見出し画像

添削屋「ミサキさん」の考察|15|「『文章術のベストセラー100冊』のポイントを1冊にまとめてみた」を読んでみた⑮

|14|からつづく

1⃣接続詞は「使いすぎ」も「使わなすぎ」もダメ

(接続詞の重要性について説いていた)20冊の著者は、全員、

接続詞を使うと文章がわかりやすくなる

との意見で一致していたそうです。

◇接続詞を使ったほうがいい4つの理由

・接続詞で文をつなぐことで、論理展開を意識しながら書くことができる。
・接続詞を使ったほうが、論理が破綻しにくくなる。
・書きなれていない人は、接続詞を使わずに文をつなぐのが難しい
・接続詞のあとの文を強調できる

「『文章術のベストセラー100冊』のポイントを1冊にまとめてみた」73ページ

『考える技術・書く技術』(講談社)の著者、板坂元さんは、全体をひとつづきの流れに見せ、段落がブツ切りになっている印象を与えないように、つなぎ言葉(接続詞)を用いたほうがいいと主張しています。
大事なことをくり返したり、『しかしながら』『ところで』『つぎに』『これに反して』『このように考えてくると』などというつなぎことばを用いて、全体のまとまりをつけ、話の流れを途中で切らないように、たえず配慮しなければならない

「『文章術のベストセラー100冊』のポイントを1冊にまとめてみた」74ページ

一方で、接続詞を使う頻度については、意見が分かれています。「接続詞をもっと使うべき」と主張する著者もいれば、反対に、「接続詞はなるべく少なくすべき」という著者もいました。

同上

◇接続詞を少なくしたほうがいい3つの理由

・文章がすっきりする
・接続詞が多いと、文章の勢いや流れをさえぎってしまう
・接続詞を使わなくても伝わるように書くことが、文章力向上のコツである

「『文章術のベストセラー100冊』のポイントを1冊にまとめてみた」74ページ

意見の分かれる問題なんですね。
私が思うに、文章の性格によってもそれぞれ違うように思います(小説・記事・論文・エッセイなどなど)。
また同時に、今日パソコンで書いて体裁を整えることが多いので、接続詞がなくても何となく伝わるということも増えているように思います。
たとえば、このnoteを使った文章でも、網かけで書けたりしますよね。
そうすると、文章だけでは接続詞を入れないとしっくりしない文章も、字体とか網かけとかの効用で、入れなくても分かりやすくなるということもあるのではないかという気がします。
ただ、それに甘えて文章それ自体の力を損なってはいけないというのが私の意見です。
ですので、接続詞について理解を深めるのは重要だと考えています。

接続詞の4つのルール

①なくても意味が通じる場合は、削除する。
②「順接」(「だから」「それで」など)の接続詞は、なくてもいい場合がある。
③「逆接」(「しかし」「だけど」「でも」など)の接続詞は、あったほうが、文章が伝わりやすい(後述)。
④論文では、接続詞が多くなってもかまわない。論文は、整った日本語を書くこと以上に、「論理展開を正しく読者に伝える」ことが目的なので、必要なところにはしっかり入れる。

「『文章術のベストセラー100冊』のポイントを1冊にまとめてみた」75ページ

④のところで、やはり論文の文章は考え方が違うと述べられていますね。そうだと思います。

接続詞がなくても意味が変わらない例

・父は経営者であり、また、マラソン選手でもある。
・ルールを変更することになりました。なお、詳細は添付資料をご確認ください。
・料金を変更しました。したがって、次回より請求金額が変わります。
・今日は仕事が休みだ。だから、部屋の片づけをしよう。
・入場料は3,000円です。ただし、メンバーに限り無料でご入場いただけます。
・沖縄にはおいしい果物がたくさんあります。たとえば、マンゴー、パパイヤ、シークゥ―サー、パイナップルなどです。

ためしに「取り消し線」を入れてみました。

さて、いくつかの例文を見てみましょう。
手持ちのジャンルの違ういくつかの本を見てみたのですが、小説の場合はやはり接続詞は少ないですね。
論文・ノンフィクション・記事などが多い気がします。

まずは、哲学を論じた松浪信三郎著『実存主義』(岩波新書)より。

 ところで、サルトルは、この講演のなかで、いちがいに実存主義といっても、二つの流れがあることを指摘する。一方は、キリスト教的実存主義で、彼はそのなかにヤスペルスや、ガブリエル・マルセルをかぞえる。他方は、無神論的実存主義で、彼はハイデッガーや、フランスの実存主義者たち、つまりメルロー・ポンティ、ボーヴォアールらをこれに属させ、かくいう私自身もこの方の部類だと言明する。では、両者がともに実存主義といわれるのはなぜであるか? それは、人間にあっては、「実存が本質にさきだつ」ということを、両者がともにみとめているからである。いいかえれば、両者がともに、「主体性から出発しなければならない」ということをみとめているからである。

『実存主義』

 実存主義者たちは、特に人間の孤独――置き去りにされ見棄てられた人間の姿を強調する。だが、サルトルに言わせれば、人間の孤独とは、いいかえれば、神は存在しないということであり、また、この事実から一貫してすべての結果をひきださなければならないということである。或る種の世俗的道徳は、神の存在を無用で有害な仮説と見なしながら、しかも社会的秩序や文明世界が存続するためには、幾つかの価値がア・プリオリに存在し、従前どおり神聖なものとして通用しなければならない、という妥協的な態度をとる。……けれども、無神論的実存主義を宣言するサルトルは、反対に、神が存在しないのはまことに厄介千万なことだと考える。なぜなら、神が存在しなくなると同時に、もろもろの価値を神意のなかに見いだす可能性も失われるからである。「もし神が存在しないならば、すべてが許されるであろう」とドストエフスキーは書いているが、事実、そこに実存主義の出発点がある、とサルトルは言う。それゆえにこそ、人間は孤独なのである。というのも、人間は、寄りすがるべき可能性を、自分のうちにも、自分のそとにも、見いださないからである。……

『実存主義』

哲学を論じているので内容はとても難しいのですが、接続詞、接続句が多用され、それで文章が成立していることは見てとれるのではないかと思います。

つづきでもいろいろなジャンルの文章を見ていきます。

|16|につづく



Webライター 兼 添削人。あなたのサポートはnoteを運営するうえで有効に活用させていただきます。