する恋心について語っている文章のようだが、誰が誰への思いを綴ったものか、おわかりになっただろうか。
ヒントは、この記事のタイトルだ。

タイトルを見るともはや出オチなので、さくさく進めよう。

答え


まず「君」は、志賀直哉である
知っている人も多いだろう。明治生まれの小説家で、おもに大正時代から昭和にかけて活躍し、近代日本文学の最高峰の一人として長く影響力を誇った。


一方の「私」、つまりこの文章を書いたのは里見弴。
里見弴が雑誌「白樺」に連載した私小説『君と私と』の一節で、里見が十四歳、志賀が十九歳のころの想い出を書いたものだ。

里見と言っても耳にしたことがない、それどころか「なんて読むの?」という方もたくさんおられるのではないだろうか。

里見弴は、「さとみ とん」と読む。


今や忘れられかけた作家だが、元から無名だったわけではない。
大正時代には広く知られた花形作家の一人だった。その小説のうまさから当時は「小説の名人」とも呼ばれ、かの芥川龍之介とも並び称された。
兄に小説家の有島武郎、画家の有島生馬がいる(里見弴はペンネーム)。

鋭い観察眼と分析力、筆力を持ち、遊郭などの世界や、人の心の機微、生き生きとした会話を巧みにうつしとった。
大正時代の人々は、とおく時間の彼方へ消えてしまったが、里見作品には今でもあざやかに焼き付けられている
時代によってゆっくりと忘却のほうへと押しやられながらも、里見は九十四歳の長命を楽しみ、創作を楽しみ、生涯かけて彼のテーマである「まごころ」を描き続けた。
そんな作家だった。

さて、くだんの文章の通りなら、里見は、志賀直哉へ恋心を持っていたことになるが――実際はどうだったのだろうか。 

里見弴は志賀直哉のお稚児さんで、同性愛関係だった?


実はネットで検索すると、今でも「あるうわさ」を目にすることができる。

里見は志賀のお稚児さん(※非常にざっくり言うと、同性愛関係の受け側。別の記事でまた述べることになる)だったが、そのことを小説に書いたために志賀の激怒を招き、ふたりは絶交した、というのである。
先ほど引用したのは、その際によく引き合いに出される箇所なのだ。

他にもバリエーションがあって、いやいや志賀は里見の兄有島生馬とつきあっていたから里見は片想いだったとか、色々と言われているが、まあだいたい基本的な内容は上のようなものだ。

にわかには信じがたい話だ。

「あの志賀直哉が同性愛? そんな馬鹿な……どうせゴシップ的に大げさに言われているだけだよ
……と、思う人も多いだろう。
そのとおり、ゴシップはオーバーになりやすいものだ。
ご多分に漏れず、この噂にも正しい部分と間違った部分がふくまれている。

この記事では、うわさの真偽について検証していきたい。


実は、根も葉もないうわさではない 


うわさのもとになった事件は実際にあった。
里見が書いた小説をきっかけに一時期ふたりが絶交したのは事実である。
当時、志賀と里見は、文壇内外で親友として知られていた。そのため、ふたりの絶交は大変なトピックだった。

後年、高見順は、志賀直哉との対談でこう述べている。

里見さんと志賀さんとの――
うまく言えないな、
里見さんが離れていかれたのは、
私共は若い時分で、記憶がありますがね、
やっぱり大事件みたいな気がしました。

(高見順 『対談現代文壇史』中央公論社,昭和32年,15)

志賀の弟子としても知られる阿川弘之は、志賀から「自分より自分の事に詳しい」と冗談を言われるほどの志賀ファンで、志賀のぶあつい評伝も出している。
阿川が志賀の家に出入りするようになったのは戦後だったから、ケンカと復縁よりはるか後年だったが、それでも里見との対談で、

それ(※何でも言い合える関係)だけに
けんかなすったり……。

どうも『白樺』のお仲間でみていると、
志賀先生は、ある意味で
里見先生がいちばん好きというか、
楽というか、武者先生には
言えないようなことが
里見先生には言えるというところが
おありになったろうと思うんです。

里見弴「風月無尽」『唇さむし―文学と芸について 里見弴対談集』かまくら春秋社,1983,290

と述べており、やはりよく知っていたことがわかる.

