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ごはんマシンに変身するわたしと、疲れて帰ってきた日のごはん作りについて

ツイッターで夜中に何気なくつぶやいた「考えない料理」のツイートにすごく多くのいいねがついて、料理は大変に思われているのだなあと、料理を仕事にしている私としては複雑な気持ちになった。

「疲れた時に考えるな」は、料理に限らずクリエイティブな仕事全般に言えること。でも他の仕事と違って料理は今の必要に迫られるから、待ったがない。
私はたぶん普通の人より料理が上手で手早く、しかも料理そのものも好きだ。そんな私ですら締め切りを3つ抱えてテンパっているときに、もう夕飯の時間か…と思うとうんざりする。

さて、このところ、自分が「ごはん作りマシン」に徹するとちょっと楽になることに気がついて、以前より負担は軽くなった。
「ごはん作りマシン」というのは、感情は込めずにそこそこおいしく食べられるごはんを作るロボットだ。AIは搭載しない。学習しない。

疲れて帰ってきたときは思考が鈍っている。誰もが「わたしだって疲れてさえいなければもっとおいしい料理ができるはず」と錯覚するのだが、ここが落とし穴だ。
王様の冷蔵庫でもない限り、買い物せずに家に帰って冷蔵庫に迷うほどの食材がある家は少ない。そして自分の料理の腕前はシェフのそれではない。
「家にある」×「自分ができる」で導かれる料理は疲れていてもいなくてもせいぜい2種類か3種類ということに気がついて、認める。あとはその料理をただ忠実に作るロボットに変身したつもりで、クールにごはんを作る。

作業としてのごはん作りは、そんなに難しいことではない。それに、味のすぐ決まるたれや調味料、冷凍食品や缶詰やレトルト、レンジ、キッチン道具、今の時代いろんなものが揃っていて「できないわたし」を助けてくれる。
肉と野菜をフライパンで炒めて焼き肉のたれをかけて丼ごはんにのせる、市販のパスタソースをかけたスパゲッティ、野菜をレンジでチンしてマヨネーズ。栄養はカバーできて経済的、ふつうにおいしい。実際これで何の問題もない。

でも、私はマシンではないから、機械的に作る食事を続けていると、ちょっとつまらなくなってしまう。「そうすれば簡単だってわかっているけどさ…」っていうやつだ。食事作りの悩みの中にあるごちゃごちゃした混乱は、実は楽しみの素でもある。それは発酵と腐敗が表裏なのとちょっと似ている。

人によっても違うと思うけれど、ごはん作りの悩みは、おいしくて素敵なごはんを作りたい、食べさせたいという気持ちがあって生まれるものだ。その気持ちを捨ててマシンになり切ればいい、という方法論は、一時的な避難所にはなるけれど、日々のごはんづくりに悩む人たちのほんとうの悩みには答えていない。

じぶんの気持ちが納得できるところにある簡単さ、それこそが、本当の「楽」なごはんづくりなんだろうな。そこについて今、考えている。

『帰り遅いけどこんなスープなら作れそう』(文響社)より、ねぎ塩茶漬け。鶏肉と長ねぎを塩味で焼いてごはんにのせて、お湯かけるだけ。


読んでくださってありがとうございました。日本をスープの国にする野望を持っています。サポートがたまったらあたらしい鍋を買ってレポートしますね。