月の耳【#シロクマ文芸部】
月の耳――という動画シリーズがある。見つけたのはまったくの偶然だった。
表示されるのは1ミリも動かない月の画像だけ。新月の日にはまっくらな夜空。満ち始めると細い月。月齢11.9にはふっくらとした楕円形。満月の日には皓々と輝く丸い月。
流れる音はどこか遠い居酒屋のざわめきだったり、猫の甘え鳴きだったり、かちゃかちゃと何かを組み立てる音だったり。
聴いているうちに、ふと気づく。
これは、誰かの「夜」だ。
同じ人ではないと思う。きっと、それぞれ違う、それでいてどこか似た人たちの、夜を過ごす音。
この人はひとりでお酒を飲んでいる。この人は家に帰ってひと息ついたところ。この人は趣味に没頭。それからこの人は……。
彼らの「夜」はまるで、私に寄り添ってくれるかのようだ。ひとりじゃない。そんなふうに思える。
月の耳はいつも深夜に投稿される。私はそれを心待ちにする。私はひとりだけどひとりじゃない、それを知るために、ひたすら待つ。
ある夏の夜のこと。
仕事を終えて帰宅、シャワーを浴びてミネラルウォーターを飲み、大きくため息をついた。
いつも通りの1日。いつも通り、増える仕事と増えない給料。疲れきって帰宅すれば、迎えるのは静寂だけ。
そういえば、今夜の月は。
私はカーテンを開けた。そこに、青白い青年が浮かんでいた。
驚きのあまり、私は声も出なかった。
「こんばんは。月の耳です。あなたの『夜』を録りにまいりました」
はっと思った時には、私の耳からぽこんと何かが飛び出した。ふわふわただよう、ビー玉みたいな何かだ。青白い青年が手を伸ばすと、ビー玉は彼の手の内に収まった。
「ありがとうございました。それでは、今夜の投稿をお楽しみに」
待って。今夜は私の「夜」が投稿されるの?
尋ねる暇もない。一瞬ののちには、彼の姿は幻のように消えた。
午後零時、私はスマートフォンにかじりついていた。ぽこんと通知が鳴って、月の耳の新しい動画が表示される。
震える指で再生ボタンを押した。
かたん、かたたん、かたん――そんな音が流れ始める。次の停車駅をアナウンスする声。立ち上がり、歩き出す足音。しばらくはこつこつと規則正しい音が続く。それから立ち止まって、鍵が回って、扉の開く音。静かな静かな、部屋の中。
ああ、これは私だ。
恥ずかしかった。何を勝手にと、怒りたい気持ちもあった。薄気味が悪くもあった。あの、とても人間とは思えない青白い青年が何者なのかも気になった。
けれど、私は思ったのだ。
これを聴いた誰かが、呟くかもしれない。
「私はひとりじゃない」
誰かの「夜」が流れて、どこか遠くの別の誰かに繋がる。言葉もなく、脈絡もなく。
そこに意味などなくとも。
私はそっとスマートフォンを閉じた。窓の向こうには、上限の月がかかっている。
こちらの企画に参加させていただきました。
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