大正十五年出版の『文壇太平記』にも、二人の絶縁についての言及が見られる。

里見は志賀よりも数歳年少であったが、
志賀は里見の並々ならぬ文学的才能を
愛して、全く兄弟のように交わった。

里見も志賀の文学的天分を尊敬して
友の如く師の如く兄事して
二人の間柄は正に親友のそれであった。

当時、志賀も里見もまだ
学習院の学生であったが、
二人は形影相伴う如く、
何処へ行くのもほとんど二人連れと言っていい程だった。

その頃は志賀も里見もよく遊んだ。

吉原や、京都の祇園や、そうした
柳暗花明の巷に
酒を汲む里見の相棒は志賀であり、
志賀の相棒は里見であった。

二人はよく遊んだが、文学に対する熱心は
実に真剣なものがあった。
(略)
ところが此処に一事件が持上がって、
思いがけもなく里見と志賀との
絶交となったのである。
(略)
こうしてあの兄弟も異ならなかった
里見と志賀の親交は破れた。
二人は遂に絶交して了った。 

相馬健作「 文壇盛衰記 白樺の卷」
『文壇太平記 : 附・現代文士住所録、出版法』万生閣,大正15,108

当時ふたりの絶縁が、文壇内外で驚きを持って受け止められ、広く知られていたことがわかる。

志賀直哉のほうは、里見との関係について、どう言っていたのだろう。


志賀本人は、のちにこう書いている。

実は自分は里見との関係に
重すぎるイリュージョンを持っていた。

自分の下らぬ方面もそうでない方面も
全体的に見ていてくれるのは
里見だと考えていた。

もし今、自分が死んだら、
全体的に自分という人間を
正しく描写してくれるのは里見だけだ
という気持でいたところに、

その小説を見ると、
変に下らない方面ばかりを丹念に覚えていて
それを写されたと思ったから、
私は無闇と腹を立てた。

志賀直哉「正誤」『志賀直哉全集5』岩波書店,1999,375

さらに、暗夜行路草稿に印象深いシーンがある。
以下引用する。
「信行」のモデルは志賀。「坂口」は里見である。

志賀(信行)は、里見(坂口)を交えた友人たちと飲みに出る。
里見に対して立腹することがあり(それがなにかはのちほど触れる)、酒で倦んだ空気も不愉快になった志賀は、もう一人の親友・武者小路実篤に出先から電話する。
酒に縁のない真面目な武者小路らと会って、気分を変えたかったのだ。

武者小路は、今すぐ来ないか、と誘うが、志賀は「解散してから行く」と電話を切る。
そして考える。

信行は一刻も早く坂口と別れたかった。
 (略)
左う思いながら、彼には何故か
「別れよう」と云い出す気がしなかった。

これ程の気分でいて、又それを
カナリ露骨に現わして居ながら
何よりも早い「別れる」という事が
何故こうも困難なのか自分でも解らなかった。

彼はこれまでも坂口との関係で
殊にこういうことの
多かった事を想い浮かべた。

腐縁と二人はそれを云っていた
ことなどを想った。

(志賀直哉「暗夜行路草稿20」『志賀直哉全集補巻3』岩波書店、2001,375)

この「腐れ縁」については里見も何度か言及している。
またのちに詳しく検討したい。

絶交は実際にあった。
それまでの志賀と里見は、自他共に認める大親友だった。

なのに、なぜ絶交に至るほどのケンカをしたのか。
どうして、現代でも語り継がれるようなうわさにつながったのか。
すべての謎はそこにある。

どういうケンカだったのか。


里見弴の評伝(『里見弴伝 「馬鹿正直」の人生』)の著者は、評伝内でふたりの関係を「精神的同性愛」と呼んでいる。
また、大正文学研究者の大西貢は、
志賀直哉と里見弴との間には、若き日のある時期、男と男との恋に極めて近い関係があった可能性がある
とさえ述べている。 
仲の悪さのためではなく、その近さが、ふたりを絶交へみちびいてゆくことになった。


中野重治は、それについてこう言っている。

私は、有島兄弟のうち 里見弴とだけ
志賀直哉が親しかったことをおもしろく思う。

おもしろくというのは、人間、
人生の問題としてである。
(略)
しかし志賀は里見とだけ――
「だけ」というのは、いまここで便宜つかう。
――親しくした。

つまり喧嘩して絶交するほど親しかった
このことの中身が、志賀研究者の手で
それほど真剣に扱われぬのは何でなのか。

そう思うが、その状況をしらべた上で
言うのでないから
あまり強くも言えぬ。

しかし或る程度、それは事実だろうと、
また事実だったろうと私は取っている。

そこに人間の言葉通りのおもしろさと、
ちゃんとはまる言葉が出てこぬが、
そこで行きどまるほどの真面目な問題が
出ているように思う。
思うことがある。

中野重治「書いておいてほしいもの」『中野重治全集28』筑摩書房,1980,154)


二人の間にあったものは、なんなのか。
そこには、中野の言を借りると、まさに「人間の言葉通りのおもしろさ」と、「そこで行きどまるほどの真面目な問題」があった。
 

それでは、ふたりの物語をひもといていこう。





〈参考文献〉
都度書いていくようにしたいが、以下は全体を通して参考にさせていただいた。 
特に大西先生の各論文からは大きな示唆をいただいた。感謝を申し上げたい。

  • 小谷野敦『里見弴伝 「馬鹿正直」の人生』中央公論新社,2008

  • 志賀直哉『志賀直哉全集』岩波書店,1998-2002

  • 大西貢「志賀直哉と里見弴との間柄」愛媛大学法文学部論集. 人文学科編 1 1-42, 1996


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?