包丁を持たない女

「包丁ぐらいまともに持てんのか」
田舎の長女として生まれた私は、罵声を浴びながら育った。
上手にできて当たり前、できなかったら人間以下。これは掟だ。
 
リンゴの皮を剝くときに、皮剥き器を使おうとしようものなら
「出来損ないが!」
「リンゴの皮くらい包丁で剥けんで、どうするんだ」
とヤジられたあげく、リンゴ本体を奪い取られた。私の口に入ったのは皮だけだ。
 
 10歳の時まではその〝有り難い教え〟に従って、包丁を握っていた気がする。私も料理が得意な女の子になりたかった。だってアニメの主人公
 でも確かそれは冬の頃。包丁で梨を剥く時に私はザックリと指を切ってしまった。誰もいない冷えたキッチンに淡い異音が響く。痛かった。イヤ痛いというより熱かった。ザックリ割れた皮膚から血が滲み出てくる。でも、私は剥きかけの梨が気になって仕方がなかった。食べ物を血で汚したらなんて言われるか…。

 応急処置の方法を本で読んでいたから意外と冷静だった。傷口をギュッと抑えてみる。
 初めこそ〝あ~あ、やっちゃった〟〝指切ったこと隠さなきゃ〟と知恵を使っていたが、次第に痛さに呑まれるようになった。痛い。凄く痛い。怒られるかも知れない、でも凄く痛い。葛藤した挙句、梨とまな板をキレイに流水で洗ってから母に助けを求めることにした。これなら食べ物を汚したことにはならない。
 ティッシュに血がにじんでいる。別室でテレビを見ていた母親に恐る恐る「手を切った」と言ってみたが、機嫌が悪かった母は「お前がトロイからだ」と手当もせずどこかへ行ってしまった。
 だから仕方泣く私は、冬の冷えたキッチンで自分の指に絆創膏を貼った。
 
 それからだ、私は包丁が怖くなってしまった。
 別に包丁自体は怖くはない、でも切った後のあの痛み。ギザギザの傷口に自分で絆創膏を貼らなきゃいけない恐怖。そして、にじみ出てくる血…。もし、また指を切ったらと思うともう怖くて包丁で何かを切ろうとは思えなくなってしまった。
 
 家族の誰一人として私が包丁を持てなくなった理由を聞いてこなかった。
「女なのに包丁も持てない。女なのに料理もできない」
そう言われ続けて育つうちに、私は料理と料理に関するもの全てを恨むようになった。
 
 初めての一人暮らし。私は喜々としてキッチンのない部屋を選んだ。6畳しかないその部屋には、お風呂もトイレもなくて、押し入れと窓、6枚の畳だけが私のスペースだった。少しでも雨が降ると、畳にカビが生えて大変な目にあう。住居としては最悪な部類。でも私は自由だった。
 
 お腹が空いたときは、歩いて5分のスーパーでリンゴを買った。リンゴは好きじゃない。でも部屋には冷蔵庫がなかったので、常温で長く保存できる食材としてはベストだった。
 
 湿っぽい部屋に転がってリンゴを齧っていると、頭の中で時々声がした。
 「リンゴの皮くらい、まともに剥けんのか」
 
 「剥けませんよ。だってこの家に包丁ないし」
 一人になった私は負けなかった。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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