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添削屋「ミサキさん」の考察|47|『文章の書き方』を読んでみた⑰

|46|からつづく

――漢字の割合について

 「字面というのは大切です。」と辰濃さんは言います。

 漢字が多すぎると、硬い感じがします。逆にひらがなが極端に多いと、読みにくい。では漢字とかなの割合はどのくらいがいいのか。これも、一概にはいえません。人それぞれの好みもありますし、書く内容によっても違ってきます。ただ、私の経験でいえば、漢字の割合が五割を超えると硬い感じになります。

 さて、この網のかかった文章の漢字率は27%だそうです。

 漢字とひらがなの割合やひらがな表記にしたほうがよい漢字の話はよく言われることなので、これだけにしておきますが、字面、同時に文章のリズムにも関係してくるポイントです。

――カタカナ言葉について

 これは、この本が書かれた90年代前半よりもはるかに現在カタカナ語は氾濫しており、ちょっと押しとどめようがないですね。なので略しますが、「外来語の使い過ぎは日本語の健康のためによくありません」という言葉は記憶にとどめておきたいですね。安易なカタカナ語の使用は控えるべきだと私も思います。でも、現代ではカタカナ語が当たり前になっている言葉をあえて日本語表記すると、かえって不自然になってしまうんですよね……。

――体言止めについて

「これも好みの問題ですが、私自身は体言止めの乱用を戒めています」とのことです。

例として、次のような文章が挙げられます。
「派閥ぎらいの人。好きなのは赤ちょうちんでひとり静かに飲む酒。『私は人間ぎらい。だから政治家としては失格かも』とポツリ。大衆政党の党首としての、自分自身の限界を知りつくしているようなさめたところも」

この文章を、助詞止めや体言止めを使わないようにした文章の例が次です。
「派閥をきらい、赤ちょうちんで静かに飲むひとり酒を愛した。かつて『私は人間嫌いだから政治家としては失格ではないかなあ』ともらしたことがある。大衆政党の党首としての、自分自身の限界を知りつくしているような、さめたところがあった」

さて、辰濃さんは「このほうがずっと読みやすい」と述べているのですが、私個人の意見では、実はそうは思いません。どちらかというと、前者の文章のほうが好みです。

新聞記事と小説の文章という違いはあると思いますが、体言止めは小説の性格やシーンによってはよい効果を発揮すると思っています。確かに「好みの問題」はありますね。

ただ、次の言葉は頭にとどめておきたいと思います。

 体言止めや助詞止めは和歌や俳句に多いし、新聞の見出しや辞書の説明にも多い。散文にも体言止めの歴史があることは認めます。しかし、散文の場合の体言止め、助詞止めは、言葉を疎略にすることにはならないか、と私は思います。私たちはメモや日記では体言止めを多用します。それはそれでいい。しかし、読者になにかを伝える文章が疎略になってはいけません。谷崎潤一郎は書いています。「いやしくも或る言葉を使ふ以上は、それを丁寧な、正式な形で使ふべきであります」
 簡潔と疎略とは違います。

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