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スープの理由と、少し未来のキッチンの話

2冊目のスープ本『帰り遅いけどこんなスープなら作れそう』が、文響社から発売となった。昨年4月から準備してきて、ようやく。丸善ブックセンターに並んでいたよという夫のLINEを見て、なんだか少しほっとした。

毎朝のスープ作りが丸6年となって、わたしは2011年から2200食以上のスープを、毎朝SNSで紹介してきたことになる。

いろいろな人から「どうしてスープなんですか?」とよく聞かれる。さいしょは朝に弱い息子のために作りはじめた。その息子も学校を卒業して就職し、家を出てしまった。それでも私はスープを日々作り続けている。

スープといったら、ごはんの添え物みたいに思っている人のほうが多いと思うけれど、だれもが忙しくなって料理にあまり時間がかけられなかったり、料理の腕があまりなくて作れなかったり、あるいはそもそも食べることに興味が持てなくなっていたり、そんな今と、これから先、スープはもっと生活の中心になってくるのではないかと、この6年間鍋をかき混ぜながら思っていた。

スープの歴史は、ひとびとの生活そのものだ。大きな動物の胃袋に水と肉を入れて縛ったものを鍋代わりに火の上に吊るして人はスープを作った。スープはたき火で肉を焼くより無駄が出ず、貴重な食料を水でうすめて大人数で分けられる。そのままじゃ硬くて食べられない穀類や木の実もやわらかく消化よくなって食中毒も減るし、子供や年寄りも生き延びられるようになった。これは2018年の現代でもかわらない、スープの魅力だ。

コーンポタージュ、コンソメ、ボルシチ、ふかひれスープ、トムヤムクン、クラムチャウダー、オニオングラタンスープ。名前を聞くと食べたくなるごちそうスープはたくさんある。でも、たぶん多くの人たちが食べてきたのは、手近にあるありあわせの野菜や穀類や塩漬け肉の切れ端、なんでも鍋に放り込んでひたすら煮て、ただ塩で味をつけたような「名もなきスープ」だ。宮崎駿のアニメの主人公が食べているような、出かける前に一皿でちゃちゃっと食事を済ませるためのスープ。

昔は、スープの入った鍋をストーブにかけっぱなして、洗わなかったという。残ったところに次の素材をつぎ足して、食べていたのだ。今ならさすがに衛生上鍋ぐらいは洗った方がいいかもしれないけれど、そのぐらいシンプルな考え方でいい。一人増えたら少し水を足し、誰かの帰りが遅くなったら作り置きをさっと温める。翌日もまた食べて、ジャーに入れてお弁当に持っていく。

それに、実用性だけでなくスープには人の心を元気にする力がある。不安や悲しみ、疲れをかかえているときに、スープはやさしく沁みわたる。家族や恋人同士や気の置けない仲間でひとつ鍋を囲むのは、これ以上ないコミュニケーションの方法だ。上下ではなく、同じ料理を一緒に食べるというフラットな関係がそこにはある。

今の時代、食事はレストランでもコンビニでも十分まかなえるだろう。だが、長い目で生活の質というものを考えたとき、やっぱり料理というのは有効な方法だ。簡単な料理でも自分の健康や時間や経済を細やかにコントロールできる。そのことを感じられさえすれば、料理は面倒なお荷物から、自由に生きるための武器になる。

日本の家庭料理は和洋中があって食べ方も多岐にわたる。専業主婦の減少や少人数家庭にシフトした社会背景などもあり、できないほうが当たり前ぐらいの高度なものになってしまった。
時間がなくて料理を楽しむ余裕がないのであれば、これまでの考えを捨て、なるべく簡素に、それでいて豊かさをキープするような家庭料理のスタイルを考えていかなくてはいけないと思う。
具のたくさん入ったスープは簡便と、栄養と、節約と、満足感がすべて満たせるという点で、これからの食卓にぴったりなのだ。

ひとつ予言めいたことを示すなら、おそらく、今の生活のスタイルによりフィットした新しい形のキッチンが近い未来に生まれる。新しいキッチンや、そこにつながるダイニングには、スープがとても似合うはず。

そのときのために、私は今日もこうしてスープを作っているのかもしれない。

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スープのレシピ本も、おいしくたのしく発売中です!

帰り遅いけどこんなスープなら作れそう ~ 1、2人分からすぐ作れる毎日レシピ ~ 文教社


読んでくださってありがとうございました。日本をスープの国にする野望を持っています。サポートがたまったらあたらしい鍋を買ってレポートしますね。