父親から観る自己形成と自分の役割

私が一人暮らしを始めてから25年が経過しようとしている。歳を追うごとに実家へ電話することも多くなってきた。当然、仕事を変えたりするタイミングなどにも電話する。東京から北陸に移住に際しても実家に電話した。

母親については特に何も言われないのだが、父親については、結婚もせず一人暮らしを続ける自分に対し、一時期は不信感みたいなものを持っていた。ただ父の心配事は、孤軍奮闘せず会社の人たち含めた周りの人たちとうまくやって変な事して無いかだけだったので、それらの問題ないと解った時点から、関係は良好となった。
北陸引越の件で父と話をした際、「ここで落ち着くのか?」と聞かれ、「そうだ。」と答える。「嫁さんの方はどうなんだ?」と振られ、のらりくらりとかわす返答して、通話が終わるという感じで、この件の電話は終わりとなった。

父親は"忍耐の人"

思い返してみると、現役の頃の父親は絵にかいたような仕事人間だった。仕事から帰ってきた時はたいていの場合はひょうひょうとしていて、たまに仕事で嫌なことあった時など不機嫌になる事もあったが、ウチの中に仕事を一切持ち込まない人だった。ただ一方で、寝る直前に仕事の本を読んだりして、目に見えない努力をする人でもあった。
そういった努力もあって、一流会社の中でそれなりの地位にまで昇進。かつ、毒を吐く母親ともコミュニケーションとりりつつ自分を育て上げてきたというところは、やはり忍耐の人だったんだなぁという事がだんだん理解できるようになった。

定年枠で暫く会社で働いた後、余す時間使ってゴルフをしたりたまにパチ屋行ったりの”典型的な団塊世代の老後”の過ごし方を暫く満喫していた。
3ナンバーのクロスオーバーSUVに乗って地元の行きつけのゴルフ練習場に週何回か通う。元より運動神経抜群で器用な人なのでゴルフの腕前もいいので色んな人が興味持って関わってきたらしく、世間的にはあまり宜しくない人とも一時期仲良くなっていった。でもそこはウチの父。いくら仲良くなってもその人の誘いには絶対に乗らない。”家で食事でもどう?”と言われても、絶対に誘いには乗らなかった。おそらく家族の事を常に心に置いておいて、家族を巻き込まないようにと思っていたのだろう。徹頭徹尾家族への愛を貫いてる人の所作なのかもしれない。

老人会ではモテモテ

そんな父親が老人会デビューして団地の人たちと本格的に関わるようになってきた。その時から、団地では一目置かれる存在になった。
前出のように器用に何でもできる人で、相手の事を心に置いて行動できる人であるから、一目置かれるようになるのは当然の成り行きではあるのだが。ある意味”ボランティア精神”で人と関わり良い種を撒き続けてきた。その御蔭で、ご近所の人がお礼にとよく施ししてくれるようになり、アイスやら食事やらを持ってきてくれるようになった。

代表的なエピソードがある。

老人会メンバーで一人暮らしをしている80代のおばあちゃんが居る。それを不憫に思った50代の息子さんが血統書付の子犬を寂しいからと買っておばあちゃんにプレゼントした。ところが、その子が盗まれてしまう事件が起こる。すぐに警察に届け出て、遺失物届ということで返事待ち状態となっていた。
私が実家に帰省している時、たまたま実家の方にそのおばあちゃんが来て、行方不明のワンちゃんの事でうちの父に相談に来られた。私も事情が解らなかったので、とりあえず県の保健所のHPを検索して伝えようとしたところ、父から、
「そういうことじゃないんだよ。」
と言われ、父はおばあちゃんと一緒に近所の交番まで歩いて行った。

父が何を言わんとしてたかというのが解った。
やれることは一通り対処してやっているが、独り暮らしの母を思って息子さんがプレゼントしてくれた大事な子犬。回答待ちとは言え不安もあり、感情的に腑に落ちないところもある。そこを父は察して一緒に交番まで散歩がてら憤懣やる方ない思いをただ聞いて差し上げてたんだなということが解ってきた。心を扱うということがこういう事なんだなということを父から学んだ瞬間でもあった。

救急搬送、そしてご近所さんから父の話を聞く

そんな元氣で器用で思いやりのある器の大きい父であるが、数年前のある日突然トイレの中で倒れ、病院に救急搬送された。
大動脈瘤の破裂。死の淵をさまよいICUにて9時間の手術を想定していた。その時は私も覚悟していたのだがもとより頑強な体であることが幸いし、また過去の手術跡を見た医師たちが直前に術式を変更。カテーテル式でオペを行い、3時間の手術で完了。2日目ICUにて父は意識を取り戻し、3日目で一般病棟に移されることとなった。

大事には至らずではあったが、峠を越した後に母親が軽く気が動転していた。そのため、私が急遽父のお見舞いに行くことになり、その際にご近所さんのAさんのお車にて、病院に見舞いに行くことになった。
その道中、Aさんと父親のことについて話をした。思った通りかなりの人氣者であるものらしい。保育園行けば子供たちが集まるし、その他色々老人会の会長として細かく指示したり相手の事を思ったり考えたりしながら行動している、と言う事もAさんから聞いた。

相手の事をちゃんと心に置いて動いてるという事は私も近くで見て理解してたので、自分も同じことを思っていた事。またNPO法人の理事として自分も時に厳しくほかの理事メンバーにはっきり意見述べたりしている事など、車の中でAさんと話した。

そんな他愛のない事を話して暫く後の事、あの話から今度は私までも噂されるようになる。
「紅さんの息子さんは物凄い優秀ですねぇ。」
人に褒められたことはあまり無いどころか、何かこそばゆい感じになるので、うれしいというよりもあんまり素直に認めたくは無かった。いやそもそも、人を思いやるって当たり前の事じゃん。何も褒められるような事じゃねぇし。
父親も同じ性格のようで、素直に認めてないところもあるようだ。
老人会の人たちが一緒に広島旅行する話があった時など、当然父も誘われたのだが、
「老々介護なんて冗談じゃねぇ!」
っと言って一蹴したそうな。
自分も変に褒められて見て、父親がそのセリフを何故言ったのかが解った。

父親を観て解った自分の役割

この一連の流れを改めて整理してみて、自分の役割が見えてきたような氣がした。
社会人になってから、どういう訳か女性の社会進出とかジェンダーの問題とかに関わる機会が多く、何故そういうところとのご縁があるのかが不思議でならなかったのだが、今理解ができた。
思いやりの心のある父親と、父親に文句言いながら愛されて来た毒親の母親を見せられたことが根幹にある。
そういった傷つき不安定になっている女性を助けるのが自分の使命、つまりそういうことなのだと思う。

ドラマなどで女性が物理的にも心も傷つけられているシーンを見るとそれだけで義憤心が込みあげてくるのだが、今まで彼女をつくった事無い自分がなぜそういう氣持ちになるのか、ようやく理解できた氣がします。
(了)

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